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第7話 商品

 就業後、退勤ボタンを押した政宗がフロアを出る前、誰かに肩を叩かれた。びっくりして振り向くと、普段からノリの軽い同僚が政宗の肩に手を回していた。 「なあ大路〜、今日メシ行かない?」 「行かないよ」  少しずれた眼鏡を直しながらそう言うと、「釣れねぇなぁ」と同僚に笑われる。 「そんなんだからモテないんじゃね」 「……」 「キスもまだなんだってな?」 「うるさいな」 「図星かよ」  冗談だった。いつもなら適当に笑って流して終わるような、他愛もない話だった。けれど昨夜のことを思い出した瞬間、笑うことができなかった。  白い部屋が脳裏に浮かぶ。彼の声も、表情も、仕草も、全部覚えている。妹の話が出た時の、なにか言いたげだった唇も。  そうやって笑えないままでいると、ふっと同僚が静かになる。じらじらした雰囲気に政宗が顔を上げると、同僚が政宗を見て嘲笑する。 「でも、勝ち組はいいよな、女なんか選び放題だろ?」  OWNER PRIORITY  あの部屋の前、パネルに浮かんでいた、無機質な文字が頭の中で瞬く。息が、浅くなる。 「ちょっと」  なにも言い返せないままでいると、見ていた女性社員がそう言って同僚を咎める。しかし同僚は軽薄な態度で政宗に迫る。 「違う違う、モチベの話ッスよ。馬鹿になんかしてないです。あーあ、俺も金持ちの家に産まれてたらな〜」 「……っ」  同僚の言葉に、政宗は逃げるように会社を出ようとした。 「あれ、大路。今帰りか?」  その時だった。  後ろから呼び止められ、振り返る。声の主は営業部の課長だった。ちょうど帰るところだったらしく、片手に鞄を提げている。同僚は興味を失ったように舌打ちをして、足早にその場から立ち去った。 「はい」 「少しだけいいか」  政宗は頷く。 「お前、大阪って興味あるか?」 「大阪ですか?」  予想外の言葉に聞き返す。課長は歩きながら続けた。 「まだ正式な話じゃないんだけどな。関西の取引先が増えてきただろ。向こうに常駐できる人間が欲しいって話が出てる」  エレベーターを待ちながら、政宗は黙って耳を傾ける。 「向こうで新しくチーム作るかもしれないらしい。お前の名前も挙がってる」  思わず課長を見る。 「え。お、俺ですか」 「お前、数字も悪くないしな。年齢的にも悪くない」  ちょうどエレベーターが到着し、二人は乗り込んだ。扉が閉まる。小さな箱の中で、課長は軽い口調のまま続けた。 「給料も上がるだろうし、役職も付くかもしれない。悪い話じゃないと思うぞ」  政宗は返事をしなかった。  たしかに、悪い話ではない。むしろ好機だった。大阪へ行けば、父とは距離を置ける。実家を出る理由にもなるし、家業を継ぐことを期待され続ける今の生活からも少しは自由になれるかもしれない。  以前の自分なら、迷わなかっただろう。 「まあ、まだ先の話だ。ただ、もし本当に決まったら考えとけ」  課長は笑う。 「……はい」  エレベーターが一階に到着する。  二人でロビーへ出ると、課長は「じゃあな」と片手を上げて去っていった。  政宗はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。  大阪へ行けば、父から離れられる。家業とも距離を置けるし、普通の会社員として生きていくなら、むしろ願ってもない話のはずだった。  それなのに、頭に浮かぶのは大阪の街並みではなく、白い部屋だった。  名前も年齢も分からないと言っていた男が、妹の話をする時だけは嬉しそうに笑っていたことを思い出す。 『妹に会いたい』  あの掠れた声が耳の奥に残っている。  ただの世間話だったはずなのに、どうしてあんな顔が忘れられないのか、自分でもわからなかった。  政宗の家は、都心から少し離れたところにあった。自宅の駐車場にクラウンを停め、エンジンを切る。  静かだった。  すぐに降りる気にはなれず、政宗はハンドルへ手を置いたまま、ぼんやりとフロントガラスの向こうを見つめていた。  課長の言葉が頭をよぎる。異動が決まれば父から離れられる。実家を出る理由にもなるし、今より責任のある仕事を任されるかもしれない。家業を継ぐ気など最初からなかった政宗にとって、それは願ってもない話のはずだった。それでも胸のどこかへ鉛を落とされたような重さだけが消えず、結局長い息をひとつ吐いてからシートベルトを外す。  玄関へ向かうと、父の革靴が揃えて置かれていた。忙しい父がこの時間に帰っているとは珍しい。意外に思いながら靴を脱ぐと、昨日から胸に引っ掛かっていた疑問がまた浮かび上がる。あの男は、どうしてあんな顔で笑えたのだろう。 「政宗さん、おかえりなさい」  ハウスキーパーの挨拶へ軽く会釈を返し、政宗はそのまま父の書斎へ向かった。勢いよく開けようとして、寸前で止まった政宗は静かにノックをした。 「入れ」  中から低い声がした。政宗はドアを開ける。父は机へ向かったまま書類から目を離さず、「なんだ」とだけ口にした。  政宗は父の横顔を見つめる。昨日から何度も頭に浮かんでは消えていた言葉を、ようやく口にした。 「……三番は、自分の意思であそこにいるんですか」  書類をめくる指先だけが静かに動く。 「契約に基づいて運用している」  返ってきたのは、それだけだった。まるで答えになっていないその言葉に、政宗はわずかに眉を寄せる。 「そういうことを聞いてるんじゃありません」  父はようやく紙から視線を外し、政宗を一瞥した。 「本人は契約内容を理解した上で従事している」  そしてすぐに視線を戻した。その言葉を聞いても、政宗の胸のつかえは少しも取れなかった。名前も思い出せず、年齢も知らず、学校へ通ったこともないと笑っていた男が、本当に契約を理解していると言えるのだろうか。妹の話をした時だけ一瞬だけ揺れた表情が、頭の中から離れない。 「その契約、いつ終わるんですか」  政宗はなおも問う。けれど、父は表情を変えない。 「三番なら継続中だ。あれは商品であり資産だ。運用は続ける」 「商品……?」  思わず呟く。  あの男は笑っていた。妹の話になると照れくさそうに笑って、写真を見せてもらったことを嬉しそうに話していた。その姿を思い出せば思い出すほど、「商品」という言葉だけがひどく場違いに聞こえた。 「……終わりはないんですか」 「耐用年数の範囲内だ」  父は淡々と書類をめくる。 「処分は先だ」  まるで設備の更新時期でも話すような口調だった。手のひらが汗ばむのを感じる。目の前にいるのは昔から知っている父のはずなのに、どこか知らない人間と話しているような気がした。しばらく言葉が出なかったが、それでも頭に浮かんだ最後の疑問だけは飲み込めなかった。 「……妹には。契約が終わったら、妹には会わせるんですか」  父は政宗を見ないまま一拍だけ沈黙し、それから首を横へ振った。 「必要ない」  胸が凍るような感覚に、父が瞬きをする。相変わらずこちらへは一切視線を寄越さない。 「継ぐなら、理解しろ」  それきり、父は口を閉ざす。その一言だけで会話は終わった。書類をめくる音が聞こえるだけになる。政宗もそれ以上なにも言えなくなる。  静かに扉を閉めて廊下へ出ると、暖房の効いた家の中は十分暖かいはずなのに、身体の芯だけが冷え切ったままだった。  自室へ戻ってベッドへ横になっても、眠れなかった。寝返りを打つたび、布団が微かに擦れる音だけが部屋に響く。目を閉じれば、白い部屋が浮かび、そのたびに黒い瞳がこちらを見返した。名前も思い出せず、それでも妹のことだけは嬉しそうに話していた男の顔が離れない。どうしてあんなことを気にしているのか、自分でも説明はできなかった。ただ、父が「商品」と呼び、本人が「いつか会いたい」と笑った、その二つが頭の中でどうしても結び付かなかった。やがて、こんなこと考えてどうするんだろうという自嘲の念も浮かんでくる。  気が付けば枕元の時計は日付を跨いでいた。  政宗はゆっくり息を吐きながら、もう一度だけ目を閉じた。

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