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第17話 風
認証ゲートを一つ通過する。入るのは難しいが、出る時のセキュリティは甘い。それは最初から客とスタッフを選別しているというのと、レイが外に出るのを一切考慮してない設計だからだ。それに、安全性の問題もある。だから大丈夫だと、政宗は何度も自分にそう言い聞かせた。
無意識に肩へ力を入れる。呼び止められるかもしれない。誰かが父へ連絡するかもしれない。そんな想像ばかりが、頭に浮かぶ。
けれどレイは違った。通路の向こうを見たり、天井を見たりしながら歩いている。
「なあ、ここ、こんな広いのな」
政宗は思わずレイを見る。広い。そんな感想が最初に出るのか。けれど考えてみれば当然だった。レイは今まで、自分の部屋しか知らないのだ。
「そうかもな」
短く返すと、レイは満足そうに頷いた。
もう一つゲートを抜ける。さらに進むとサービスエレベーターが見えてきた。
政宗がボタンを押すと、レイはその動きをじっと見ていた。
「なにしてんの?」
「エレベーター呼んでる」
「エレベーター?」
聞き返されて、政宗は説明を諦めた。
ほどなくして扉が開く。二人で乗り込むと、箱が静かに上昇を始めた。その瞬間、レイの体がわずかに揺れる。壁へ手をつき、不思議そうな顔をする。
「これがエレベーターか」
「そうだ」
「へぇ」
感心したように呟いている。政宗はやれやれと息をついた。
扉が開き、ホテルのバックヤードへ出る。するとそこには、スタッフが数人行き交っていた。その光景を見た瞬間、政宗の足が止まった。反射的に身構える。レイも同じように止まる。けれど逃げようとはしなかった。
ただ、人を見ていた。
知らない人間が歩いている。
それだけの光景を、まるで初めて見るものみたいに眺めている。
「レイ」
呼ぶと、はっとしたように顔を上げる。
「行くぞ」
「ああ」
再び歩き出す。誰にも呼び止められない。誰も疑わない。代表の息子が施設内を歩いているだけだ。その事実が、今だけは幸運だった。派手なアクション映画みたいに劇的な逃走ではないが、政宗の心臓は人生の今までのどの瞬間よりもうるさく高鳴っていた。
レイの足音がぺたぺたとついてくる。やがて、地下駐車場へ続く自動ドアが見えてくる。
政宗は足を速めた。ここまで来れば、もう少しだ。
「政宗様?」
不意に背中から声がかかった。政宗は一瞬立ち止まる。逃げる方が怪しまれるのではないかと咄嗟に判断し、振り返る。そこにはスタッフが立っていた。
「……お連れの方は?」
「俺の知り合いです」
「その格好は……」
「えっと……ワインを零してしまって、それで服を取り替えに行くところです」
政宗は笑みを浮かべた。自然かどうかはわからない。数秒後、すいと目を細めたスタッフがインカムに手を当てる。
「三番が一般バックヤードフロアにいますが……」
それを耳にした瞬間、政宗はレイの手を掴んだ。
「走れ!」
「うわっ」
がくんと前のめりになったレイが転ばないよう手を引きながら、政宗は走り出す。後ろでスタッフの「お待ちください!」と叫ぶ声が聞こえる。そのまま通路を曲がり、スタッフの波をかき分け、政宗は出口へ向かう。
ようやく外に出る。ドアを抜けてもなお、政宗は自分の車のところまで走る。車のキーを探してロックを解錠し、慌てて乗る。けれどレイはなかなか乗ろうとしないまま、どこか遠くを見つめていた。
「どうした」
レイは答えない。ただ少しだけ目を細めている。地下駐車場に流れ込む外気が、換気口からゆるやかに吹いていた。
冷たい風だった。冬の匂いがした。レイはその風を受けながら、しばらく黙っている。やがてゆっくり息を吸い込んだ。
「……風だ」
その声は小さかった。けれど政宗には妙にはっきり聞こえた。
レイはもう一度、確かめるように目を閉じる。鼻を鳴らして、においを嗅いでいる。空調の管理された風とは違う。誰かが設定した温度でも湿度でもない。外と繋がった空気だった。
政宗はなにも言わなかった。なんと言おうか考えたところで、上手く言えない気がした。
だからただ黙ってレイの方の車のドアを開けてやり、
「行くぞ」
それだけ言った。レイはアーモンド型の目を瞠 る。それから目を細めて笑った。
今まで見たどの笑顔とも、違う笑顔だった。
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