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第3幕 第14話 ただいまとおかえりの間に
二人で暮らしていたのアパートにたどり着いた頃、あたりはもうすっかり夜になっていた。
アパートの階段を一段ずつ上がるたび、心臓が嫌にうるさかった。
三か月。たった三か月なのに、もっと長い時間が経ったような気がしていた。やっと帰ってきたという安堵を胸に抱くかたわら、少しの不安もあった。
レイが、もし自分を待っていなかったら。もし自分がいなくても平気だったら、どうすればいい。
そんな考えが何度も頭を過ぎる。そのたびに足が止まりそうになるが、ここまで来て引き返す理由も、他に行く宛てもなかった。
ドアの前に立つ。政宗は深く息を吸ってから、ゆっくりとノックをした。
「レイ。俺だ」
ドアの向こうはシンとしていた。……もしかして出かけているのか。それとも寝ているのか。そう思った矢先、部屋の向こうで慌ただしい足音が響き、勢いよく鍵が開いた。
扉の隙間から黒い髪が覗き、そのあとすぐに見慣れた顔が飛び出してくる。
「……っ、マサ!」
その声を聞いた瞬間、体の血の巡りが速くなったような気がした。
生きていた。
ちゃんとここにいる。
ぶわ、と身体の奥から熱が込み上げる。レイは政宗の腕を掴み、安心したように笑ったかと思うと、すぐに眉を寄せた。
「おい、なんだこれ」
「なにが」
「なんも持ってねぇじゃん」
言われて初めて、自分が病院着のままだということを思い出した。財布もスマートフォンも、車の鍵もない。握り締めた小さな封筒だけが、この三か月で自分の手元へ残ったすべてだった。
思わず苦笑が漏れる。
「全部置いてきた」
レイは目を丸くしたまま政宗を見つめていた。
「でも、これだけ持ってきた」
封筒を開き、中から一枚の写真を取り出す。
レイへ差し出すと、不思議そうに受け取ったその視線が写真へと吸い込まれて行った。
最初はなにが写っているのか確かめるように眺めていた目が、不意に動かなくなる。瞬きさえもしない。まるで時間まで止まったような沈黙が、そこに流れる。
やがて震える指先が、写真の端をそっと撫でた。
「……なぎさ」
喉の奥から絞り出されたような声は、届かないのがわかっていてもなお、そこにいる彼女に呼びかけるような響きだった。
次の瞬間、ぽたりと雫が落ちる。一粒落ちると、それを堪えられなくなったように涙が溢れ続けた。
レイは声を上げなかった。ただ写真を胸へ抱き締め、肩を小刻みに揺らしながら泣いていた。
政宗はその姿を見つめていた。
レイが手にしたその一枚だけは、本物だった。彼女が生きていた時間を、正しく映したもの。そう思った途端、自分まで視界が滲んだ。
三か月間、堪えてきたものが胸の奥から込み上げてくる。
ちゃんと戻ってこられた。
その当たり前のことが、どうしようもなく嬉しかった。
どれくらいそうしていただろうか。
涙を拭ったレイは写真を大事そうに抱えたまま政宗を見上げると、不意に口元を緩めた。
「ばーか」
笑ったと思ったら、今度は思い出したように眉を吊り上げる。
「おせぇよ」
政宗は笑うしかなかった。
「悪かったな」
本当に、悪いと思っていた。すぐ戻るという約束を、守れなかった。三か月も待たせてしまった。その全部が胸へ刺さる。けれどレイはそれ以上責めることはせず、照れくさそうに目を細めた。
「おかえり、マサ」
その一言を聞いた瞬間、ここへ帰ってきたのだとようやく実感した。病室でも、父の前でも感じなかった安堵が、胸の奥へゆっくりと広がっていく。
政宗は笑って頷いた。
「……ただいま」
そうして、政宗とレイは静かに抱き合う。しばらくして、レイが不意に首を傾げる。
「つか、お前、なんかデカくね?」
政宗は思わず吹き出した。
「筋トレしまくった」
「なんでだよ」
「やることなかったから」
そう言うと、レイは腹を抱えて笑い始める。その笑い声を聞きながら、政宗もつられて笑った。
三か月前、この部屋を出る時には想像もできなかった。
こうしてくだらないことで笑い合える日が、本当に来るとは思っていなかったから。
ひとしきり笑ったあと、部屋には穏やかな静けさが戻っていた。
三か月という時間は決して短くなかったはずなのに、不思議なことに向かい合って話していると、その空白を少しずつ埋められるような気がした。
「そういや、お前、俺がいないあいだ、どうしてた」
政宗はソファへ腰を下ろしながらレイを見る。
レイは「ああ」と頷くと、思い出したことを一つずつ話し始めた。
弘斗に助けられたこと。その恋人の美樹にも世話になったこと。コンビニで一人で買い物ができるようになったこと。請求書というものを初めて知ったこと。洗剤を入れずに洗濯機を回して怒られたこと。文字を書く練習を始めたこと。包丁で指を切って弘斗に大騒ぎされたことまで、照れくさそうに笑いながら話す姿を見ていると、自分が知らないところでレイの時間も確かに進んでいたのだと実感した。
「ちゃんと生活してたんだな」
「まあな。結構頑張ったんだぞ、俺」
レイは少し得意そうに胸を張る。なんだかおかしくて、政宗は笑う。
「でも夜になるとさ、玄関、見ちゃうんだよな」
レイはそこで少しだけ笑みを弱めた。その一言だけで、三か月という時間がどれほど長かったのか、改めて胸へ重くのしかかる。
「悪かった」
自然と口をついて出た何度目かの謝罪に、レイは首を横へ振った。
「帰ってきたから、いい」
その言葉に救われた気がして、政宗は笑った。すかさず、レイに抱きつかれる。政宗が「いてぇ」と顔を顰めると、レイはふと距離を取り、政宗の顔を覗き込んだ。誤魔化そうとしたが遅かった。ふとレイが立ち上がる。そして、躊躇うことなく病院着の襟元へ手を掛けた。
「お、おい」
政宗がはぐらかすまもなく、肩口がゆっくり露わになる。傷口は塞がっていたが、皮膚にはまだ生々しい痕が残っていた。
レイはなにも言わず、その傷を見つめている。それからつと唇を開いた。
「……撃たれた?」
「まあ。でも大したことねぇよ」
短く答えると、レイの指先が傷跡へそっと触れた。最初は恐る恐るだったその指が、次の瞬間ほんの少しだけ力を込める。
「っ、いてぇ」
思わず顔をしかめると、レイがくすっと笑った。
「撃たれた時、くそいてぇって言ってた?」
「言ってねえ」
「言ってそう」
「笑うな。くそ痛かったんだから」
言い返した途端、レイは吹き出した。
「ほら、言ってるじゃん」
「揚げ足取るな」
くつくつと笑いながら肩を震わせていたレイは、やがてその笑みをゆっくりと収める。
「……つか、お前の親、やばいな」
「今さらだろ」
「それもそうか」
小さく頷いたあと、レイはもう一度傷跡へ視線を戻した。
「頑張ったんだな」
その声には、さっきまでの冗談めいた調子はなかった。政宗は照れくさそうに頭を掻く。
「珍しくな」
「頼もしいんだか、情けないんだか」
「うるせえよ」
そう返すと、レイは優しく笑う。
「嘘。ちゃんと頼もしいぜ、マサ」
真っ直ぐに見つめられると、照れくさくて視線を逸らしたくなる。けれど逃げるより先に、レイが少しだけ背伸びをした。唇へ触れた温もりはほんの一瞬だったのに、それだけで心臓が跳ねた。
離れたレイは、いたずらが成功した子どものような顔で笑った。
「ごほーびってやつ」
政宗は思わず苦笑し、その笑顔を見つめ返す。
「じゃあ、お前にも」
今度は政宗がそっと顔を寄せると、レイは嬉しそうに目を細めた。短い温もりが重なって、そっと離れる。レイは頬を緩めたまま「へへ」と笑う。
政宗の体から、ゆっくり力が抜けていった。
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