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第15話 君の名は
「この前さ、名前思い出せなかったって話しただろ」
「……うん」
「あれから何回か考えてみたんだけど、やっぱ駄目だった。俺、昔どんな名前だったんだろうな。ここ出る時に教えてもらえんのかな。それとも、最初からなかったりして」
冗談めかして笑っているのに、その笑い方がどこか寂しく見えて、政宗は瞬きを忘れた。
契約書にも、病院のカルテにも、養護施設の記録にも、その名前は残っていた。二十年もの間、周囲の人間だけが知っていて、本人だけが知らずに過ごしてきた名前だった。
黙っている理由はもうなかった。
「レイ」
政宗が静かに呼ぶと、レイはきょとんとした顔でこちらを見る。
「誰?」
「お前だ」
言葉を継ぐまでに、わずかな間が空いた。
「それがお前の名前だ」
レイは何度か瞬きを繰り返したあと、自分の顔を指差した。
「……俺?」
「ああ」
しばらく黙ったまま視線を落としていたレイは、わずかに口を動かした。
「レイ。レイ……か」
その響きを確かめるように、もう一度繰り返す。
何度か名前を口にするうちに、その音が少しずつ自分へ馴染んでいっているのか、レイは照れたように笑った。
「変な感じ。三番って呼ばれてた方が長ぇし。……でも嫌いじゃねぇや。なんか格好いいし」
そう言って少しだけ得意げに笑うものだから、政宗は思わず吹き出した。
「自分で言うな」
「いいだろ、久しぶりなんだから」
その笑顔を見ていると、この男が自分の名前さえ知らずに生きてきた時間の長さが現実味を帯びて押し寄せてくる。嬉しそうに何度も自分の名前を口にする姿を見れば見るほど、二十年という年月を、自分の父が奪ってしまったのだという事実だけが胸へ重く沈んだ。
ひとしきり名前を口の中で転がしていたレイは、不意になにかを思い出したように政宗へ向き直った。
「そういえばさ、この前、あの人から連絡あった」
レイは部屋の隅に設置されたスピーカーを指差す。政宗は眉を寄せる。
「父さんのことか?」
「うん。たまにしか来ない人だけどさ、『今度、お前を見に来る人がいる』って言われた」
嫌な予感が胸を掠める。
「見に来る?」
「俺もよくわかんなかったんだけど、その人が気に入ったら、俺、外国へ行くらしい」
あまりにもあっさりした口調だった。まるで転勤の話でもするような調子で笑っている。
「外国って……どこだ」
「知らねぇ。俺も聞いてない。でも珍しく褒められたんだ。『今までよく頑張ったな』って」
レイは少し得意げな様子で頭を掻いた。
「だからさ、借金ももうすぐ終わるのかなって思ってる」
その一言に、政宗は言葉を失う。
レイはなにも知らないまま、父の言葉だけを信じて未来を思い描いている。
「外国へ行く前にさ、妹にも会わせてもらえんのかな」
期待を隠しきれない声だった。
「借金、返し終わるんだよな。だったら俺も久しぶりに外へ出られるだろ? 顔見て、元気そうならそれでいいんだ」
そう言って笑うレイを見た瞬間、政宗は返事をすることもできず、袖口を強く握ることしかできなかった。喉の奥へなにかが詰まったように息苦しくなり、俯いたまま眉間に皺を寄せる。レイはそんな政宗の様子には気付かず、照れたように笑いながら膝を抱え直した。
「でもさ、お前も真面目だよな。わざわざお別れ言いに来るとかさ」
そう言って、レイは政宗の手を握る。あたたかい熱が政宗を包む。
「俺、お前のこと勝手に友達だと思ってた」
少しだけ声の調子を落としてそう続ける。政宗が顔を上げると、レイは気恥しそうに笑っていた。その言葉と笑顔に、とくんと胸が小さく跳ねる。
レイは視線を泳がせ、耳を掻きながら苦笑した。
「変だよな。会った回数なんてそんなに多くねぇのにさ。でも、もっと……」
そこまで言いかけて、自分でもなにを言おうとしたのか分からなくなったように首を傾げると、小さく笑って首を振った。
「……いや、なんでもない。お前も元気でな」
それ以上は口にせず、レイは政宗へ笑い掛けた。その笑顔はひどく穏やかで、爽やかだった。そうして、男の手紙そっと離れていく。
この男は、なにも知らないまま自分を見送ろうとしている。
自分は真実を知っているのに、それを隠したまま「じゃあな」と言って帰ろうとしていた。そのことが急に耐えられなくなり、気付けば口が勝手に動いて、レイの手を掴み直していた。
「……レイ」
「ん?」
「お前さ、なんで断らねぇんだよ」
気付けば問い掛けていた。
「え?」
「外国なんて行きたくねぇだろ。嫌だって言えばいいじゃねぇか」
レイはきょとんとした顔をしたあと、困ったように笑った。
「そりゃ……行きたいって俺が言い出したわけじゃねぇけど。でも、これも仕事なんだろ。俺、よくかんねぇけど、ちゃんと働いたら借金も終わるんだろうしさ」
その声はどこか明るかった。レイは膝の上で指を組みながら、小さく笑う。
「妹がいい暮らしできるなら、それでいいんだ。俺、兄ちゃんらしいことなにもできなかったし、だいぶ寂しい思いさせちまっただろうし……せめて、今ぐらい役に立ちてぇ」
その言葉を聞いた瞬間、政宗の中でなにかが音を立てて切れた。
妹はもういない。
それでも父はその事実を知っていて、この男だけを二十年間取り残した。
そこまで考えたところで、もう迷う理由は残っていなかった。
このままここへ置いて帰れば、レイはまた明日も笑って働き、妹へ届くはずのない未来を信じ続ける。
それだけは、どうしても受け入れられなかった。
政宗はゆっくり立ち上がる。
「どうした?」
レイが不思議そうに見上げてくる。政宗は部屋を見回し、それからレイへ視線を戻した。
「服、着ろ」
そう言った自分の声は、不思議なほど落ち着いていた。レイはきょとんとした顔のまま、自分の身体を見下ろした。
「服?」
「外へ出る。……妹に、お別れを言いに行こう」
レイは目を丸くしたまま、口だけが動いた。
「え、本当に?」
「ああ」
信じ難いものを見るような顔つきのあとで、レイの息が柔らかく解けた。
「そっか。俺、外国行く前に会わせてもらえんのか」
その言葉に政宗の胸が軋む。レイは完全に勘違いしていた。それでも、その勘違いを否定することができない。そうして、レイはどこか安心したように笑った。
「よかったぁ。ちゃんとお別れ、言っとかねぇとな。急になくなったら、あいつ心配するだろうし」
政宗は目を閉じる。その「お別れ」が意味するものは、レイが思っているものとはまるで違う。
今ここで、真実を告げることもできる。けれどその一言だけをこの部屋で伝えてしまえば、レイは妹の眠る場所さえ知らないまま絶望だけを抱えることになる。
それだけは違うと思った。
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