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5-3 誰もいらない
身分証を一つずつ揃え終えた政宗は、新しい仕事を探し始めた。三か月ものあいだ連絡もなく姿を消した以上、以前勤めていた会社から復職の話が来るはずもない。好きな仕事だったし未練がないといえば嘘にはなるが、致し方ない。他にも仕事はあるし、元の職場にだって、自分の代わりはいる。
そうして、政宗は正社員登用制度のある倉庫で働くことに決めた。
仕事を終えてアパートへ帰ると、玄関を開ける前から部屋の明かりが漏れているのが見えた。
「ただいま」
「おかえり」
レイは丸いちゃぶ台へ向かったまま顔を上げ、いつものように笑う。その何気ないやり取りだけで、帰る場所があるのだと実感できるようになっていた。
ちゃぶ台の上には書きかけの履歴書と何枚もの証明写真が広げられている。
「なあ、俺の名前、これで合ってる?」
レイは履歴書を持ち上げ、不安そうに政宗を見る。政宗は履歴書を手に取り、視線をやる。記入欄へ目を落とす。
月島 蓮生
そこには見慣れないはずなのに、もう見慣れ始めている名前が、癖のあるレイの字で書かれていた。
政宗は頷き、履歴書をレイに返す。
「そう。それで合ってる」
「なんか読みづらくねぇ? 俺は俺なのに、違う名前みてぇ」
政宗は苦笑しながら頷いた。
「ちゃんとお前の名前だ」
「ふーん。……にしても、画数多いな」
納得したような、していないような顔で頬を掻いたレイは、今度は履歴書へ視線を落とした。
「そういや、俺の特技ってなんだ」
「早食い」
「それだけ?」
「あと、お子ちゃま舌」
「お子ちゃま舌って特技なのか」
「知らねえよ。早食いも特技じゃねえ」
レイは少し考え込んでから、ほどけるように笑った。
「やっぱ、接客か」
その言葉に、政宗はつい机へと視線を投げた。
並べられた証明写真が目に入る。同じ顔が何枚も並んでいた。表情はどれもよく似ているはずなのに、視線の向きや口元の力の入り方が少しずつ違っている。証明写真機で撮ってきたのだろう。あの白い箱の中でカメラのレンズを見つめて笑ったレイを思い浮かべながらそのうちの一枚を手に取った瞬間、不意に胸がどくりと音を立てた。
白い背景。まっすぐこちらを見る視線。
その構図を見た途端、脳裏であの地下の部屋がよぎる。
窓もない部屋の中央に置かれたベッド。
そこで客を待っていたレイ。
静かな声で問い掛けられた言葉まで、鮮明に蘇る。
──客?
政宗の中で一瞬時が止まる。けれど次の瞬間には、目の前の景色へ意識を引き戻した。
ここはあの地下ではない。目の前にいるレイは服を着て、履歴書を書きながら、自分の特技がなんなのか真剣に悩んでいる。
「なにその顔。うんこしてえの?」
気が付けばレイが怪訝な顔で政宗を見ていた。間の抜けた声はいつもの調子だった。政宗は思わず顔をしかめた。
「……お前、本当に黙れ」
「図星かよ」
レイは堪えきれず吹き出す。
政宗も苦笑しながら証明写真を見比べ、その中の一枚をれいの前にすっと差し出した。
「写真、これが一番いい」
レイは首を傾げる。
「なんでぇ?」
政宗は写真の中のレイを見つめ、それから本人へ視線を移した。
「今の顔してる」
それだけ言うと、レイは写真と政宗の顔を見比べ、やがて嬉しそうに口元を緩めた。
その笑顔を見ていると、政宗まで口元が緩まった。
政宗が仕事に慣れ始めた頃、今度はレイもいよいよ面接へ通うようになった。
履歴書を書き、証明写真を貼り、慣れない敬語を口の中で繰り返しながら家を出る姿は、地下で客を迎えていた頃とはまるで違って見えた。
けれど結果は不採用だった。
それからもレイは面接へ通い続けた。しかし不採用通知が届くたび、レイはなにも言わず封筒を折り畳み、引き出しへしまう。最初の頃は「次だな」と笑っていたのに、三枚、四枚と増えていくにつれて、その笑顔も少しずつ減っていった。
ある日の夜、不採用通知を読み終えたレイは、新しい履歴書を広げると、自分の名前を書き終えたところでペンを置いた。
「……なんにもなんねぇな」
その声は独り言のように小さかった。
政宗は黙ってレイを見る。
「ひらがなも覚えたし、漢字も、少しは書けるようになったってのに」
レイは履歴書へ目を向けたまま笑う。学歴、職歴。そこだけは真っ白で、なにも書けていない。というより、書けるものがない。
「敬語も覚えたし、面接も時間通りに行ったし、毎回ちゃんと『よろしくお願いします』って言ってんのに」
そこまで言うと、履歴書を両手で持ち上げる。
「……もういい」
ぐしゃり、と紙の潰れる音が部屋へ響いた。
「どうせまた落ちる」
その声には怒りよりも疲れが滲んでいた。政宗はすぐには言葉を返せない。励ましたところで、不採用通知が消えるわけではないことくらいわかっていたし、今度は絶対大丈夫とも軽々しく言えなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、レイは丸めた履歴書を見つめながらやるせない息を吐く。そしてちゃぶ台に突っ伏して、握っていた紙を少しだけ緩める。
「……嘘。ほんとは働きてぇ」
そしてくしゃくしゃになった履歴書を、そっと撫でた。困ったように笑った顔は泣きそうにも見えた。
「けど、もう落ちんの嫌なんだ。誰も、俺のこといらないみたいじゃん」
その一言は、レイの本音だった。
政宗はその姿を見ながら、レイが欲しかったのは金ではなく、誰かに必要とされる場所なのだと、ようやく理解した。
掛ける言葉を探しているうちに、部屋には重い沈黙だけが流れていく。慰めても現実は変わらないし、「次は大丈夫だ」と言ったところで根拠なんてどこにもない。そんなことを考えていると、ちゃぶ台へ突っ伏していたレイが、ふと思い出したように顔を上げた。
「ああでも、履歴書いらねぇ仕事ならあったわ」
政宗もレイにつられるように顔を上げる。
「……なに」
「モデル。あとホスト」
政宗の体温が一度下がった。レイは政宗の表情の変化に気付かないまま、指を折りながら続ける。
「あと、携帯電話を契約して、それを売るだけの仕事もどうかって言われた。身分証だけでいいって」
耳を疑った。携帯電話を契約して売る。そんな仕事がまともなはずがない。政宗の胸が一段と冷える。
「……お前、その話どうした」
「んー? マサに聞いてみるって言った。でも身分証だけでいいなら、やってみるのも」
「駄目だ」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。
レイがびくりと肩を震わせ、目を丸くしてこちらを見る。その表情を見た瞬間、怒鳴りたいわけじゃないと頭ではわかっているのに、どうしても言葉を緩められなかった。
「それだけは絶対に駄目だ。モデルもホストも、その携帯の仕事も全部だ」
地下からようやく連れ出したレイが、また別の誰かに利用される光景が頭をよぎる。
「やるな」
意図せずその声は低くなる。けれど命令じゃ足りない。頼まなければ伝わらない気がした。
「……頼む」
気付けばそう口にして、レイのシャツを握り締めていた。レイは戸惑ったように何度か瞬きを繰り返したあと、こくこくと頷く。
「お、おう。わかった」
その返事を聞いて、政宗はようやく息を吐く。全身から力が抜けていくのがわかった。
「そんなにやべぇ仕事なのか」
不思議そうに尋ねるレイを見ながら、政宗はすぐには答えられなかった。
どう説明すればいいのかわからなかったわけじゃない。ただ、今ここで金に困った人間を食い物にする連中の話や、甘い誘いの先にある現実まで話してしまえば、レイがようやく忘れかけていたものまで思い出させてしまう気がした。
政宗は静かに息を吐き、皺だらけになった履歴書の皺をそっと伸ばす。
「……まともな仕事を探そう。時間が掛かってもいい。俺も一緒に探すから、そういう話だけは二度と受けるな」
レイは少し考えるように政宗を見つめ、それから素直に「うん」と頷いた。
その返事に胸を撫で下ろしながらも、レイが思っていた以上に追い詰められていたことに気付く。
政宗は、その事実だけを静かに噛み締めていた。
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