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5-5 百円納豆

 仕事帰り、政宗はいつものようにそのままレイが働く喫茶店へ足を向けた。  扉を開けると、カラン、と控えめなベルが鳴る。するとカウンターの奥でコーヒー豆を挽いていたマスターが顔を上げた。蓄えた口ひげがわずかに動く。 「彼氏くん、来たよ」 「……ちょっと待ってください。なんで彼氏なんですか」  政宗は思わず立ち止まる。  銀縁眼鏡の奥から穏やかな目がこちらを見る。白髪混じりのオールバックも、きっちり整えられた口髭も、いかにも昔ながらの喫茶店の店主という雰囲気だった。 「違うの?」  あまりにも自然に聞き返され、政宗は返事に詰まる。その様子を見ていたマスターは背筋を伸ばしたまま微笑むだけで、それ以上はなにも言わなかった。  ちょうどその時、厨房の奥からエプロン姿のレイが顔を出す。 「おー、いらっしゃい、マサ」  レイはトレーを持って政宗の前まで来ると、皿を一枚置いた。 「締め作業するから待ってて。あ、これ、よかったら食べて」 「なにこれ。焦げてんだけど」 「ホットサンドだから」  政宗は皿に乗った、黒茶色の四角いそれを見つめる。 「いやでも、」 「そういうやつだから」  真顔で言い返され、政宗はそれ以上なにも言えなかった。見た目は少々不安だったが、一口食べてみると、意外と味は悪くなかった。  店内を見回すと、レイは慣れた様子で客へ水を注ぎ、ラストオーダーを聞いて回り、空いた皿を下げている。その動きにはまだ少しぎこちなさが残っているものの、客もマスターもそれを気にしている様子はなかった。  地下で身につけた接客とはなにもかも違うはずなのに、人と向き合うことそのものは、レイの中へちゃんと残っていた。  レイが厨房へ戻ると、カウンターの奥でカップを磨いていたマスターが静かに近付いてきた。 「お待たせ。これ、サービス」  そう言って、湯気の立つコーヒーカップを政宗の前へ置く。 「ありがとうございます」  立ち上る香りに、政宗はカップをじっと見た。深煎り特有の苦味だけではなく、少し甘い香りも混じっている。  一口含むと、重たいコクが舌の上に広がったあと、後味は思いのほかすっきりと消えていく。 「……これ、ブレンドですか」  マスターの眼鏡の奥の瞳に宿る光が、少しだけ強くなる。 「わかる?」 「はい。ブラジルがベースですか。……あと、直火焙煎ですよね」 「ほう」  政宗の言葉に、マスターは眼鏡のずれを直す。 「最近は熱風焙煎が多いんだけどね。うちは昔からこれなんだ」 「やっぱり。香りの立ち方が違います」  マスターは感心したように頷く。 「詳しいんだね」 「俺もよく家でコーヒーを飲んでたんで」  そう答えてから、政宗は軽く頭を下げた。 「あ、俺、大路政宗です。その……レイを雇ってくださって、本当にありがとうございます」  今更ながらお礼を言うのも変かと思ったが、紹介してもらった手前、そう言うべきだと思った。けれどマスターは顔を上げ、政宗をじっと見る。見つめられて、顔に変なものでもついているのかと不安に思った矢先。 「大路? ──あの、大路ホールディングスの?」  マスターのその言葉には、冷ややかなものを感じた。政宗は一瞬迷ってから、静かに首を振った。 「……いえ、違います」  少しだけ間が空いた。マスターは政宗をじっと見つめていたが、やがて何事もなかったようにカップを拭き始める。 「そう。人違いならいいけど」  穏やかな声だった。 「昔、きな臭い噂を聞いたことがあってね」  政宗の肩がわずかに強張る。 「人身売買をしているんじゃないか、とか」  マスターは視線だけを厨房へ向ける。  ちょうどその先では、金色の髪を揺らしながらレイが笑顔で客へコーヒーを運んでいた。 「黒髪の、アジア人の男が人気だったとも聞いた」  政宗はなにも言えなかった。  マスターもそれ以上は続けない。  ただ静かにカウンターを拭き終えると、いつもの穏やかな声へ戻る。 「まあ、噂話は噂話だ」 「……」 「コーヒー、冷めるよ」  政宗は黙ったままカップを持ち上げる。  さっきまで感じていた香ばしい香りが、今は少しだけ苦く思えた。  レイが退勤したあと、二人はそのまま近所のスーパーへ寄る。  買い物かごを持って歩いていると、さっきまで菓子売り場にいたはずのレイがいつの間か隣へ来ていた。 「なに悩んでんの?」  政宗は納豆を見比べたまま答える。 「朝飯。百円のやつにするか、百五十円のやつにするか」 「わ、俺の嫌いなやつ」  レイは露骨に顔をしかめる。 「いや、うめえだろ」 「うぇ」  並んだ値札を眺めていたレイが、不意に政宗を見た。 「……な、それ、前の俺だったらいくつ買えんの」  政宗は思わず眉を寄せる。 「納豆で数えんな」  そう言って百円の方をかごへ放り込み、そのまま卵売り場へ向かう。後ろからレイがついてくる。 「なあなあ、卵、高い方でもいいぞ」 「黙れ」  レイは声を上げて笑った。  その夜、夕食を終えて二人で食器を片付けていると、不意にレイがぽつりと呟く。 「俺、納豆より安いな」  政宗は思わず手を止めた。レイがなにげなく呟いただろうその言葉に、ふと、マスターの言葉が蘇る。  ──黒髪のアジア人。  レイの人気の高さは数字で知っている。胃がムカムカするのを誤魔化しながら、政宗は口を開く。 「値段なんか付いてねえよ」  そう返すと、レイはにっと笑う。 「『タダより高いものはない』ってやつだ」  どこか得意げな言い方だった。政宗は嘆息する。 「意味違ぇよ」 「へへ。……なあ、マサは後悔してねぇ?」  その問いに、政宗は少しも考えなかった。 「してたら、お前に納豆買わせてる」  レイが吹き出す。 「うは」 「百五十円のやつ」 「鬼かよ」  笑い合う声が、狭いキッチンに広がった。

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