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6-3 足りないものは少しずつ

 マスターからカフェを継ぐことが正式に決まり、二人は店の近くへ引っ越すことにした。  何件か部屋を見て回った末に案内された古いマンションで、政宗とレイは不動産会社の担当者と一緒に浴室を覗き込んでいた。  男三人で入るにはさすがに狭く、担当者は脱衣所へ立ったまま苦笑する。 「いかがでしょうか」  政宗は浴槽へ目を向ける。足を伸ばして入るには少し窮屈そうだった。 「……これ」  もう少し広い方がいいと言い掛けたところで、レイが浴槽の縁へ手を置いた。 「狭くていい」  その一言に政宗は口を閉じる。  レイは少しひびの入ったホーローの浴槽を指先でなぞりながら、小さく笑った。 「広いと落ち着かねぇ」  その理由を聞いてしまえば、もう反対する気にはなれなかった。  政宗は担当者へ向き直る。 「……じゃあ、ここにします」  引っ越し当日、家具は業者へ任せたものの、それ以外の荷物は段ボールへ詰めても数箱で収まってしまった。  積み上がった箱を眺めていたレイが、不思議そうに首を傾げる。 「これだけ? 少ねぇな」  政宗は笑って頷く。 「元々そんなに持ってなかったしな」  そう言って最後の段ボールへガムテープを貼る。 「足りないもんは、向こうで少しずつ増やせばいい」  レイは少し考えてから頷いた。 「ふーん。そっか」  引っ越しそのものは一日で終わった。  政宗は段ボールを開けて、食器を棚へしまい始める。  しばらくして、風呂掃除をしているはずのレイが妙に静かなことへ気付き、部屋を見回すとベランダへ立っていた。  政宗も隣へ出る。  生ぬるい風が頬を撫で、どこかから夕飯を作る匂いが流れてくる。その向こうへ目を向けると、カフェの看板が小さく見えた。 「近いな」  政宗が呟くと、レイは肩を並べたまま笑う。 「逃げ場ねぇな」 「別に逃げねぇだろ」  そう返すと、レイは声を立てて笑った。  その笑い声は風へ乗って、ゆっくりと街へ溶けていく。  夜になって段ボールを開ける気力もなくなり、二人はコンビニで買ってきた弁当を食べることにした。  運ぶ途中でレイが落としてしまい、端が少し欠けたちゃぶ台を囲む。 「音、静かだな」  レイがぽつりと呟く。 「上、いないからな」  最上階だからだと答えると、レイは弁当を口へ運びながら部屋の中を見回した。 「監視カメラの音しねえ」  その言葉に、政宗の箸が止まる。  米粒が一つ箸先へ付いたまま動けなくなった。  レイはそんなことには気付かず、チキン南蛮を頬張りながら首を傾げる。 「チキン南蛮って何番なんだ」 「番号じゃねぇよ」  レイの言葉に反射的に言い返したのもつかの、政宗ははたと手を止め、米粒のついた箸の先を、思わずじっと見つめた。  しばらくして、風呂が湧いた音がした。服を脱いで入るとやっぱり狭い。そう思っていたら、風呂場のドアが開いた。 「うお、びっくりした」 「俺も入っていい?」 「聞きながら入ってくるんじゃねえ。……まあいいけど」  レイは「やった」と小さく歓声を上げて、既に身を半分沈めていた湯船の中に肩まで浸かる。浮力で軽くなった体を預けられる。狭くて押し返すこともできない。 「やっぱもうちょっと広いとこにしときゃよかった」 「うるせぇ、ちょうどいいだろ。……あ、マサ、ここにほくろある」  触ってくるレイの指がくすぐったくて、逃げるように身をよじっているとふとレイの指が止まる。 「は? どこだよ。んなとこねえよ」 「あるだろ、ウケる」  レイの視線が脇腹に注ぎ込まれる。政宗はどうにかして見ようとしたが、上手く見れなかった。下手くそなバレリーナみたいに何度も手を挙げて覗き込もうとしているのに、肝心なところが見えない。 「なにもねぇよ」 「ふぅん。じゃあ俺だけの特別なほくろか」 「ほくろに特別さ感じんな。……レイは、全然ほくろねぇな」 「それな。昔あった気がするけどな」 「……なんだそれ」  体毛のない、滑らかなレイの肌をなぞる。そう言えば、彼がひげを剃ったり毛の処理をしているところを見たことがないなと今更ながら思い出す。 「ん、あ」  レイの少し高い声で正気に戻る。 「おい、変な声出すな」 「お前のせい……ふ、あはは」  笑い声が反響する。膝が当たると、レイがくすぐったそうにする。レイの肩に湯をかけると、レイが笑って「お返し」と言って、政宗の肩に湯をかけ返す。 「やっぱ狭いな」 「うるせえ。水道代が安くなるからいいだろ」  変なところで節約を理解するなと思ったが、まあいいかと思い直した。  湯が波打ち、レイが少しだけ体を寄せてくる。肩に掛かる湯の重みより先に、レイの体温の方が近く感じられた。 「なあ、マサ」  いつもより少しだけ低い声だった。政宗が視線を向けると、レイは笑っていなかった。ただ、真っ直ぐにこちらを見ている。 「今日、店の名前決めなくていいのか」 「……急にどうした」 「いや。なんとなく」  そう言いながらも、レイの指先は政宗の腕をゆっくりとなぞっていた。ただのじゃれ合いとは違う、確かめるような触れ方だった。  狭い浴槽の中で、逃げ場はどこにもない。  政宗は湯気の向こうでレイの顔を見つめる。悪戯っぽい笑みはもうそこになく、代わりに、なにかを待っているような静けさだけがあった。 「今日はやけに大人しいな」 「たまにはな」  そう返したレイが、そっと距離を詰めてくる。額が触れそうな距離で、政宗は思わず息を止めた。 「……いいか?」  そっと尋ねる声に、政宗は答える代わりに、濡れた前髪をそっとかき上げた。  唇が触れる。今までの、悪戯みたいな短いキスとは違う。ゆっくりと重なった唇は境界をなくし、しばらく離れなかった。  湯船の水音が静かに揺れる。政宗の手が自然とレイの背へ回り、引き寄せる。レイの手が政宗の首へ絡みつくと、キスは次第に深くなっていった。 「んっ」  漏れた声に、政宗は目を開ける。すぐそこにあるレイの顔は、耳まで赤くなっていた。 「お前が赤くなってどうすんだよ」 「うるせぇ」  拗ねたような声も、今は苦しいくらい愛おしかった。  政宗はレイの頬に手を添え、もう一度口づける。  今度はためらわなかった。 「……っ、マサ、もっと」  唇を離した瞬間に甘えるような声でそう言われて、政宗の胸にずきりとした衝撃が走る。 「……出るぞ」  政宗はそう言ってバスタブの縁に手をかけ、勢いよく立ち上がった。

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