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第6話 名前の無い男
瞬間、影の落ちない、髪の毛一本すら落ちていない白い照明に政宗は目を細める。壁も床も天井も、どこまでも均一な白で、影がない。到底、人が暮らす部屋には見えない。
その中央に置かれたベッドの上で、一人の男がこちらを見ていた。
艶のある黒髪が、白ばかりの部屋の中で、異様なほど鮮明に浮いて見える。相変わらず服はない。少しだけ目のやり場に困る。
男は政宗に気付くと、わずかに首を傾げた。
「また来たんだ」
柔らかい声だった。冷たくて、少し甘い声。……今しがた、ベッドの上で乱れていた彼と同じ人物とは思えない。
年齢は自分とそう変わらないように見えるのに、不思議と現実感がない。
整いすぎているからだろうか。政宗は一瞬だけ言葉を失う。
睫毛は長く、黒い瞳は光を吸い込むような色をしている。笑えば親しげなのに、その表情の奥になにも見えない。
綺麗だと思った。けれど、それ以上に奇妙だった。人間を見ている気がしない、誰かに丁寧に磨かれ続けた工芸品のようだった。
「どうかした?」
男が不思議そうに尋ねる。その仕草ひとつひとつが妙に自然で、同時にどこか作り物めいている。
「あ……寒くないのか?」
気が付けば政宗はそう聞いていた。
「え?」
男は不意を突かれたように驚いた顔をする。ジャケットを渡そうとしたが、首を振って断られた。政宗は引き下がる。
「……名前は」
今度はそう聞く。男が瞬きをする。
「3番」
「そうじゃなくて、名前」
男は困ったような顔をする。わずかに眉を寄せる仕草も妙に色っぽい。けれど男は答えない。誤魔化しているのかと思ったが、きょと、と首を傾げられる。柔らかい黒髪がわずかに揺れる。演技には見えない、自然な動きだった。
やがて、3番と名乗った彼は再び微笑む。
「3番じゃ駄目?」
「駄目だろ」
「なんで?」
「なんでって……名前だぞ」
「名前だけど」
政宗は眉を顰める。
「本名」
「あー」
男は少し考える。それから肩を竦めた。
「知らね」
「知らねって」
「覚えてない」
冗談を言っている顔ではなかった。政宗はため息を吐く。
「じゃあ年齢」
「知らね。アンタと同じぐらいじゃね?」
「俺の歳知らねぇだろ」
男はへらりと笑う。政宗は呆れながらも、その顔を見ていた。
モニター越しで見た時とは違う。整った顔立ちなのに、こうして話していると妙に幼い。
「学校は?」
「行ってない」
「ずっと?」
「たぶん」
「友達は」
「覚えてない」
「またそれか」
男は楽しそうに笑う。政宗は腕を組んだ。
「なんにもわからないのか? 自分のことなのに?」
「そうかも」
言われて初めて気付いたみたいな顔だった。
「アンタ変だな」
男はそう言って政宗を指差す。
「は? なにが」
「みんな、もっと違うこと聞く」
「違うこと?」
「好きな言葉とか」
「……」
「好きな体勢とか」
「……」
「あとは、そういうの」
政宗は聞かなかったことにした。男は肩を揺らして笑う。
「なのにアンタ、客っぽくない」
政宗は笑えなかった。
しばらくして、政宗は何気なく聞く。
「ここでなにしてるんだ、普段」
「別に。時間になったらここで客の相手する。それだけ」
「休みは」
「休み? 休みってなに」
男が小さな声で復唱する。一拍、間があった。
「外出たりとかは」
「しない」
「……それが仕事なのか」
「そうだよ。ていうかあんた、あの人の息子なんだろ。なのに知らないの?」
「知らない。だから聞いてる」
男ははあと柔らかい息を吐いた。その仕草でさえ、なぜか艶っぽい。それから少し目を細めて、政宗を見る。
「いつからここに?」
「覚えてない。……ランドセルは、背負ったことない」
冗談だと思った。目の前にいるのは、声変わりのした、しっかりと青年の体をした男だ。
政宗は黙り込む。
「家族は?」
男の笑顔が少しだけ変わった。
「妹が、一人」
「ふうん。どんな子?」
男は口ごもり、答えずらそうにしている。それからふっと曖昧に笑った。
「顔が可愛い」
「それだけかよ」
「仕方ないだろ、小さい頃に離れてそれきりなんだ。心臓、弱くてさ」
「へえ。会ったりはしてるのか?」
「会ってない。でも、元気だって」
男は少しだけ嬉しそうに言った。
「なんでこんなところで働いてるんだ?」
「借金もあるし、妹の生活費もあるし。だから働いてる」
そう言って笑った。自慢するみたいに。褒めてほしいみたいに。その笑顔を見た瞬間、政宗は妙な息苦しさを覚えた。
「じゃあ、連絡は取ってんのか」
「いや。でも、たまに写真見せてもらえる。こないだも見せてもらった」
「自分では持ってないのか?」
男が首を傾げる。
「なんで持つんだ?」
政宗は言葉を失った。写真なら普通は貰うだろう。スマホに保存したり、財布に入れたりするだろう。けれど男は本気で分かっていない顔をしている。
「祭りの写真だった。浴衣着ててさ。可愛かった」
男は写真を思い出しているのか、ふにゃ、と笑う。
「……会いたいとは思わねぇの」
何の気なしに聞いたつもりだった。
けれど男は答えなかった。初めてだった。今までぽんぽん返ってきていた言葉が止まる。
「……会いたい?」
男はそれきり黙り込む。政宗は待った。白い部屋の中で、空調の音だけが聞こえる。
やがて政宗の袖を掴む手があった。
「なあ、俺さ、おれ……」
言葉を探す。政宗は振り払わずに、続きを待つ。彼がなにか言いかけて、すぐに唇を閉ざす。政宗と男、二人の呼吸だけが聞こえる。しばらくして、顔を上げた彼はうっすらと笑いながら言った。
「妹に、会いたい」
少し掠れた声でやっと零したのは、そんなことだった。政宗の口角がわずかに上がる。
「……そうか。そのうち、会えるといいな」
「うん」
穏やかな顔で笑う男に、政宗はそう言うしかなかった。政宗は一人で静かに頷き、来た道を辿ることにした。
「なあ、本当に、しねぇの?」
振り向こうとした矢先、彼はそう言って引き止める。しかしやはり政宗は応じなかった。
「しない。……お前の名前、思い出したら教えろ」
「また来てくれんの?」
人懐っこい笑顔で、へらりと笑う。上手く答えられなくて、視線を逸らす。
「考えておく」
そう言ってドアの前に立つと、鍵の解除音が聞こえてドアが開く。
「……あのさ」
部屋を出る直前、男にそう呼び止められた。
「もしアンタが、妹に会えたら……」
「……なに」
振り返って聞き返すが、男はしばらく黙り込む。政宗は待つ。す、と男が呼吸する。
「なんでもない。……また来てね」
そう言って、にひ、と歯を見せて笑った。そして政宗の目を一瞬探してから、ひらひらと手を振る。
ドアが閉まる。白い光と彼の笑顔が、目の奥に焼き付いた。
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