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7-6 サイン

「……わかった」  その声は灰色の壁みたいに重々しく、けれどどこか機械的だった。 「君の契約は、とっくに履行されている」  レイは驚いたように瞬きをする。父はゆっくり立ち上がると、乱れたスーツの内ポケットから折り畳まれた書類を取り出した。 「権利放棄および利用停止の合意書だ。君本人の意思表示が必要になる」  淡々とした口調は変わらない。政宗は思わず父を睨み付けた。 「最後まで契約でしか話せねぇのか」 「これが最も確実だ。……お前も、これを望んでいたのだろう」  そう言われれば、返す言葉がない。父は政宗ではなく、レイへ書類を差し出す。 「今後、君の肖像、音声、学習データ、それらを利用した生成物について、一切の利用を停止する」  レイは書類を受け取ると、一枚一枚目を通し始めた。政宗には細かな文面まで読む余裕はなかったが、レイは急がなかった。もう誰かに急かされる立場ではないのだと、自分へ言い聞かせるように最後まで読み終えると、小さく頷く。 「……ペン」  父から差し出されたボールペンを受け取り、契約書の署名欄の上にペン先ののせた。けれど紙の上まで来ても、なかなか滑り出さない。  指先へ力を込めようとしては止まり、息を吐いてはまた紙を見る。  政宗はその横顔を見つめながら、レイがなにを思っているのか少しだけわかった気がした。  これまで契約書へ名前を書くたびに、なにかを失ってきた。  妹のために身体を売る契約もそうだった。  地下で交わされた数え切れない契約もそうだった。  だから、簡単には書けない。 「……俺はもう、No.3でも、RAYでもねぇ」  その声には、確かな響きがあった。 「蓮生だ」  レイが静かな声でそう言う。そして政宗を見つめたのち──迷いをほどくようにペンを動かし始めた。  ゆっくりと息を吸いながら、流れるような筆跡で、一文字ずつ丁寧に名前が綴られていく。  月島蓮生。  書き終えたレイは、その名前をしばらく見つめたあと、静かにペンを置いた。  父は署名欄を、腫れ上がった瞼の隙間からしばらく見つめていた。  そこへ書かれた文字が本当に本人の意思なのかを確かめるように目を走らせると、なにも言わず書類を折り畳み、内ポケットへしまう。  眼鏡は割れて、ひしゃげたままだった。  口元から流れた血も拭こうとせず、乱れたネクタイを整えると、そのまま門へ向かって歩き出す。  足取りはさすがに覚束なかった。それでも一度も振り返ることなく門を開け、屋敷の中へ消えていく。  門扉が閉まる鈍い音だけが夜へ残った。  ようやく息を吐いた瞬間、拳がじくりと痛む。政宗は無意識に手を開き、そのまま動きを止めた。  血がべったり付いている。指の隙間にも、爪の縁にも乾き始めた赤黒い血が入り込み、自分のものなのか父のものなのかもわからない。  そこでようやく頭が冷えた。 「……やべぇ」  思わず漏れた声へ、隣から吹き出すような笑い声が返ってくる。 「今更かよ。そのカッコで電車乗ったら事件だな」  レイが政宗の手を見下ろして苦笑する。  政宗も改めてシャツを見ると、袖口まで血が飛んでいた。 「こ、公園……」  慌てて記憶を探る。 「近所に公園あんだ。水道あるから、そこで流す」 「おう」  レイは頷くと、政宗の隣に並んで歩いた。 「……なら、帰りに温泉でも行こうぜ」  あまりにも場違いな提案だった。政宗は思わずレイを見る。 「温泉って手ぶらで行けんの?」 「知らね」 「俺も行ったことねぇな」  二人同時に小さく息が漏れた。笑おうとしているわけではない。けれど張り詰めていた糸が少しだけ緩み、その隙間から空気が抜けたような声だった。  公園へ向かって歩き出すと、夜風が火照った頬を冷ましていく。  しばらく無言で歩いていたレイが、不意に歩幅を少しだけ縮めて政宗の隣へ並んだ。 「マサ」  政宗は顔だけ向ける。レイは前を見たまま、小さく笑うことも照れることもせず、ただ静かに言った。 「ありがとう」  探すように、手繰り寄せるように言葉を見つけては、政宗に返すように渡してくれる。その五文字だけで十分なはずなのに、レイは少し間を置いて続ける。 「俺のために怒ってくれて。……俺の名前、呼んでくれて」  政宗は返事ができなかった。  確かに怒った。怒りを止められなかった結果、あんなことになった。  けれど、本当に怒りたかった相手は父だけではない。  もっと早く気付けなかった自分にも腹が立っていた。  レイが「普通」になろうともがいていた理由を、もっと早くわかってやれたはずだった。  それでも隣を歩くレイは、そんなことを責めるつもりは少しもないらしい。  政宗は血で汚れた拳を見つめ、それからゆっくり握り直した。 「……遅ぇよ」  ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。 「もっと早く怒るべきだった」  レイは地面を見ながら歩いていた。  歩く距離を詰めると、肩が触れそうなくらい近くで同じ歩幅を刻み始めた。  やがて横からそっと手が伸びてきて、政宗の袖を掴んだ。  その温もりだけで、政宗はようやく、自分がもう一人ではないと気が付いた。

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