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6-11 普通になること

 次の休日の朝、まだ開店時間を気にしなくていいことに少しだけ気が緩んでいた。  レイが前の日から「明日出かけようぜ」と言っていたものだから、政宗は私服に着替え、財布だけをポケットへ入れて玄関を出る。  父の病院を出た時に車も手放した今、移動は電車が当たり前になった。 「来た!」  ホームへ電車が滑り込んでくるだけで、レイは少し嬉しそうに声を弾ませる。振り返った金髪がふわりと凪ぐ。 「そんなにはしゃぐな」 「だって好きなんだよ、電車」  扉が開くと、レイは迷わず窓際へ向かった。流れていく街並みを飽きもせず眺め、駅名が変わるたびに小さく口の中で読んでいる。その横顔を見ていると、こんなことで喜べる二十代なんて他にいるんだろうかと思ってしまう。  ふと視線を上げた政宗は、吊り広告で目を止めた。 《大路ホテル 二十周年記念フェア開催》  見慣れたロゴだった。ライトアップされた煌びやかなホテルの写真が映っている。  二十周年。その数字の意味が分かるのは、ここでは政宗だけだった。レイが地下で過ごした年月とほとんど変わらない。その間、あの会社は祝われ続け、利益を積み重ねてきたのだと思うと、胃の奥が重くなる。 「マサ? どした? ……気分悪い?」  レイの黒い瞳がこちらを覗き込む。 「なんでもない」  そう答えて視線を逸らした先で、今度は車内の電子広告が切り替わる。  新商品の調味料を紹介する映像が終わり、明るいキッチンが映し出された。白い皿へパスタを盛り付けた青年が、完成した料理を両手で持ち上げて柔らかく笑う。  料理番組のショート動画か。  そう思って目を離そうとした瞬間、胸の奥でなにかが引っ掛かった。  もう一度画面を見る。  レイだった。  正確に言えば、今のレイとは髪色が違う。それでも、笑う時に少しだけ細くなる目元も、歯を見せる笑い方も、料理を差し出す時にほんの少し首を傾ける癖も、見間違えるはずがなかった。  画面の隅へ、小さく文字が表示される。 《バーチャルタレント RAY(レイ)》  呼吸が止まる。  知らない人間が見れば、ただ出来のいいCGキャラクターにしか見えないだろう。けれど、自分にはわかる。あれは、レイだ。  思わず隣へ目を向ける。レイは窓の外を眺めたまま、「あ、川ある」と指差して笑っている。電子広告には一度も視線を向けていない。  その姿を見て、ほんの少しだけ胸を撫で下ろしながら、政宗はもう一度だけ画面へ目を戻した。  データは消せと言ったはずだった。  そう思った瞬間、自分でその考えを否定する。  消えたのは地下の資料だ。  レイという個人を特定できる映像や記録だ。  けれど、一度学習を終えたモデルまで消したとは、父は一言も言っていない。  あの時、父は「レイはもう必要ない」と言った。  その意味を、自分は完全に履き違えていた。  生身のレイがいなくても、表情も、仕草も、笑い方も、視線の動かし方も、全部学習し終えてしまえば商品は完成する。地下で積み上げた二十年分のデータは、人間一人を閉じ込めておくより、画面の向こうで永遠に働かせた方が利益になる。  だから父は地下を捨て、レイを手放せた。  AIコンテンツ事業という隠れ蓑ではもうなかった。あれは最初から、その事業へ移るための準備だったのだ。  画面の中のRAYは、出来上がった料理を掲げ、笑顔を浮かべている。誰からも好かれそうな顔。そして、誰にも向けられている笑顔。  その笑顔はレイのものだった。けれど、そこに誰を思ってなにを考えているのか、そういうのが滲んだレイはいない。残されたのは笑い方や、首を傾ける癖や、相手を安心させる表情だけだ。  父はレイという人間ではなく、レイらしさだけを商品へ変えた。  あいつは、どこまでレイを消費するつもりなんだ。 「マサ?」  不安げな声で名前を呼ばれ、政宗は弾かれたように顔を向ける。レイと目が合う。その視線の先には広告ではなく、短髪の青年しか映っていなかった。 「次で降りるぞ」 「ああ」  短く返事をしながら、政宗は広告へ背を向けるように立ち上がった。  電車が駅へ滑り込む音に紛れて画面は次の広告へ切り替わっていったが、その数秒間だけ映っていた笑顔は、しばらく胸の奥から消えてくれそうになかった。  目的は、最近話題になっているカフェだった。 「視察だからな」  店へ入るなり、政宗はメニューを隅から隅まで眺める。客単価、回転率、席数、厨房の動線まで自然と目が向いてしまう。 「この椅子、座りやすいな」 「回転率は悪そうだけどな」 「マサ、すぐ金の話する」 「店やってるからな」  一方のレイはというと、運ばれてきたパンケーキを見て口を「わ」と開けた。 「でけぇ。色々載ってんな」 「写真撮るなら早く撮れ」 「おう。マサにもやるからな」 「ん」  嬉しそうにスマホを構える姿を見て、政宗は苦笑した。  カフェを出たあとは、そのまま近くの公園を歩き、アウトレットを覗き、映画館へ入った。買う予定もない服を見て笑い、ベンチへ座ってアイスを食べ、映画の感想を言い合っているうちに、気付けば夕焼けが街を染め始めていた。  帰りの電車は行きより空いていた。  二人並んで座ると、レイは少し疲れたのか、窓へ頭を預けて外を眺めている。金色の髪が夕陽の光と混じり合い、輪郭が溶けだしている。規則正しく揺れる車内で、政宗はふと思い出したように口を開いた。 「そういや、また誘われたら、行けよ」  レイの切長の目がこちらを向いた。 「あの子? なんで」 「友達でもいいし、その先もあるかもしれねぇだろ、普通」  レイは黙った。電車が鉄橋を渡る音だけがしばらく続く。 「俺、普通じゃねぇの?」  やがて、ぽつりと独り言のようにレイが言う。政宗は息を止めた。 「……なんだよ、急に」 「マサ、最近ずっと普通って言うじゃん」  レイは窓の外を見たまま続ける。温度のこもってないその声は、不満そうにも聞こえた。 「普通に学校行って、普通に働いて、普通に友達作って、って。俺が普通になったら、マサ嬉しい?」  その問いに、政宗は答えられなかった。  嬉しい。レイが普通の人生を歩けるなら、それが一番いい。  そのはずだった。けれどそう言い掛けて、なにかが引っかかる。それでも政宗は沸き起こる気持ちを一瞬で押しやり、微笑んで頷く。 「その方が、お前は幸せだろ」  レイは政宗を見つめた。綺麗な硝子のような瞳には、純粋な疑問だけが映っている。 「幸せ」 「ああ。普通に恋愛して、普通に働いて、普通に生きる」  自分へ言い聞かせるように、政宗は続ける。 「それが、お前には一番いい」  レイはしばらくなにも言わないまま、どこか一点を見ていた。  やがて、その頬に小さくえくぼができる。 「……そっか」  そう返事はしたものの、その笑顔はどこか曖昧だった。  腑に落ちたわけではない。ただ、それ以上聞いても答えは変わらないとわかったような笑い方だった。  二人のあいだを、静かな沈黙が満たす。電車は何事もないように、次の駅へ滑り込んでいく。  ふと、政宗はちらと電車の電子広告に目をやった。  政宗が見た限りでは、その時はあのバーチャルタレントの電子広告はもう流れていなかった。

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