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第14話 引越し

 引っ越しの準備を始めたのは、それからすぐのことだった。押し入れの中にあった、高校時代の教科書や卒業アルバムが入った段ボールを整理していると、一番下から古いアルバムが出てきた。 「ん?」  古ぼけた表紙には見覚えがあった。けれど中になにが入ってるのか、朧気だった。なんだろう。そう呟きながら、政宗は何の気なしにアルバムを開く。  そこには政宗の母がいた。五歳の時に事故で亡くなった母だった。 「あ……」  彼女はモナ・リザみたいに優しい微笑を浮かべて、こちらを見つめていた。政宗の中で、灰色だった記憶にだんだんと色がつく。顔も声も覚えているその人が、記憶の中で動き出す。……懐かしい。どうして、今まで忘れてたんだろう。  写真の上を指でなぞる。忘れたくて忘れたわけではない。ただ蓋をしていただけだった。思い出したら悲しくなるし、思い出したところで戻ってくるわけではないからだ。けれど凍らせていた感情はどんどん溶け出して、政宗の胸の中に輪郭を作ろうとする。  しばらく眺めたのち、政宗はアルバムを閉じた。  立ち上がり、しばらく部屋の中を歩く。段ボールは開けたまま、床には荷造りの途中の荷物が散らかっていた。窓の外では夕方の光が傾き始めている。  気付けば車の鍵を手に取っていた。  向かった先は墓地だった。  五歳の時に亡くなってから、何度か父に連れられて来た記憶はある。けれど自分一人で来たのは初めてだった。せめて大阪に発つ前に、挨拶をしておきたかった。  管理棟で花を買い、小さな桶を借りる。慣れない手つきで墓石へ水を掛けると、乾いていた石肌がゆっくりと色を変えた。  墓前にしゃがみ込み、花を供える。線香の煙が細く立ち上り、風で静かにたなびく。 「……久しぶり」  口を開いてみたものの、それ以上言葉は続かなかった。  会いたかったわけじゃない。会いたくなかったわけでもない。ただ、来ないようにしていた。ずっと、後回しにしていた。  墓石へ刻まれた母の名前を見つめる。もう、会えなくなってから随分経つ。それでも、自分は母がどこにいるのか知っている。ここへ来れば会えないことを確かめられるし、手を合わせることもできる。  ──けれど、レイは違う。  不意に、地下にいる端正な男の顔が浮かぶ。彼は妹がどこにいるのかも知らない。生きていると信じたまま、ずっと待ち続けている。 「……レイ」  政宗は静かに立ち上がった。  二十年間、レイはずっと、会えなくても妹に会いたいと思い続けていた。少なくとも、自分みたいに目を逸らしたりはしなかった。  胸の奥に、熱いものが込み上げる。  ……妹が亡くなっていたと、レイが知れば傷付くだろう。怒るかもしれないし、自分を恨むかもしれない。それでも知らないままの方がいいなんて、自分には決められなかった。けれど知った上でどうすべきか、あいつが選ぶべきだと、政宗は思った。  もし母が生きていたら、そうしていただろう。政宗はそう一瞬思いかけたが、違う。ただ母にも自分にも恥じない存在でいたいという気持ちの方が、きっと強かった。  墓石へもう一度だけ頭を下げ、それから墓地をあとにする。  帰宅すると、机の上へ置いたスマホが目に入る。  迷いは消えていない。けれど、言わなければ。東京を発つ前に、知らせておくべきだ。  政宗はそれだけを考えた。  次に政宗が地下を訪れたのは、それから数日後のことだった。  大阪支社への異動は正式に決まり、引っ越しの日程も決まった。これで父の会社とも、東京での生活とも距離を置ける。少し前までの自分なら迷う理由なんてなに一つなかったはずなのに、今日ここへ向かう足だけは最後まで止められなかった。  エレベーターがゆっくり地下へ降りていくにつれて、胃の奥へ重たいものが沈んでいくような感覚がした。病院で知ったことは、仕事をしていても、家へ帰っても、不意に頭を過る。忘れようとして忘れられる種類のものではなく、一度知ってしまった以上、もう知らなかった頃へ戻ることはできないのだと嫌でも思い知らされていた。  今日ここへ来た理由は決めていた。大阪へ異動になることだけ伝えて、それで終わりにするつもりだった。病院で知ったことも、墓で見たことも、今ここで口にする資格が自分にあるのか分からず、せめて最後に顔だけ見て帰ろうと思っていた。  それでも認証パネルの前へ立つと、自然と足が止まる。  今なら、まだ引き返せる。  そう思ったところで、自分でも苦笑した。ここまで来ておいてなにを迷っているんだ。会うだけ会って、帰ればいい。それだけのことなのに、どうして指先一つ動かすだけのことがこんなにも重たい。  息を吐いて認証パネルへ手を伸ばすと、電子音とともにロックが外れ、静かに扉が横へ開いた。通路よりも眩しい白い光が視界へ流れ込み、思わず目を細める。  部屋の中は、初めて見た時となにも変わっていなかった。壁も床も天井も白く塗り潰され、その中央に置かれたベッドだけが生活の痕跡らしいものを残している。その上へ膝を抱えて座っていた男は、扉が開いた音に気付くとゆっくり顔を上げ、政宗の姿を見た途端、花が開くように笑った。 「あ、また来たんだ」  その笑顔を見た瞬間、胸の奥が鈍く痛む。  なにも知らない、無垢で無邪気な笑顔。綺麗で美しいはずなのに、今は苦しかった。 「仕事、忙しかったのか?」 「……まあな」 「そっか。大変なんだな」  レイは当たり前のように政宗を気遣って笑う。その姿を見ていると、この部屋へ閉じ込められている人間なのだという事実が、かえって現実味を失っていく。自分ならこんな場所で他人の心配なんてできるだろうかと考えかけて、すぐにやめた。比べること自体がおかしい。  政宗がベッドへ腰を下ろすと、レイも隣へ座る。以前より距離を測ることに慣れてしまったのか、肩が触れそうな位置へ自然に腰を下ろした。  部屋には空調の低い音だけが流れている。なにか言わなければと思うのに、口を開くきっかけが見つからない。  今日ここへ来た理由なら決まっている。  大阪へ行く。  だから、お別れを言いに来た。  その一言だけで終わるはずだった。 「……俺さ」  ようやく声を絞り出すと、自分でも驚くほど掠れていた。 「近いうちに大阪へ行くことになった」  レイは一度だけ瞬きをして、それから不思議そうに首を傾げる。 「旅行?」 「いや、仕事だ。異動になった」 「ああ、そういうことか」  納得したように頷くと、レイは嬉しそうに笑った。 「すげぇじゃん。それって偉くなったってことなんだろ?」 「まあ……そんな感じだ」 「よかったな。お前真面目だもんな。ちゃんと見てくれる人がいたんだ」  迷いなくそう言われて、政宗は返事に詰まる。  自分が東京を離れることよりも先に、それを祝おうとしてくれる相手が目の前にいる。その事実が思っていた以上に胸へ刺さった。 「だから、その……」  一度言葉を切る。 「今日がお前に会う最後になるかもしれないと思って、顔を見に来た」  レイはしばらく政宗の顔を見つめていたが、やがて照れ隠しでもするように鼻を掻いて笑った。 「そっか。わざわざお別れ言いに来てくれて、ありがとうな」  その笑い方があまりにも穏やかで、政宗は思わず視線を逸らした。  このままなにも言わず帰れば、それが一番なのかもしれない。それでも胸の奥では、そんな結末を受け入れられない自分がいた。  そのまま二人とも黙り込んだ。  空調の低い音だけが白い部屋を満たし、言葉を失った沈黙がゆっくりと二人のあいだを流れていく。政宗は視線の置き場に困り、何気なく隣を見ると、レイは天井を眺めながら指先をもぞもぞと動かしていた。 「なあ」  ふと、レイが思い出したように口を開く。

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