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第3幕 第11話 学び

   ◇ ◆ ◇  二か月が過ぎる頃には、弘斗がアパートへ顔を出すこともすっかり日課になっていた。  最初は請求書の払い方やスマホの使い方を教わるだけだったはずなのに、気が付けば冷蔵庫の中身や布団の干し方も確認されている。レイは教えられたことを一つずつ覚え、次の日にはできるように何度も繰り返した。  ある休日、玄関のチャイムが鳴る。ドアを開けると、弘斗の隣には初めて見る女が立っていた。肩まで伸びた柔らかい髪に、淡い色のワンピースを着た穏やかな雰囲気の女は、レイと目が合うと少し照れたように笑った。 「美樹です。よろしくね」  美樹がぺこりと頭を下げると、ライトブラウンの髪もふわりと揺れる。なんだかいい匂いがした。 「三ば……あっ、レイです」  レイはそう名乗って、ぺこりと頭を下げた。 「この子がそうなの?」 「そ。マサに頼まれてたワケあり」  二人が並んで話している様子を眺めながら、レイはなんとなく尋ねた。 「なあ、なまくらとみきは毎日来れねぇの?」 「無理だ。仕事あるからな」  弘斗が笑う。 「しごと」  レイはその言葉を口の中で転がした。自分にも仕事はあった。時間になれば客が来て、終わればまた一人になる。  あれも仕事だと言われていたし、そう思っていた。けれどこの二人の言う仕事は、どうやら違うらしい。 「弘斗は自動車整備士だよ〜。車屋さん。私は保育士なの」 「車屋……ほいくし……」 「小さい子のお世話する仕事だよ」  聞き慣れない言葉に、レイは首を傾げた。それからレイは黙って頷いた。 「マサもなんか仕事してた?」 「おう。セキュリティ会社だったぞ」  弘斗が言う。 「セキュリティ?」 「建物とかシステムとか、人を守る仕事」  レイにはよく分からなかったが、頷いた。 「そういや、あいつ仕事どうしたんだろうな」  弘斗がぽつりと漏らす。その言葉に、レイはなにも答えられなかった。いつもみたいに客を待っていたら政宗が来て、外に連れ出してくれた。その時はなにも思わなかった。それから政宗は毎日レイを連れて、いろんなことを教えてくれた。  あれも、仕事なんだろうか。 「レイくんは働いたことある?」  美樹にそう尋ねられ、レイは笑って答える。 「してた。客の相手」 「接客?」 「そんなもん」 「へぇ。なにしてたの?」  そこまで言われて、レイは答えられることがなにもないことに気が付いた。政宗が不動産屋で、「病院暮らしが長くてって言え」と教えてくれたことを思い出す。あれは誤魔化していたんじゃない。説明しなくて済む言葉だったのだ。  レイは俯く。 「なんだったっけな……俺、病院暮らし長くて」  そしてそう誤魔化した。それから曖昧に笑う。弘斗と美樹は顔を見合わせて、それから深く聞かなかった。聞かない方がいいとなんとなくわかったのだろう。だからレイも、それ以上は話さなかった。  生活は少しずつ形になっていく。  ある日、美樹が流し台を見て目を丸くした。 「レイくん、洗剤は?」 「?」 「食器洗うやつ」 「水だけ」  弘斗が額を押さえた。 「マジか」  それだけでは終わらなかった。  洗濯機も水だけで回していたことが分かり、洗剤や柔軟剤の違いを一から教わることになった。弘斗は洗濯機の脇に置いてあったそれを手に取り、使い方を教えてくれる。 「これは洗剤。こっちが柔軟剤」  薬局へ行くたび、政宗が立ち止まっては商品の説明をしてくれていたことを思い出した。あの時は適当に頷いていただけだった。もっとちゃんと聞いておけばよかった。  そんな後悔が、少しずつ増えていく。それでも覚えれば、次は一人でできるようになった。 「ヒロ〜、ボウル出して」 「ほい」 「そんな大っきくなくていい」 「……ほーい」  弘斗の手伝いを借りながら、目の前で美樹が卵と材料をかき混ぜる。美樹がコンロの火を点ける。レイが「うぉっ」と声を上げる。フライパンがあたたまったころ、美樹はバターを広げ、焼いていく。それからオムレツをひっくり返す。 「おーすげぇ」 「じゃあ、レイくんも一回やってみよっか」 「え?」 「うん。見てるだけだと忘れちゃうから。ほら、卵、割ってみて?」  そうして、オムレツを作ることになる。殻の入った卵からどうにか殻をより分けて、軽量スプーンで何度も調味料を零しながら、レイはようやく卵液を作った。 「じゃあ火、点けてみよっか」 「お、おう」  レイは恐る恐るつまみを回した。ぼっと青い火が立った瞬間、反射的に半歩下がる。 「大丈夫、大丈夫」  美樹が笑いながら火加減を弱めた。そうしてなんとか作った料理を食べながら、ふと、二人を眺めていたレイはぽつりと零した。 「ミキって、母ちゃんみてぇだな」 「まあ、そういう仕事だしね」 「ふぅん。ほいくしって、母ちゃんみてえな仕事なのか」  レイがそう言うと、二人は同時に笑った。 「そしたら、なまくらは父ちゃん?」 「ナカムラだっつの。つか、こんなでかい息子がいてたまるか」  弘斗は吹き出す。レイも釣られて笑った。けれどすぐに、ここにいない政宗のことを思い出す。  あの人と政宗が親子だと思ったのは、初めて会った時にすぐわかった。あの人が直接連れてきた人。なにより、マスク越しでもわかる、目元の感じが同じだった。 「……マサって、父ちゃんとはどうだったんだろう」  思い描いていた親子とは少し違う。もちろん自分の親とも。そもそも自分に関しては、いたかどうかも定かではない。多分いた気がする。けれどもう、ほとんど覚えていなかった。だから比べようがないのだけれど、政宗とあちこちを旅しているあいだに見かけた親子は、少なくとも、美樹と弘斗みたいに、あたたかみがあった。  そんなことを考えていると、レイの独り言を拾った弘斗が口を開く。 「政宗か?」 「うん」  弘斗は少しだけ考え込むように顎へ手を当て、それから苦笑した。 「親父さんとは、あんまり似てなかったな」 「そうなのか?」 「見た目はそっくりだけどな。中身は昔から違った」  レイは黙って続きを待つ。 「小学生の頃だったかな。俺ん家でゲームしてても、夕方になると『帰る』って言うんだよ」 「帰りたかったのか」  弘斗は首を振る。 「いや、帰りたいっていうより、帰らなきゃいけないって感じだった」  レイはその言葉を頭の中で繰り返す。  帰りたい、じゃなくて、帰らなきゃ、なんだ。 「宿題も毎日きっちりやるし、親父さんから電話が来たらすぐ帰るし。俺なんか『もうちょっと遊ぼうぜ』って言ってたのにな」  弘斗は懐かしそうに笑う。 「真面目だったんだな」 「真面目っていうか……怒られないようにしてたんだろうな」  その一言だけ、少しだけ空気が変わった。  レイはなにも言えなかった。  政宗が怒られている姿なんて想像できない。いつも落ち着いていて、困ったように笑うことはあっても、誰かに怯えているようには見えなかったからだ。  けれど、そうじゃない時間もあったのだろうかと考えると、胸が苦しくなる。  政宗は、自分の知らないところでもずっと頑張ってきたのかもしれない。 「……マサが帰ってきたら、俺の料理食わせてぇな」 「おう。頑張れ」 「そうそう。レイくんならできるよ〜」  弘斗と美樹に励まされ、レイは頷いた。  それからレイは、米を炊き、味噌汁を作り、卵を焼くことも覚えた。失敗して焦がした日もあったが、作る度に少しだけ上手くできた。  そして空いた時間には、ノートを開いた。政宗に教わった平仮名を書き直し、その下へ弘斗に教わった片仮名を書き足し、美樹から簡単な漢字を教えてもらう。  字が一つ書けるたび、レイは自然と笑っていた。  マサが見たら驚くだろうか。それとも褒めてくれるだろうか。  そんなことを考えながら鉛筆を動かしている時間は、不思議と寂しさを忘れられた。けれど夜になると、その気持ちは決まって途切れる。  食器を片付け、部屋の明かりを落とし、布団へ入る前には、必ず一度だけ玄関へ目を向けてしまう。  今日も政宗は帰ってこない。  最初の頃は、少し帰りが遅いだけだと思っていた。仕事が長引いているのかもしれない。遠いところに行ったのかもしれない。そうやって無理やり自分を納得させていた。  でも、もう二か月だ。さすがに遅い。  マサ、もう帰ってこねぇのかな。  この先政宗が帰ってこなかったら、と考えそうになって、レイは慌てて袖で目元を拭った。  布団へ入ると、目を開けても閉じていても、あの日の背中が浮かぶ。  必ず戻る。  そう言って出ていった。  ……渚も、こんな気持ちだったのかな。  病室で目を覚ました時も、施設へ連れて行かれた時も、自分が一人になったことより、俺がどうしているかばかり考えていたんだろうか。  そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。  前なら平気だった。  誰かが帰ってくるのを待つことも、その足音へ耳を澄ませることも知らなかった。  でも今は違う。玄関の向こうが静かなままだと、それだけで部屋がより寒く感じられる。  ── 一人ぼっちは、寂しい。  その言葉を心の中で呟いてから、レイは自分でも驚いた。  前なら、こんなこと思わなかったのに。  そんなことを考えながら、レイは政宗が畳んで置いていった布団へそっと手を伸ばし、残っているはずもない体温を探すように目を閉じた。

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