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7-5 血と拳
──レイの二十年を返してやりたかった。
なにも知らずに学校へ通うはずだった朝も、腹を空かせて帰れば「おかえり」と迎えられる当たり前も、全部まとめて返してやりたかった。
渚ともっと過ごす時間があってほしかった。
病室で他愛もない話をして、治ったらどこへ遊びに行こうかと約束をして、それでも最期くらいはちゃんと手を握って、別れを言える時間があってほしかった。
その先に、自分と出会う未来がなくても構わなかった。
レイが地下へ落ちることなく、どこかで誰かと笑って生きていけるなら、それでよかった。
あの日へ帰してやりたい。
けれど、それはもう叶わない。
自分のこれから先の二十年を差し出したところで、どれだけ金を積んだところで、奪われた二十年は戻らない。せめて自分から離れたところで普通を積み上げさせようとしたのに、それすらも政宗がいることで上手くいかない。
だから政宗にできることなど、本当はなに一つなかった。
ただ一つ、終わらせることだけを除いては。
黒塗りの車が静かに門をくぐり、屋敷の前で止まる。
運転手が素早く降りて後部座席のドアを開けると、父はいつもと変わらない足取りで車外へ出た。背筋は真っすぐ伸び、仕立てのいいスーツにも乱れはなく、まるで今日も何事もなく一日を終えた会社員のような顔をしている。
運転手が一礼すると車はそのまま走り去り、ヘッドライトの光だけが夜道を流れて消えていった。
門の前へ静寂が戻る。父は、鍵を取り出そうとポケットへ手を入れていた。
政宗は歩き出す。ゆっくり足音を忍ばせるようだった歩みは次第に速くなり、政宗は自然と駆け出していた。
「おい」
立ち止まって低く呼び掛けると、その肩が振り返る。父は街灯の下へ立つ政宗を認めても、驚いた様子は見せなかった。
「……政宗か。なにしに──」
その落ち着き払った声を聞いた瞬間、政宗の中で最後のなにかが切れた。
考えるより先に身体が動いていた。
父の胸ぐらを掴み、そのまま門へ叩き付ける。鈍い音が夜へ響き、父の身体が大きく揺れた。
「ぐっ……」
苦しげな声が漏れたのを聞いても、政宗の手は緩まなかった。
「お前が」
掴んだ襟を引き寄せる。
「レイに触ったのか」
父は苦しそうに眉を寄せながらも、政宗の目を静かに見返した。
「なんの話だ」
その一言で十分だった。
拳が父の頬へ叩き込まれる。
重い衝撃音とともに父の顔が大きく逸れ、その身体がよろめく。
政宗は間髪入れず襟を掴み直し、もう一度拳を振り抜いた。
「答えろ」
頬へ。
腹へ。
肩へ。
拳を振るうたび、頭の中へ浮かぶのはレイの姿ばかりだった。
コンビニのおにぎりを開けられただけで満足そうにしていた顔。UFOキャッチャーで悔しそうにしていた顔。真っ白の履歴書を前にして、泣きそうになっていた顔。
そして──笑うことしか許されなかった、子供の顔。妹の治療費のために身体を売る契約書に、震える字で書かれた署名。
『……俺バカじゃん』
たった一行だけ残された履歴。
『好きな人のお父さんとも寝た』
あの文字を読んだ瞬間の息苦しさが、何度も胸を締め付ける。
「お前が!」
また拳が父の顔面へめり込む。
「お前がレイを壊した!」
父は受け身も取れず地面へ倒れ込んだ。
口元から血が流れ、眼鏡が転がってアスファルトの上で乾いた音を立てる。
それでも政宗の怒りは収まらない。
胸ぐらを掴んで無理やり引き起こし、もう一度拳を振り上げる。撃たれた右肩に鈍く軋むような痛みが走っても、構わなかった。
「まだ終わってねぇんだぞ!」
怒鳴り声は、自分でも聞いたことがないほど掠れていた。
「あいつは今でも普通かどうかで苦しんでる! 自分をバカだって責めてる! 商品になった自分と比べて、お前が作った化け物の方がいいのかって聞いてきた!」
息が乱れ、拳は震えていた。
「何年経っても、お前は──!」
拳を振り下ろそうとしたその手は、怒りだけではなく、どうしようもない悔しさで震えていた。
「全部お前のせいだ。レイを返せ。レイの二十年も、渚も、全部返せ」
振り上げた拳は、そのまま父の顔へ叩き込まれるはずだった。
けれど、あと数センチというところで、背後から腕へしがみつく力が加わり、勢いだけがわずかに逸れる。
「……マサ」
聞き慣れた声だった。それでも政宗は振り払おうとする。
「離せ」
「やだ」
レイの腕は細い。力だって政宗には敵わない。それなのに、その腕は必死に政宗へ食らいついて離れようとしなかった。
「離せ、レイ。俺がこいつを終わらせる」
「離さねぇ」
掠れた声だった。それでも、震えながら絞り出したその一言だけは妙に強く、政宗の耳へ残る。
「もういい」
「よくねぇ!」
思わず怒鳴り返した。
「こいつになにされたか、わかってんのか!」
「わかってる」
「わかってねぇ!」
政宗が振り返ると、レイは真っ直ぐこちらを見返していた。
「わかってる」
もう一度だけ静かに繰り返す。
「だから、もういい。……それ以上は死んじまう」
その言葉へ返そうとした瞬間、不意に父の方から息を呑む気配が伝わった。
政宗は視線だけを向ける。
地面へ座り込んだ父は、眼鏡を失ったままレイを見つめていた。今までどれだけ言葉を交わしても、殴られても変わらなかった表情が、初めてわずかに揺れる。それは痛みによるものではない。レイを見た、その瞬間だけだった。
レイは父へ数歩近付き、腫れ上がった口元を見下ろす。
「……ひでえな」
誰へ向けた言葉なのか、一瞬わからなかった。
父の顔のことを言ったのか、ここまで来てしまったことを言ったのか。それとも、この全部を言ったのか。
レイはしゃがみ込むと、小さく頭を下げた。
「妹に、治療受けさしてくれて、ありがとうございます」
政宗は息を止めた。
違う。なんで、そんなこと言う。
礼を言うような相手じゃない。
そう思うのに、レイは続ける。
「でもさ」
顔を上げたレイは、責めるでも恨むでもなく、ただ疲れ切ったような目で父を見ていた。
「もう俺の顔、使うのやめてくんね?」
少しだけ間を置いて、自分の胸元へ手を当てる。
「渚ももういねぇんだ」
その一言を口にしただけで、喉の奥が詰まったのか、息を飲み込む音が聞こえた。
それでも最後まで言い切る。
「俺、もう十分働いたろ?」
父はレイを見つめたまま黙っていた。その視線は逸れることなく、目の前に立つ青年を静かに、真っ直ぐ見定めているように見えた。政宗には、その沈黙が父なりの採算を弾いている時間に思えた。
「……っ、やっぱり俺がこいつを終わらせて、俺も──」
政宗が身を乗り出し、そう言った時だった。レイは咄嗟に政宗の前に腕を出し、政宗を止めた。
やがて、切れて赤くなった父の唇がゆっくりと開かれる。
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