69 / 74

7-7 おやすみ

 父と対峙した夜から、いくつかの季節が過ぎた。  駅前を歩いていると、ふと足が止まる。  レイも隣で同じように視線を上げていた。  かつて、RAYの広告が映っていた大型のデジタルサイネージには、今は新作映画の予告が流れている。柱へ貼られていたポスターも、期間限定のスイーツフェアへ差し替えられていて、目を凝らさなければわからないほど端の方にだけ、以前のポスターを剥がした跡が白く残っていた。  街は何事もなかったように動き続けている。誰も立ち止まらず、誰も「あの広告がなくなった」ともわざわざ口にしない。新しい広告が来れば、人はそれを見る。  それだけのことなのだと、駅を行き交う人の流れが教えていた。 「腹減った?」  隣でレイがそんなことを聞く。 「減った」 「じゃあ、今日はハンバーグな」 「また肉か」 「肉はうめぇだろ」  他愛もない会話をしながら歩いていると、それだけで胸の奥が少しだけ軽くなる。  この時間を守りたかった。  地下でもなく、RAYでもなく、ただのレイと一緒に街を歩ける時間を。  店には昼の混雑がようやく落ち着き始めていた。  女性客の一人が、スマートフォンを見せながら隣の友人へ声を弾ませる。 「見た? これ新しいやつ!」 「あー、それ今すごい人気なんだよね!」 「返事めっちゃ自然!」  画面には見覚えのないキャラクターが映っていた。  そこにいるのは、人懐こい笑顔の、黒髪の青年ではない。別の会社が始めた新しいサービスなのだろう。 「RAYよりこっちの方が好きかも」 「わかるー」  二人は笑いながらその話を続け、注文したケーキへ視線を移した。  話題はそれで終わる。  政宗は客が去ったあとのテーブルを拭きながら、その様子を黙って見ていた。  人の興味は移り変わる。  昨日まで夢中だったものも、新しいなにかが現れれば少しずつ忘れられていく。  もし誰も忘れられなかったら、レイは一生街を歩けなかった。  閉店後、二人で夕飯を食べ終えてなんとなくテレビを点けると、ニュース番組の最後で短い話題が流れ始めた。 『AI対話サービス「RAY」は、本日23:59をもってサービスを終了します。なお、一連の権利問題を受け、大路ホールディングスは代表取締役会長の辞任を発表しました』  画面には大路ホールディングスのロゴと運営側のコメント、終了を知らせる画面が数秒だけ映る。 『権利関係の見直しに伴い──』  理由の説明はそれだけだった。  ニュースキャスターは何事もなかったように明日の天気を読み始める。  政宗はその声を聞いているうちに、張り詰めていたものが音もなくほどけていくのを感じた。  立ったままでいるつもりだったのに、膝から力が抜け、その場へ座り込む。  ……ようやく終わった。  地下から連れ出しても、交渉しても、父を殴っても終わらなかった。  けれど今度こそ、本当に終わった。レイが、自分で終わらせた。 「……よかった」  口をついて出た声は掠れていた。  頬を伝うものを拭う気にもなれず、政宗はただ画面が暗くなったテレビを見つめていた。  レイはリモコンへ手を伸ばしてテレビを消すと、静かな部屋の中でスマートフォンを取り出した。政宗はそれを静かに横目見る。  レイもなにも言わないまま、ホーム画面からRAYのアイコンをタッチする。いつもの起動画面が現れ、黒髪の青年が穏やかな表情でレイを見た。 『こんばんは』  変わらない声だった。あの日と同じ──少し冷たくて、甘い声。レイは画面を見つめたまま、小さく息を吐く。 「……お前さ、悪いやつじゃなかったよな」  少しだけ困ったような顔で、レイは問う。  画面の向こうのRAYは、少し考えるような間を置いてから答えた。 『そう言っていただけて嬉しいです』  レイは口元を緩める。その顔は泣きそうにも見えたし、笑っているようにも見えた。 「ありがとな」  誰へ向けた礼なのかは、政宗にもわからなかった。自分を責めなかったAIへなのか、自分自身へなのか。ようやくここまで来られた過去全部なのかもしれない。確かめる術はなかった。レイだけがわかっていれば、それでいい。  レイは親指をホーム画面へ戻し、アイコンを長押しする。  小さく震えた指先は、一度だけ止まった。その躊躇いは長く続かなかった。  削除の確認画面が、レイの瞳に反射する。 『このアプリを削除しますか?』  レイは静かに画面を見つめると、確認のボタンへ指を乗せた。 「……おやすみ」  小さくそう呟いてから、指先で画面をなぞる。  アイコンは何事もなかったように消えた。ホーム画面には、空いた場所だけがぽっかりと残っている。  レイはしばらくその画面を見つめていたが、やがてスマートフォンの画面を閉じ、テーブルの上に伏せた。  政宗はなにも言わず、ソファへ腰を下ろす。  もう画面の向こうにレイはいない。  ここにいる。  ここにいるレイが、静かに息をしている。  それだけで、よかった。

ともだちにシェアしよう!