61 / 74
6-14 間違い
昼の営業が終わり、食器を洗っていると、レイがふと口を開いた。
「なあ、今日のお客さんさ、今度また友達連れてくるって」
「そうか」
「ああやって、普通に話してりゃいいんだよな」
政宗はトレイを拭いていた手を止める。レイはスポンジで皿を洗いながら笑った。
「マサ、言ってたよな。普通になれって」
レイの声は屈託のない、晴れやかな声でそう言う。だからこそ、返事ができなかった。レイは洗い終わった皿を黙々と積み重ねる。
政宗はそんなレイを視界に入れながら、蛇口から流れ続ける水をぼんやり眺めていた。
普通になってほしいと願ったのは、自分だった。
望んでいたはずだった。レイが、誰かへ依存しなくても生きていけるようになってほしいと願っていたし、自分がいなくても笑っていられるようになれば、それが一番だと思っていた。
それなのに、レイが少しずつ自分の手を離れていくたび、喜びより先に違う感情が込み上げてくる。
その「普通」が現実になり始めた今になって、胸の奥で黒く渦巻く感情だけは、どうしても消えてくれなかった。
「……都合よすぎだろ、俺」
そんな独り言は、誰の耳にも届かなかった。
その日の営業を終え、シャッターを下ろしたあとも、二人はいつも通り店内を片付けていた。レイはすっかり慣れた手つきでカップを拭き、政宗はレジを締める。言葉は必要なことしか交わされず、それがもう何日も続いているものだから、静かな店内では小さな作業音だけが妙に耳へ残った。
帰り道も同じだった。並んで歩いている最中、以前ならどうでもいい話を始めていたレイが、今日は街灯を見上げたり、行き交う人を眺めたりするだけで、自分から口を開こうとはしない。いつもふざけて手を繋いでみたり、袖を引いたりしていたのもなくて、政宗の隣には妙な間が空いていた。
家へ戻ると、レイは「先、風呂入るな」とだけ言って、一人で浴室へ向かった。政宗が「ああ」と返事する間もなかった。一人でリビングへ残り、コーヒーを入れたものの、苦いだけで味はほとんどわからなかった。
政宗も風呂を済ませ、部屋の明かりを落とす頃には、レイはもう布団へ入っていた。政宗に背中を向けたまま静かに目を閉じている。その背中はほんの腕一本伸ばせば届く距離にあるのに、見えない壁があるように見えた。
これでよかったんじゃなかったのかとか、普通ならこうあるべきだろうとか。心の中で問い掛けても、返事は返ってこない。
自分で突き放したくせに、自分の方が耐えられなくなっている。
その事実だけが情けなくて、政宗は目を閉じても眠気は少しも訪れなかった。
しばらくして、小さく寝返りを打つ音が聞こえた。思わず目を開けると、レイの手が政宗の袖を掴んだ感覚がした。けれどすぐにその手は離れ、またすぐに距離が空く。
「わり。間違えた」
レイが誤魔化すようにへらりと笑う。その声を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが音もなく切れたような気がした。
「レイ」
呼び掛けると、レイは逃げるように顔を背けた。
「……ごめん」
短い返事だけが返ってくる。その声まで遠慮がちになってしまったことが苦しくて、政宗はなにを言えばいいのかわからないまましばらく黙り込んだ。
自分から離れろと言った。普通になれと言った。その結果が今なのだから、受け入れなければならない。それでも、もう一歩離れられたら、本当に二度と戻ってこないような気がしてしまう。
その恐怖だけは、どうしても飲み込めなかった。
「こっち来い」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。
レイがゆっくりと振り返る。けれど信じていいのかわからないような目で政宗を見つめ、その視線が痛いほど真っ直ぐだった。
「でも、俺……」
「いいから」
政宗はそれ以上待てなかった。自分から手を伸ばし、ためらいがちにこちらへ近付いてきたレイの肩をそっと引き寄せる。
腕の中へ収まった体は思っていたより細く、欠けていた物がようやく戻ってきたような気がした。
ともだちにシェアしよう!

