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第2幕 第5話 生きてるって教えて

 地下を出てから一週間が過ぎた。  ホテルを転々とし、現金だけで生活し、人混みに紛れて移動する。それでも、ときおり父の会社で見慣れた黒い車が視界を横切った。  見つかっている。  そう思っても、相手は近付いてこない。ただ一定の距離を保ったまま姿を消すだけだった。 (……なんでだ)  政宗は不思議に思う。  レイを連れ戻すつもりなら、とっくにできていたはずだ。逃げ切れたとは最初から思っていない。それなのになにも起きない理由を考え続け、政宗はようやく父の狙いに気付いた。  父は待っている。そんな気がした。戸籍も名前も過去も取り戻せない現実に直面すれば、自分は必ず戻る。そう信じているから、追い詰める必要すらないのだ。  逃げ切れたわけじゃない。ただ、父の掌の上で泳がされているだけだった。  車のライトで窓側が明るくなるたび、政宗は顔を上げて外へと目を配らせた。そうするうちに政宗の耳に聞こえていた水音が止んで、バスルームの扉が開く。風呂場の熱気が部屋に流れ込んできて、政宗はついレイの方へと視線を向けた。風呂上がりの湯気をまとった体は服を着ていないことに気が付く。政宗は思わず目を逸らした。 「バスローブ、足元」 「ん、ああ、これか」  レイが思い出したようにバスローブを羽織る。たまに服を着るという概念が消えるこの男にため息をついて、政宗は立ち上がる。 「髪、濡れてる。風邪引くぞ」 「ん」  レイを椅子に座らせて、その後ろに立った政宗はいつものようにレイの髪を乾かしてやる。もはや手馴れたものだ。前より艶の減った髪は、指を通すたびに少し指に引っかかるようになった。 「……」  最後の指を離す瞬間だけ、離したくない理由を探している。 「今日、寝れそうか」 「多分」  政宗が聞くと、レイはそう答えた。  やがて二人でベッドに入る。  電気を消し、目を閉じる。 「……あのさ」 「なんだ」  政宗は目を開ける。闇の中で、レイの息遣いが聞こえる。 「なんで、言ったの。妹のこと」  仰向けになったレイの目が動く。視線を感じる。政宗は冷たい空気を吸った。  なぜレイに妹の死を明かしたのか、うまく説明できる気がしなかった。  建前なら簡単だ。レイに、なにも知らないまま生きて欲しくなかった。名前も妹もレイの人生も、全部取り戻してやりたかった。知らないままでいられなかった。そうするべきだと、思っていた。  けれど、政宗の口を突いて出たのは違う言葉だった。 「……ごめん」 「なんで謝んの。謝るなら言うなし」  レイはそう言って笑った。小馬鹿にする感じでもなく、ただ本当に、意味がわからないような笑いだった。けれど政宗は笑わなかった。……笑えなかった。  やがて部屋は静かになる。恐ろしいほどの静寂に、政宗は自然と息を殺す。身動ぎした時の衣擦れの音すら怖くて、動けなくなる。 「──俺、間違ってなかったよな」  ふと、レイがそう尋ねてきた。透き通って柔らかくも圧のあるその問いに、政宗は考える。  もし、自分に妹がいて、病室で苦しそうにしている彼女を前に、「お前が働けば助けてやる」と言われたら。  自分はどうしただろうか。 「やります」って、言えただろうか。  多分、言えない。  逃げたかもしれないし、怯えたかもしれない。  いや、きっと、その場で答えなんて出せない。大人になった今ですら迷ってしまう有様だ。  それでもレイは、たった五歳で答えを出した。まだ二十年という時間の長さすら知らない子どもが、自分の人生を差し出した。  だからこそ── 「間違ってねえよ」  そこで初めて、政宗はそう返事した。 「……そっか」  レイがすんと鼻を啜った。しばらくして、押し殺した、潰れたような声が聞こえた。思わず体を起こし、「レイ」と尋ねて顔を覗き込む。レイはなにかを堪えるように、ぎゅっと目を閉じて政宗の袖を掴んでいた。 「……泣くなって、言われてた。声、ダメになるし、目、赤くなるから」  レイが目を開け、そう言って軽く笑う。政宗は歯食いしばる。たちまち政宗の視界がぶわりと滲む。 「もういい」  誤魔化すように抱きつくが、声が震えていた。案の定レイに気付かれた。 「……なんで、お前が泣いてんだよ」 「うるせえ」  そう言って、政宗はしゃくり上げながらただレイを抱き締める。背中に回した腕の中で、レイの体が熱い。初めて会った時はしっかりした体格に見えていたのに、この時だけは華奢に思えた。政宗はそれが離れていかないよう、強く抱き締める。抱き締めていないと、バラバラになってしまいそうな気がした。 「……っ、苦しい」  ふと、腕の中でレイがもがくように身動ぎした。政宗が少し緩めると、レイがぷは、と大袈裟に息をつく。 「悪い」 「へたくそ」  レイはくしゃりと笑った。暗い部屋でもわかる、白い歯並びが綺麗だった。それから、今度はレイが政宗を優しく抱き締めてくれた。そんなことをされたものだから、政宗はますます激しく号哭した。  ひとしきり涙を流したあと、レイは少しだけ鼻の頭を赤くしたまま、政宗に問いかける。 「……渚、怒ってねえかな」 「怒る理由ねえだろ。お前は、渚を守った」 「……」 「守ろうとした、じゃない。守ったんだ」 「でも、死んだ」 「それでもだ」  静かで冷たいレイの声に、政宗はゆっくりと首を振る。 「お前がやったことまで、消えるわけじゃねぇ」  そう言うと、レイはわずかに目を見開き、それからふっと表情を崩した。 「ならいい」  レイが政宗の袖を掴む。その手は縋るように、けれど政宗を離さない。 「マサ」  その声と目を見た瞬間、政宗はレイがなにを求めているのか悟った。  抱けば、レイは拒まない。  今なら、きっと。  そう思った途端、政宗の体温が1℃だけ下がった。  レイは、渚を失ったばかりだ。心が壊れそうになっている今のレイが、本当に自分の意思で望んでいると言えるのか。地下でレイは一度も選べなかった。だからこそ、今だけは違ってほしかった。  起き上がったレイが上から政宗を覗き込む。紐の結び方を知らなかったレイのバスローブが肩から落ちる。長いまつ毛。体毛の一切ない肌。光の落ちた部屋でも、彫刻のような均整の取れた体のラインは目立つ。 ㅤ欲は、ある。経験がないだけだった。好きだと言って、その一線を越えることがなかった。それを、レイは軽く越えられる。 「レイ」  名前を呼ぶ声が掠れた。目を逸らしたくなる。けれどレイは笑う。レイの手が、どこかぎこちない仕草で政宗の体に触れる。 「あんたは、俺を売らないよな」  以前聞いた言葉だった。少し間を空けて「ああ」と答えると、レイが政宗の服を掴む。 「俺、お前がいい。……仕事じゃなくて、マサがいい」  そこには客の顔色を窺う光も、喜ばせようとする作り物の熱もない。ただ、不安そうに答えを待ちながら、それでも逸らさない瞳だけがあった。  ──人間の目だ。  政宗はその目を見つめ返した。渚の代わりを求めているわけじゃない。誰でもいいわけでもない。苦しくて、寂しくて、それでも今ここで自分を見ている。  その事実だけは疑いようがなかった。  レイは政宗の頬に手を添える。その指が、顔の形と皮膚の下にある頭蓋を確かめるようになぞった。そして目を閉じる。唇の距離がなくなる。  政宗は初めてキスを返した。目を開く。目の前にはレイの黒い、わずかな光を反射する瞳。……冷たい。けれどまだ、死んでない。 「なあ」  唇が離れる。 「生きてるって、教えてくれよ」  確認するようなレイの声が、政宗の耳朶を打つ。レイの細い指が、政宗の胸をなぞる。薄い皮膚の下で、政宗の心臓がどくどくとうるさく脈打っているのが嫌でも聞こえる。その上に確かめるように、レイはぴったりと掌を重ねる。墓地で見た光景が混ざる。動きが一瞬、止まる。レイの眼差しは静かに、けれど確かに政宗を見ていた。 「マサ」 「なんだ」 「……あったけーな」  そう声にしたレイの唇が、再び重なる。吐息を感じて、政宗はレイに手を伸ばす。 「レイ」  名前を呼ぶと、腕の中のレイがわずかに身体を震わせた。そのまま政宗はレイを強く抱き寄せ、ベッドへと優しく倒す。それからもう一度、唇を重ねた。  声も、時間も、体温も。  全部、レイと共有する。

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