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第3幕 第2話 家

 新しい部屋は、畳の青いにおいがした。  レイがやりたいというので棚を組み立てさせたら、何本かネジが余った。残りのネジを入れる場所を探すだけで、ずいぶん夜が更けた。  レイは座椅子に座って、新しい部屋をぐるりと見回す。 「ここ、俺たちの家?」 「そうだ」  政宗が首肯すると、レイがうひひ、と笑いながら畳の上に転がった。 「家かぁ」  天井を見上げたまま、嬉しそうに呟く。 「そんなに嬉しいか」 「うん」  レイはごろんと寝返りを打ち、政宗を見上げる。 「ここ、俺が寝てもいい?」 「もうお前の家なんだから好きにしろ」 「じゃああそこも?」  レイが押し入れを指差す。 「好きにしろ」 「台所も?」 「好きにしろ」 「風呂も?」 「そこは聞く必要あるか」  レイは声を立てて笑う。その笑い声が、まだ家具もそう多くない部屋によく響いた。  政宗は段ボールを一つ端へ寄せながら、部屋を見回す。  冷蔵庫も洗濯機も中古だ。テーブルも棚も安物で、ソファすら置いていない。実家とは比べものにならないほど狭い部屋だった。  それでも不思議と窮屈には感じなかった。  レイがいるからだろうか。  その考えが浮かび、政宗は思わず苦笑する。 「マサ、腹減った」 「さっき食っただろ」 「引っ越ししたら腹減る」 「そんな理屈あるか」  呆れながら冷蔵庫を開けると、中には買ってきたペットボトルのお茶と牛乳、それからコンビニのおにぎりが二つ入っているだけだった。 「今日はこれで我慢しろ」 「うん。俺シャケがいい」  レイは頷いて、おにぎりに手を伸ばした。少し不器用ながらも包装を剥いていくと、レイは「できた」と笑って政宗に見せてくる。政宗はおにぎりの包装を開けながら思う。  豪華な食卓も、高級な家具もいらない。こうして誰かと向かい合って食事をするだけで、部屋はちゃんと家になるのかもしれなかった。  引っ越してから数日が過ぎた。  まだ段ボールは部屋の隅に積まれたままだったが、冷蔵庫の中には牛乳や卵が入り、洗面所には歯ブラシが二本並び、畳の上にはレイが脱ぎ散らかした靴下が転がるようになっていた。そんな小さな変化を見るたびに、この部屋に人が暮らしているのだと実感する。  夕方になると、西日が狭い台所まで差し込む。二口しかないコンロの前へ立ち、政宗はフライパンを揺すった。玉ねぎが透き通り始める匂いに肉の焼ける匂いが混ざり、じゅう、と小気味いい音が鳴る。  こんな狭い台所で、自分が料理をする日が来るとは思わなかった。  実家では料理人やハウスキーパーが作ったものを食べるのが当たり前だった。自炊といえば茹でたパスタへ市販のソースを掛ける程度だった。腹が満たされれば十分だったし、味に不満を持ったこともない。  けれど今は違う。レイが「うめぇ」と笑う顔を思い浮かべながら火加減を見ているだけで、不思議と面倒だとは思わなかった。  塩はこれくらいでいいか。味噌汁は、少し薄いかもしれない。  そう考えながら箸で味見をしていると、背中の向こうで畳を歩く足音が近付いてきた。 「マサ、見に来たぞ」  振り返ると、レイが台所の入口からひょこっと顔を覗かせていた。狭い流し台と冷蔵庫に挟まれた空間へ入り込もうとしてくるので、政宗はおいおいと窘める。 「狭いから危ねぇぞ」 「大丈夫」 「大丈夫じゃねぇ。油跳ねる」  そう言っても、レイは素直に戻ろうとしない。政宗の背中と流し台の隙間へ身体を滑り込ませると、フライパンの中を覗き込んで目を丸くした。 「今日なに」 「生姜焼き」 「しょうがやき」  覚えたての言葉を確かめるように繰り返す声へ、政宗はフライパンへ向き直りながら言う。 「そんなに楽しみか」 「うん」  返事だけするレイの声に、ふと政宗は横顔を見上げた。距離が近い。この狭い台所では、半歩動けば肩が触れる。政宗はフライパンへ視線を戻そうとしたが、レイがじっと見ている気配がして落ち着かなかった。 「……なんだ」 「マサ」 「だからなんだよ」  レイは少しだけ首を傾げると、なんでもないことのように一歩、政宗の前に身を乗り出してきた。  唇へ柔らかい感触が触れる。  ほんの一瞬だった。  触れたと思った頃には離れていて、レイの、満足そうに笑った顔が目の前にある。 「……お前」  政宗は目を瞬かせたまま固まる。  今、された。  レイから。 「したかった」  あまりにもあっさり言われて、返す言葉が見つからない。  仕事じゃない。客へ向ける笑顔でもない。頼まれたからでも、教えられたからでもない。ただ、したかったから。それだけの理由で、自分へ触れてきた。  そのうち肉の焼けるにおいに煙っぽさを感じて、政宗はレイの額を軽く指で押した。それからフライパンの中を慌ててかき混ぜる。 「料理中にするな」 「だめ?」 「……だめじゃねぇけど、危ねぇ」 「じゃあ終わるまで待つ」  レイは素直に頷くと、今度は本当に台所から出ていく。その背中を見送りながら、政宗は腹の奥が少しだけ疼くのを感じた。食欲とは違うもう一つの欲が立ち上がりそうになって、政宗は慌てて首を振った。  フライパンの中では、肉が香ばしい匂いをさせていた。少し前までなら、腹が膨れればそれで十分だった。誰のためでもなく、自分だけのために作る飯は、味さえ付いていればよかった。  けれど今は、食卓の向こうで「おいしい」と笑う人間がいるだけで、少しくらい手間を掛けてもいいと思える。  そんなふうに考える自分が、政宗は嫌いじゃなかった。

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