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6-5 彼女の名前

 政宗は残っていた貯金を切り崩し、正式に店を引き継いだ。  内装はそのまま使っていいと言われ、焙煎機はリース、コーヒー豆や食材は在庫ごと買い取る形になったため、開業資金は思っていたより抑えられた。それでも通帳の残高は目に見えて減り、これから先は店を軌道へ乗せるしかないという現実が、数字になって突き付けられる。  店が休みの日になるたび、政宗は店の図面や周辺地図を机へ広げた。駅から店までの人の流れを歩いて確かめ、近くにあるマンションや住宅街、会社の数を書き込み、終電や最終バスの時間まで調べていく。昼間は喫茶店を利用する客が見込める一方、仕事帰りに立ち寄れる店は意外と少ない。夜まで営業すれば客層は変わるが、その分酒の仕入れや営業許可も別で必要になる。  何冊ものノートへ数字を書き込みながら考え続けた末、政宗はようやく顔を上げた。 「夜も開けるか」  レイは工具箱を漁る手を止める。 「バー?」 「昼だけじゃ売上が足りねぇ」  そう答えると、レイは隣でコーヒーを飲んでいたマスターを見る。 「どう思う?」  マスターは少しのあいだ目を閉じ、それから小さく首肯した。 「いいと思う」  その一言を聞いて、政宗はノートへ新しく一行書き足す。 「メニューも少し変える」  客層の好みそうな食材や写真映えのあるメニューを加える一方、マスターが残してきたブレンドコーヒーとホットケーキ、それにナポリタンは残すことに決めた。長く通ってくれている常連の居場所まで変えるつもりはない。一方で、レイと試行錯誤して作ったバターサンドクッキーは店の看板商品に据え、夜は酒と軽い食事を出せるよう新しく考え直していく。  店の空気も変えすぎない方がいい。昭和から続く木のカウンターや床はそのまま生かし、照明だけを少し落として、古さを残しながらも居心地のいい店にしたかった。 「そういやマスター、引退してもたまにはうちの店に顔出してよ。マスターならサービスするぞ」  レイがコーヒーカップを両手で持ったまま、ふとそんなことを言った。  マスターはコーヒーに口をつけながら答える。 「まあ、たまにね。……ちゃんと正規料金は払うよ」 「へへっ。俺も美味いコーヒー入れられるようになるぞー」  そうしてマスターが去ったあと、改装準備にいそしんでいたある日、店内を見回していたレイが、壁や棚を眺めながら口を開いた。 「なあ、このままでもいいけどさ、せっかくだし、めっちゃオシャレな内装にしようぜ」  政宗は伝票へ目を落としたまま苦笑する。 「そこまでの金ねぇよ」 「じゃあ俺のこれ使ってよ」  そう言ってレイが差し出してきたのは、一冊の通帳だった。 「は?」 「どうせ使い道わかんねぇし。マサが使って」  あまりにも迷いのない笑顔で渡され、政宗はしばらく通帳とレイの顔を見比べる。けれどすぐに、静かに通帳を押し返した。 「いや、いらねぇよ」 「なんでぇ。足りねぇの?」 「そうじゃない。お前の金だからだ」  レイは不思議そうに首を傾げる。 「俺の金なら、俺が使っていいんだろ?」 「そういう話じゃねぇ」  レイは口を尖らせた。その場はそれで終わったものの、数日後にはレイが勝手に観葉植物を買い、照明を替え、クッションや食器まで増やし始めた。  店の雰囲気は確かに少しずつ良くなっていく。だから余計に怒りづらかった。政宗はレシートの束を見ながら深いため息をついた。 「お前さ、ちょっとは残しておけよ」  レイがきょとんとする。 「考えて使え。この先、金が必要になることなんていくらでもあるだろ」 「たとえば?」  言われて、政宗は少し考えてから答える。 「たとえば……家買うとか、結婚するとか」  何気なく口にした瞬間、レイが目を輝かせた。 「マサと?」 「んなわけねぇだろ」  反射的に返すと、レイは「えー」とあからさまに肩を落とす。その様子に、政宗は咳払いを一つして表情を引き締めた。 「だから、そういう時のためにも残しとけって話だ」 「ふーん」  レイはまだ少し納得していない顔をしていたが、やがて通帳を抱えるように持ち直すと、こくりと頷いた。 「じゃあ、ちゃんと考えて使う」 「そうしろ」  それ以上は口にしなかった。言う必要もないと思った。  レイの結婚式を想像する。タキシードを着て、隣にはかわいい花嫁がいる。想像したこともない。想像も上手くできない。レイのタキシードならすぐ想像がつく。けれどレイを取り囲む会場や花嫁まで想像しようとすると、霧散して消えていく。けれどそれが普通で、当たり前だ。みんなそうしている。だからこそそうしなければと思うのに、認めたくない自分がいる。  最低だと思った。  店の改装工事が進む中、午後になって配送業者がやって来た。大きな段ボールを見て、政宗はレイに対応してもらう。店先へ置かれた荷物を見て、レイは不思議そうにぺしぺしと箱を叩いた。 「マサ、なんかでかいの届いた」  その声に、脚立を組み立てていた政宗は振り返る。 「看板か。レイ、開けてくれ」 「おう」  レイはカッターでガムテープを切り、段ボールを開く。けれどその動きが途中で止まる。 「……マサ」  声が小さく落ちた。レイは箱の中を見つめたままなにも言わない。政宗はその表情だけで、なにを見たのかわかった。 「文句ないだろ」  笑いながら静かな声でそう言うと、レイはなにかを堪えるように目を潤ませ、それからこくんと首を縦に振った。 「……っ」  声にならない返事だった。政宗はレイのそばに歩み寄り、肩を抱く。 「これなら、忘れないだろ」  レイはゆっくり顔を上げる。 「……うん」  そしてもう一度、そう頷いた。 「ほら、看板付け替えるぞ。手伝え」  脚立へ上ると、レイは下から支えてくれる。古い看板を外し、新しい金具を取り付けたところで政宗は脚立を降りた。 「代われ」 「おう」  今度はレイが上る。慣れない足取りに少しだけ体が揺れ、危うく踏み外しかけたところで、政宗は慌てて腰へ手を添えた。 「危ねぇ、落ちんな」 「わかってる」  そう言いながらも危なっかしい手つきは変わらず、政宗は脚立を支えながら、真剣に看板を止めるレイを見ていた。  道を歩く人が何人か足を止め、工事中の店を眺めながら通り過ぎていく。ようやく取り付けを終えると、レイは脚立を降りて少し離れた場所まで歩いていった。政宗もその隣に並ぶ。 「ちゃんと真っ直ぐ?」 「おう」  レイの問いに答えると、レイは満足気に笑う。 「……マサ、行くぞ」  店の入口脇にあるスイッチへ手を掛けたレイが、こちらを振り返る。政宗はもう一度頷いた。 「おう」  カチッという小さな音とともに灯りがともる。柔らかな明かりが、夕暮れの街の景色の一つになる。  CAFE&BAR Nagisa  その文字を見上げるレイの横顔は、穏やかに笑っていた。  政宗はレイのその横顔を、じっと見ていた。

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