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第18話 旅立ち
地下駐車場を出てからしばらくのあいだ、車内は静かだった。
レイは助手席に座り、窓の外を見ている。
信号で止まるたびに首を動かし、通り過ぎる人を目で追い、自転車を見つければ振り返りそうな勢いで見つめていた。子供みたいだな、と政宗は思ったが、よく考えれば仕方がない。レイにとってはどれも、ほとんど初めて見るものばかりなのだ。
しばらくしてレイが口を開く。
「なあ、みんな勝手に歩いてんの?」
政宗は一瞬、視線を窓の外に投げた。
「歩いてるな」
「どこ向かってんの?」
「仕事とか買い物とかだろ。あと帰るとか」
レイはへぇ、と本当に感心したような声を上げた。その反応を聞いていると、自分が当たり前だと思っていたものが急に妙なものに思えてくる。
「あ、ランドセル」
レイが再び声を上げる。政宗はレイの見ている先へ視線を移した。
地元の小学生がいて、並んで歩いて帰っている。ただそれだけの光景だった。
車は小学生を追い抜き、住宅街へ入る。レイは彼らを、視界から消えるまでずっと追っていた。
見慣れた道を通り過ぎると、やがて一戸建てが見えてくる。政宗は家の前を通り過ぎ、一度角を曲がってから周囲を確認した。父は海外出張中で、家の周囲に見張りはいない。それでも妙に落ち着かなかった。
ようやく車を停めると、レイは目の前の家を見上げた。
「妹、ここに住んでんの?」
「違う、俺の家だ」
レイが目を丸くした。車を門の前へ寄せる。認証を終えると門が静かに開いた。その様子を、レイは口を半開きにしたまま見ている。
「でけぇ」
レイの唇からは、それ以上の感想は出てこなかった。政宗はエンジンを切り、それから足早に車から降りた。……急がなければ。
「車の中で待ってろ」
「なんで?」
「荷物取ってくる」
「おう」
レイは頷いた。けれどその視線はすでに別の方向へ向いている。郵便受けを見ていたかと思えば植木を見て、その次には隣家の塀の向こうを覗こうとしている。
「なー、あっちってどうなってんの」
そして家の向かいを指差す。嫌な予感がして、政宗はわずかに眉を寄せた。
「やっぱ、来い」
「いいの?」
「いいから」
レイは嬉しそうに笑った。
玄関の鍵を開けて中へ入ると、レイは敷居の前で立ち止まり、しばらく床を見ていた。
「俺、こういう家住んでみてぇ」
あまりにも自然に言われて、政宗は返事に困った。
「そうか」
そう言って政宗は先へ進んだ。二階の自室へ向かう寸前、政宗はレイへと振り返る。
「勝手に触るなよ」
「わかった」
返事だけは素直だったが、レイの指がテーブルの上の花瓶に伸びているのを政宗は見逃さなかった。案の定、二階の自室へ上がってキャリーケースを引っ張り出している最中、下から物音が聞こえてくる。なにをしているのか考えたくなかった。
「わっ」
そんな驚嘆の声と同時に、トースターのチン! という音が聞こえた。
政宗はクローゼットを開けた。まず最初に着替えることにした。新しく服を着て、それから服や下着を次々と詰め込んで行く。通帳や身分証一式、それからノートパソコンも一緒に入れた。少し大袈裟かもしれないと思った。けれど止まらなかった。
荷物を詰め終えた政宗が振り返った瞬間、レイが部屋の中にいた。思わず声を上げそうになる。いつの間に上がってきたんだろうか。そう思いながら見ると、レイは窓際に置かれた写真立てを見ていた。
「おい」
声を掛けると、レイが振り返る。レイは写真立てを手に取っていた。
「これ、アンタの母ちゃん?」
政宗が手を止めて視線を向けると、そこには若い頃の母が写っていた。先日アルバムから出して、写真立てに入れて飾っていたものだ。
「ああ」
「ふーん。綺麗だな」
レイは素直に言った。
政宗は手を止め、わずかに目を伏せる。
「小さい時に死んだけどな」
「そうなんだ」
レイは写真と政宗を見比べる。それから不思議そうな顔をした。
「これ、持ってかないの?」
「いい」
「なんで?」
政宗は答えなかった。
写真の中の母は笑っている。昔なら、持っていかなかった理由を説明できたかもしれない。
思い出しても仕方がないからだとか、もう戻ってこないからだとか。
けれど今は違う。違うのに、上手く言葉にならなかった。
「いいんだ」
結局そう言うしかない。レイはしばらく写真を見ていたが、それ以上は聞かなかった。代わりに写真立ての表面をそっと撫でて埃を払い、ゆっくりと元の場所へ戻した。
レイを改めて着替えさせたあと、政宗はキャリーケースのファスナーを閉める。
もう十分だ。忘れ物があったとしても、戻る気はない。
「行くぞ」
レイが振り返る。
「うん」
部屋を出る。階段を下り、玄関へ向かう。政宗は振り返らなかった。キャリーケースを引きながら玄関の鍵を閉める。
その横でレイは夕方の空を見上げていた。
まるで、どこかへ旅行に行く前みたいな顔をしている。
政宗だけが、自分が今なにを失おうとしているのかを、静かに理解していた。
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