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第3幕 第13話 自由へ
解放される日が来たのは、それから数日後のことだった。
病室へ入ってきた職員は政宗へ着替えを渡すこともなく、「こちらへ」とだけ告げる。その後ろを歩きながら、政宗は長かった病室での生活がようやく終わるのだと実感していた。
案内された部屋には父がいた。
広い執務室の机の脇には、大きな段ボールが一つと、封筒が置かれている。
「持って行け。三番の情報は消してやる」
「……嘘じゃねぇだろうな」
父は答える。不動明王のような厳しい顔が、静かに語る。
「ああ。お前があの男をどう利用するのか、知りたくなった」
「利用なんてしねぇ。俺はレイと生きるだけだ」
「そうか。……とはいえ、三番を始末するよりも、お前たちを監視するコストの方が遥かに低いと判断しての結果だ」
「だろうな」
「わかっていたのか」
「ああ。アンタは、採算の取れないやつにはこだわらないから」
そこまで言い切ると、父がため息とも取れない息を吐いた。
「条件がある。地下については口外するな。すれば命の保証はない」
「……わかった」
政宗は頷いた。頷くしかなかった。
やがて父は部屋を出て行く。
段ボールの前に立つと、真っ先に「No.3」と貼られたラベルを剥がした。それからゆっくりと箱を開けた。
中には、小さな子ども服が丁寧に畳まれて入っていた。色褪せた靴下、小さな運動靴、何度も洗われた跡の残るシャツとズボン。それだけだった。
五歳で時間だけが止まったように見えるそれには、レイの人生が詰まっていた。政宗はそれに手を伸ばしかけたが、手を触れることができなかった。二十年も前に奪われ、その続きを生きられなかった時間を、自分が軽々しく触れていい気がしなかった。
箱の隣の封筒には一冊の通帳と財布、それから身分証がまとめられていた。名義はレイの本名になっている。通帳を開くと、残高には三千万円という数字が並んでいる。金額だけで見れば少なくはない。けれど、人の二十年に付けられた値段としては、安すぎると思った。
政宗は通帳を閉じ、さらに封筒をひっくり返す。ひらひらと一枚の写真が落ちてきた。
ランドセルを背負った少女が、入学式らしい桜並木を背景に、少しだけ照れたように歯を見せていた。
……似ている。目元や笑った時の口元が、レイによく似ていた。この一枚だけは、加工ではない。本当に存在した、妹の写真なのだと政宗にはわかった。
レイはきっと、この写真を何度見返したのだろう。妹は元気に暮らしていると信じて、一枚一枚を宝物みたいに眺めていたのかもしれない。会えない時間が長くても、この写真に向かって大丈夫だと、自分にも言い聞かせていたのかもしれない。
そう思った途端、喉の奥が熱くなった。
泣くな。
今ここで泣く資格なんて、自分にはない。政宗は込み上げるものを飲み込みながら、写真を封筒へと静かに戻した。
その時、背後でドアが開く音がした。振り返ると父が戻ってきていた。
互いにしばらくなにも言わなかった。ようやく父が口を開く。
「戸籍は抜いた。今日限り、お前は大路とは無関係だ」
政宗は頷くだけだった。会社も家も名前も、ここへ来る前には想像もしなかったほど多くのものを失ったはずなのに、不思議と後悔だけは浮かばなかった。
父は窓の外へ視線を向けたまま続ける。
「私は、お前なら戻ると思っていた」
政宗は黙って聞いている。
「三か月待った。時間が経てば考えも変わると思った。会社へ戻る道も残した。経営だけでも構わないと言った。……だが、お前は変わらなかった」
その声音には怒りも悔しさもなかった。ただ計算が外れたという事実だけを受け入れたような静けさがあった。
「お前は母さんにも似ている」
政宗は思わず父を見る。父は振り返らない。
「一度決めたら損得では動かないところも、人のためなら自分を後回しにするところも、あいつによく似ている」
少しだけ間が空く。
「妻が愛した息子を、これ以上鎖で繋ぐつもりはない」
政宗は返す言葉を失った。
父は最後まで自分のやり方を間違っていたとは言わない。謝りもしない。それでも今の一言だけは、経営者でも大路グループの会長でもない、一人の夫であり父親として口にした言葉なのだと分かった。
「……馬鹿なことを」
ぽつりと零れたその一言に、政宗は初めて親子らしい言葉だと思った。けれど政宗はなにも言わなかった。
「行け」
父の最後の言葉は、それだけだった。
政宗は写真と通帳と身分証を抱え、静かに部屋を出る。
安心したわけではない。自由になれたはずなのに胸の中へ残っているのは空っぽになったような感覚だけで、三か月という時間が失われた事実はなに一つ変わらない。
「……クソジジイ」
二十五年間、一度も口にしたことのない悪態が自然と口から零れた。
父は振り返らない。返事も、別れの挨拶もない。そのまま案内されるまま建物を抜けると、重い門がゆっくりと開く。
久しぶりの太陽の下、病院着のまま外へ出る。背中で鉄の門が静かに閉じた。
振り返っても、もう中は見えない。
肩へ手を当てると傷は塞がっていた。それでも三か月前に撃たれた痛みだけは、身体のどこかへ残り続けているような気がした。
レイはちゃんと飯を食っているだろうか。夜は眠れているだろうか。約束を信じて、まだ自分を待っているだろうか。
そのことだけを考えながら周囲を見回すと、見知らぬ道がどこまでも続いていた。
「……ていうか、どこだここ」
思わず漏れた独り言に苦笑しながら、政宗はレイの待つ家へ帰るため、ゆっくりと歩き始めた。
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