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✦︎第4話 仕事
仕事中、政宗はPCを操作する手を止め、画面をぼーっと眺めていた。
昨日の夜、政宗はあの部屋を出たあとでどう帰ったのか覚えていなかった。唯一、父は顔色一つ変えなかったことだけは覚えている。
……ファーストキス、だった。
思わず唇に指を当てる。昨日のことを思い出した瞬間、妙に落ち着かなくなった。二十五にもなって、今さらそんなことを気にするのかと自分でも思う。だが気になるものは仕方なかった。
初めてのキスはもっとこう、好きな相手とか、付き合った相手とか。キスするまでのじれったい時間とか、そういうのがあると思っていた。
自分が初心なのかそれとも単なるロマンチストなのか、そんなどうでもいいことが気になる。そもそもあいつはなんでキスしたんだろう。
そんなことを考えながら昨日初めてキスをした唇をなぞっていると、ふと後ろに気配を感じた。
「大路、ログ抽出のフィルタ条件ズレてるぞ。監査用レポートだろこれ」
「へ?」
気が付けば上司が後ろに立っていた。驚いた政宗がそのまま立ち上がり、「あ、す、すみませんっ」と頭を下げる。しかし思ったより大きな声が出ていたのか、周囲のキーボードの音がぱたりと止まる。いくつかの視線が刺さって痛い。
「いや、いいけど……どうしたんだお前」
目を瞬かせた上司が不思議そうにそう言うと、政宗はすごすごと座り直す。
「……なんでもないです。すみません」
そう謝罪を重ねると、上司は変な顔をしながらも納得した風に頷いた。
「お前がミスするって珍しいな。今日中に再抽出して、レポート差し替えといてくれ」
そう言って上司が踵を返す。去り際、上司が政宗を振り返る。
「大路」
「はい」
「……なんかあったら話聞くぞ」
「ありがとうございます……」
そう言うしかなかった。
はぁと息をついて肩を落とし、退社ボタンを押した政宗はオフィスのエレベーターに乗り込む。階数ボタンを押す寸前、政宗は上下と開閉の四つのボタンしかないエレベーターのことを思い出していた。
今頃あいつは、まだ地下にいるのだろうか。
ぼんやりしていると、エレベーターのドアが閉まる。すぐにまた開いて、次に乗り込んできた上司がまだ同じフロアに留まったままだった政宗を見て驚いた顔をする。
「大路?」
「あ……どうも……」
ようやく行先階数のボタンを押して、エレベーターが動き出す。上司は優しく、会社を出る直前も政宗に「お前の頑張りは知ってるからな」と笑って背中を叩いてくれた。
普通だ。
会社を出て、自分の車に乗った政宗は静かに自宅へ向けて白のクラウンを走らせる。思い出すのは、父の仕事場で見たあの白い部屋。……気持ち悪い。なのに、頭から離れない。
この日常を、手放したくない。今ならまだ、父の仕事の裏側やあの男について、知らなかった振りができる。
だが本当に、それでいいのか?
信号待ちのあいだ、政宗はふと、目先の道を直進すれば昨日のパーティー会場に辿り着けることに気が付いた。どうするか、ハンドルを持つ手に変に力が入る。そのあいだに頭の中にはいろんな言葉が浮かんでは消えていく。
あいつが望んであそこにいるのか、それを調べるだけだ。調べて、どうしようもなくイカれたやつだったら、それで帰ればいい。
でなければ、あんなのが、普通なはずがない。
ハンドルを持ち直して、政宗はアクセルを踏んだ。
先日のホテルに辿り着いたは良いものの、政宗はホテルに入ってすぐ立ち止まった。
受付で、なんと言えばいいのかわからない。
「どうされましたか?」
フロントの前で右往左往していると、スタッフにそう声を掛けられる。政宗は恐る恐る近付き、そして声を掛ける。
「あの……俺はここのオーナーの息子の大路政宗です。部屋を案内してもらいたいんですが。えっと……ナンバー3?」
「……かしこまりました。少々お待ちください。確認致しますので、上階のラウンジをご利用ください」
受付スタッフの声が揺れた。それからスタッフが手元のパソコンを操作する。政宗はそれを尻目に、ラウンジに向かった。
会いに来てよかったのか、悶々とする政宗の顔がコーヒーの黒い水面に浮かんでいる。あの男と話をして、納得したら、帰る。それでいい。そう言い聞かせながら、政宗は膝の上で何度も拳を開いたり握ったりしていた。
しばらくすると受付にいたのとは別のスタッフがやってきて、政宗の前で膝を付く。
「確認が取れました。お部屋は現在使用中です。よければご利用の前に、見学なさいますか?」
「あ……はい」
利用、という言い方に引っかかりを覚えた政宗は言い淀んだが、言い返す度胸もなければ他になんと言っていいかわからなかった。
スタッフに案内されて、昨日とは違うルートで案内される。「STAFF ONLY」のドアに入ると、すぐに別のスタッフが「こちらです」と引き継ぐ。何度かのスタッフの交代を経て、あの階数表示のないエレベーターが再び目に入る。
今度は政宗だけが乗り込んだ。スタッフが下のボタンを押し、それから無言で見送られる。音もない、静かな箱。ドアが開くと、今度はマスクを付けたスタッフが控えていた。手には昨日、父から渡されたのと同じマスクがある。
「これを。……こちらへどうぞ」
受け取った政宗は戸惑いを覚えながらも自身の顔にそれを装着し、スタッフの後をついていく。
目の前にあるのは黒塗りのドアだった。スタッフがドアを開けるが、政宗だけが中へ通される。二重扉になっているそのあとの一枚を、中にいた別のスタッフが開けてくれる。もう何人目のスタッフに遭遇したか、わからなかった。
「こちらへ。音声は内部保存のみです」
スタッフが示した、丸椅子に腰掛ける。天井の低い部屋は涼しく、壁一面にいくつものモニターが埋め込まれている。画面にはなにかが映し出されている。
白い空間。……昨日の部屋だ。
隅の方に《LIVE》と表示された画面の真ん中で、なにかが動いている。その前には二人の黒服が座っており、ヘッドセットをしたまま、モニターを見つめていた。時折キーボードの打鍵音が聞こえる中、よく聞くと画面の向こうからかすかに声がした。
『気持ちいい?』
そんな声がはっきりして、それからさほど大きくはないモニターの表示が切り替わる。アングルの変わったカメラが彼の表情をズームで追う。政宗は目を見開く。……あの男だ。
顔のいいあの男の前には、恰幅のいい男性がいた。政宗がつけているものよりも派手な装飾のついたマスクをつけている。髪が整えられていて、肌艶の良さから上流階級の人間だと判断できた。
『もっと、して』
聞こえてきたその声は、昨日聞いたものとはまるで違っていた。音として認識したその言葉の意味を理解したのは、その数秒後だった。
先日のあの部屋で見た彼が、マスカレードマスクをつけた客の上で跨り、腰を揺らし、熱っぽい声を上げている。どこを切り取っても絵になる手つき、目線。彼自身も反応を示しており、本気で楽しんでいる顔をしていた。
少なくとも、政宗の目にはそう見えた。
男が姿勢を変える。客を受け入れやすいように、先に動いているのがわかる。
『あっ、あ、はぁ……っ』
不規則に揺れる官能的な声が聞こえてきて、政宗の心臓がより一層跳ねる。そこでなにが行われているのか、嫌でも理解できてしまうのが気まずかった。
目の前にいるスタッフは黙ってそのモニターを見つめている。たまに打鍵音が聞こえるだけで、それは政宗の職場で見る光景とほとんど変わらなかった。耳を塞いで目を覆いたくなるのに、だからこそ、これは仕事だ、と頭のどこかが先に理解していた。
しばらくして、彼が男の首に手を回す。カメラが寄る。一瞬、音量が上がる。
『好き……好き、もっと……っ』
それは昨日自分に向けられたものよりも一段と高く、ほんのわずかに艶があった。甘い声が、ずっとベッドの上で跳ねている。その声があまりにも自然すぎて、政宗はただ固まっていた。
彼の、少しだけ低い声を思い出す。けれど聞こえてくる音声が、それを無理やり上書きしていく。
「今日数字好調ですね」
「単価が高いからな」
「ああ」
スタッフの、普通に聞こえるはずの淡々とした会話も、政宗にとってはどこか遠い世界のことのようだった。
それから今度は客が彼を押し倒す。黒い髪がシーツに広がり、皺が寄る。涙ながらの微笑みも、肩に回された手も広げた足の角度も、全部が自然に見える。客が再び動く。その下で、彼の肩が震えている。上を向いた白い喉を見ているうちに、息の仕方がわからなくなる。
「……ッ」
理解はしているはずなのに、うまく飲み込めなかった。
口の中の苦味を処理しきれないまま、政宗はただ太ももに置いた手で拳を握り締めていた。
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