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第16話 地上へ

 けれどすぐに、レイが肩を落とす。 「……でも、服ねぇぞ」  政宗も見回す。確かにない。ここにはベッドしかない。この部屋には、最初から服という概念が存在していなかった。  政宗は数秒黙ったあとで、思わず「まじか」と呟いていた。  そうして意を決した政宗は、おもむろに服を脱ぎ始めた。ネクタイを外し、シャツのボタンを外す。レイはその様子、ぽかんとした顔で見ていた。 「ほら、これ着ろ」  脱いだシャツを押し付けると、レイは受け取ったまま固まる。 「なんで?」 「いいから、早く」  レイは首を傾げながら、渋々シャツに腕を通した。だが途中で止まる。レイはボタンを見ている。留めなければならないことは理解している様子だが、手つきが怪しい。しばらく格闘した末、掛け違えた。政宗は思わず額を押さえた。 「貸せ」  そう言って手を伸ばす。レイは素直に腕を下ろした。政宗は一つずつボタンを外し、掛け直していく。  その時になって初めて気付いた。  ……近い。  少し身を乗り出せば額が触れそうな距離だった。長い睫毛と伏せられた瞳も、白い首筋も見える。シャツの隙間から覗く鎖骨に視線がそっちに向かいそうになり、政宗は慌ててボタンへ意識を戻した。 「……よし」  最後まで留めて離れる。レイは袖を通した自分の手を、しげしげと見つめていた。 「お前、慣れてるな」 「ボタン留めるのに慣れてるやつがいてたまるか」 「そう?」  全然伝わっていない。政宗はため息を吐いた。 「ズボンも履け」  今度はスラックスを投げる。レイは受け取ると、その場で履いた。前後ろを間違えて、裾を踏んで転びかける。どうにか履くも、案の定ゆるい。レイは腰を押さえながら困った顔をした。 「落ちる」 「ベルトするから待て」  数分後、政宗は下着姿になっていた。一方、レイは政宗のシャツとスラックスを着ている。袖も裾も少し余っていた。  レイは自分の格好を見下ろし、それから政宗を見る。 「なあ、これ、脱がす流れじゃねぇの?」 「違う」 「じゃあ、すんの?」 「しねぇよ」  即答すると、レイが声を立てて笑った。 「やっぱ変」 「うるせぇ」  そう言いながらも、政宗は視線を逸らす。  服を着ているだけなのに、妙に落ち着かなかった。裸でいた時より、ずっと。  それから政宗は天井の隅を見る。黒いレンズが二人を見ていた。レイもつられてカメラを見上げる。 「なに見てんの」  政宗は答えない。代わりに、監視カメラへ向かって口を開く。 「No.3を移動する」  数秒後、スピーカーから女性の声が流れた。 『移動、ですか?』  人間の声だ。 『そのような予定は確認できておりませんが』 「メンテナンスだ」  スピーカーの向こうは静かになる。レイが首を傾げる。 「どっか壊れてんの?」  政宗は答えなかった。 『代表へ確認いたします』  数秒後、そんな声が聞こえてくる。政宗の心臓が跳ねた。けれど顔には出さない。 「その必要はない」 『ですが』 「父は海外出張中だ」  喉が乾く。引き返せるのは、ここまでだった。 「管理権限は一時的に俺へ委任されている」  嘘だった。完全な嘘。けれど引けない。長い沈黙が訪れる。部屋の静けさも相まって、耳鳴りがしそうになる。レイだけが呑気そうにしている。 『……確認いたします』  スピーカーは再度沈黙した。政宗は表情を変えないよう努める。心臓だけが、うるさかった。  もしここで父へ連絡されたら終わりだ。嘘は一分も保たない。地下に来たことも、病院へ行ったことも、全部知られる。政宗の頬に汗が伝う。  その時だった。 『確認いたしました。──移動許可を承認します』  機械越しの声が返る。政宗はぽかんと口を開けた。しばらくのあいだ、意味がわからなかった。レイの方が先に反応する。 「なにが?」  政宗は答えられない。本当に通った。頭の中で、その事実だけがぐるぐる回る。 『移送先をご指定ください』  政宗は我に返り、慌てて口を開く。 「上層フロアだ」 『承認しました』  カチ、とどこかでロックが外れる音がした。扉がゆっくり開く。目を見開くレイに、政宗は向き直る。 「行くぞ」  レイは首を傾げた。 「どこに?」 「外だ」 「嘘つけ」  レイは冗談だと思っているらしい。政宗は答えず、先に通路へ出た。数歩進んで振り返る。レイはまだ、部屋の中にいた。白い部屋の中央、二十年間閉じ込められていた場所に立ち尽くしたまま、政宗を見つめている。 「レイ」  名前を呼ぶ。レイの肩がぴくりと跳ね、ゆっくりと顔を上げる。レイは扉の先、政宗を神妙な顔で見つめたまま黙り込む。 「来い」  その一言でようやく現実味を帯びたのだろうか。レイの喉が動いた。 「ああ」  それから恐る恐る一歩踏み出した。裸足が白い床を踏む。  ただそれだけのことなのに、政宗には妙に重く見えた。二十年ぶりの一歩だった。  通路へ出たレイは、振り返って部屋を見ていた。  政宗もつられて見る。朝も夜もない、すべてが白い部屋。嫌でも愛着ぐらいはあるのかと思ったが、政宗にはわからなかった。 「どうした」  レイはしばらく答えなかった。やがて柔らかく笑う。 「いや。……なんか、もう戻れない気がして」  その声は静かだった。政宗は言葉の代わりにレイの腕を掴む。シャツの袖からは手首が見えていた。さっきまで裸だった男が自分の服を着ているという状況がまだ妙に現実味を持たない。だが、今さら後戻りもできなかった。 「戻らねぇよ」  そう言った自分の声は、思ったよりもはっきりしていた。レイは政宗を見つめる。そのまま政宗は歩き出す。人一人分が通れるほどの狭い通路を、レイの手を引いて歩く。  後ろで、自動ドアが静かに閉まる音がする。その音はまるで、二十年間続いたなにかが終わる音みたいに聞こえた。  ふと後ろを見ると、レイは何度も振り返っては、閉まった扉を見ていた。

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