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6-2 バターサンドクッキー

 店を引き継ぐ準備は、想像していたよりずっと忙しかった。  保健所で食品衛生責任者の講習を受け、営業に必要な手続きを一つずつ覚えていく。教室の一番後ろへ並んで座っていたレイは、開始から一時間もしないうちに机へ肘をつき始めた。 「寝そう」  小さな声がぼそりと言う。 「寝んな」  政宗が横から肘で軽く突くと、レイは「起きてる」と言いながら大きな欠伸を噛み殺した。  店へ戻れば、今度は料理の練習が待っていた。接客はもう問題なかったが、火を使う料理だけは相変わらずまだ危なっかしい。フライパンを振るたびにマスターが眉をひそめ、政宗は思わず苦笑する。 「原始人かよ」 「一年生だ」 「そろそろ二年生だろ」  そう返すと、レイは一瞬だけ目を丸くした。 「……もうそんな経つのか」  地下を出てから流れた時間を指折り数えるように黙り込み、レイはなぜか、少しだけ得意そうな顔をした。 「つーか、料理に関しては俺メインでやるぞ。レイ、まだ火怖いだろ」 「んー」  レイはなにか考えるように斜め上を向く。それからなんでもないように笑って言った。 「マサ、肩まだいてぇだろ。フライパン振るのぐらい、俺にだってできる」  そう言って、レイは撃たれていない方の肩にぽんと手を乗せた。頼もしくもしっかりした手のあたたかさに、政宗は言葉に詰まる。困惑というよりは、思いがけない気遣いに反応が遅れた。……レイが、気を遣っている。  そのことがやけに嬉しいような、少し複雑な気持ちだった。  そんなある日だった。  店に大量の段ボールが到着した。運び込まれたそれを見てなんとなく嫌な予感はしていた。案の定、箱を開けた政宗は固まった。 「……どうすんだこれ」  中にぎっしり詰まっていたのは、見たこともない量のバターだった。  原因は聞くまでもない。金髪の犯人は気まずそうに視線を逸らし、頭を掻きながら笑う。 「えーと……」 「お前だな」 「はい」  首根っこを掴んで、搬入口で取り押さえる。 「どうすんだこれ。ハムならまだしも、バターそんな使うメニューねえよ」 「新メニュー出す?」 「たとえば」  レイは慌ててスマートフォンを取り出し、検索した画面を政宗へ突き付ける。 「えっと……あ、これとか!」  画面を覗き込むと、『バター大量消費レシピ』という文字の下へ、いくつもの菓子や料理が並んでいた。  その中の一つが目に留まる。 「……バターサンドクッキーか」  政宗はちらりとマスターを見る。  助け舟でも出してくれるかと思ったが、マスターは二人に目配せしただけで、相変わらずなにも言わなかった。どうやら自分たちでなんとかしろということらしい。  政宗はもう一度スマートフォンの画面を見やる。 「……俺たちでレシピ、考えるか」  レイの表情がぱっと明るくなる。 「おー」  その返事を聞きながら、政宗の口許は自然と緩んでいた。また面倒なことに巻き込まれたと思う反面、それをレイと一緒に考える時間は、案外嫌いではなかった。  翌日から、店の厨房はしばらく甘い匂いに包まれることになった。  大量に届いたバターを前に、政宗はノートを広げて原価を書き出し、レイはその横でスマートフォンを片手にレシピを見比べている。 「とりあえずバター入れりゃうまいんじゃねぇの?」 「その理屈で商売できたら苦労しねえよ」  政宗は材料の単価を一つずつ計算しながら、売値との釣り合いを考えていく。 「一個三百円なら買うか……いや、高いか」 「もっとバター入れようぜ」 「利益飛ぶぞ」 「利益って飛ぶの?」 「飛ぶんだなそれが」  レイは難しい顔で頷いたものの、十分もするとまた「もっと入れようぜ」と言い始める。  焼いては失敗し、冷やしてはやり直し、甘すぎるだの固すぎるだのと言い合いながら試作を繰り返していると、閉店後の店はいつの間にか二人だけの実験室みたいになっていた。  その様子をマスターはなにも言わず眺め、ときどき試作品を一口だけ食べては静かに首を振る。 「……まだまだだね」  それだけ言って、カップへコーヒーを注ぐのだった。  結局、完成まで十日近く掛かった。  厚めに焼いたクッキーへ、甘さを抑えたバタークリームを挟み、コーヒーに合うよう少しだけ塩味を利かせる。  最後の一つを口へ運んだマスターは、しばらくなにも言わず噛み締めていたが、やがて一度だけ、しっかりと頷いた。 「いいんじゃないか」  その一言に、政宗はレイと顔を見合せた。 「おっしゃー!」  レイのはしゃぐ声が、店内に響き渡った。  翌朝、店の前の黒板に、政宗が白いチョークで新しい文字を書く。 『期間限定 自家製バターサンドクッキー』  販売初日、レイは少し緊張した様子で客へ声を掛けていた。 「今日から新しいやつあるんだけど……よかったら食べてみる?」  すると常連客は興味半分で注文し、一口食べると目を丸くする。 「これ、美味しい!」 「ほんと?」 「コーヒーに合う〜」  その言葉を聞いたレイは、子どもみたいに嬉しそうな顔で厨房へ駆け込んだ。 「マサ! 褒められた!」 「ああ、聞こえてる」  政宗は笑いながら、新しいバターサンドを包み始めていた。  翌日には「昨日のやつある?」と尋ねる客が現れ、一週間もすると「持ち帰りできますか」と声を掛けられるようになった。  急いで包装用の袋や箱を用意し、一つずつシールを貼りながらレイは「曲がった」と何度も貼り直し、そのたびに政宗から「落ち着け」と苦笑される。  店頭へ並べた個包装は、気付けば夕方にはなくなっていた。 「期間限定だったよな」  閉店後、売上表を見ながら政宗が呟く。レイは空になった陳列棚を見て笑う。 「もうバターなくなったぞ」 「また仕入れるか」  政宗がそう言うと、レイは驚いたように振り返った。 「いいの?」 「やめる理由がない」  その声を聞いていたマスターは、新聞から目を上げることなく静かに言う。 「じゃあ、定番だな」  その一言で決まった。  大量のバターを間違えて発注した失敗から生まれた菓子は、いつしか店へ来る客の目当てになり、喫茶店の看板メニューとして当たり前のように並ぶようになっていた。

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