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6-9 愛か欲かなんなのか

 夕方、カフェからバーへの切り替わりの時間帯。買い出しのために、商店街を二人で歩いていた時だった。  道の反対側から歩いてきた男が、レイの隣で足を緩めた。声を掛けられた。よく聞き取れなかったが、連絡先を聞いているらしいことは分かった。レイは政宗をちらりと見る。政宗はそちらを見ていなかった。レイは男の方へ向き直り、へらりと笑って適当に言葉を返した。  政宗は黙ったまま先を歩いていた。  店に戻るまで、二人ともなにも言わなかった。  翌朝、開店前の仕込みをしながら、レイは自分の中でなにかが固まっていくのを感じていた。俺じゃなくてもよくね、という考えが、昨日から頭の隅にずっとある。昨日の男に笑いかけた時、政宗は振り返らなかった。それだけのことなのに、その事実が妙に引っかかって離れない。  昼の営業が始まって少しした頃、また似たようなことがあった。常連の男性客がカウンターごしにレイへ話しかけてきて、レイは笑顔で応じた。その時、ちらりと政宗の方を見た。政宗は伝票を見ていた。  閉店後、二人で片付けをしながら、レイはわざと客の話を出した。 「今日来てた人、また来るって言ってたな」 「そうか」  政宗は帳簿へ目を落としたまま答える。レイはその横顔を少し眺めてから、何気ない調子で続けた。 「連絡先聞かれたし、教えようかな」 「好きにしろ」  それだけだった。レイは相槌を打ちながら、胸の奥でなにかがひやりとするのを感じた。好きにしろ。そうだ。俺は自由だ。政宗はそう言う。でも、とレイは思う。それだけか。それだけでいいのか。  帰り道、レイはわざと歩幅を広げて、すれ違いざまに声を掛けてきた男へ振り返った。政宗の少し前で立ち止まり、笑顔を向ける。男が嬉しそうに話しかけてくる。レイは愛想よく応じながら、視界の端で政宗の動きを確認した。政宗は少し歩幅を落として、レイから一歩分だけ距離を空けた。  見てる?  手を振って男と別れ、レイは政宗の隣に戻る。政宗はなにごともなかったように、無言で歩いていた。ただ、さっきより半歩だけ遠い気がした。  家に帰り着くと、政宗はコートを掛けて手を洗い、いつもの流れで夕飯の準備を始めた。レイはその後ろで靴を揃えながら、ぽつりと聞く。 「怒ってる?」 「別に」  この別に、が一番嫌いだとレイは思った。怒っているなら怒っていると言えばいいのに、政宗はいつもこうだ。感情を見せない。見せたくないのか、見せ方がわからないのか、はっきりしない。  レイは政宗の背中に近付いた。包丁を動かしている手の横に自分の手を置いて、政宗の首筋へ顔を寄せる。政宗の手が止まる。 「さっきのやつさ、結構金持ちそうだったな」  空気が変わるのがわかった。政宗がゆっくりとこちらを向く。その目が、ほんの一瞬だけ冷える。背中をなにかが走り、自然と体が震えた。あ、きた、とレイは思った。自分に向いた、あの目。普段は抑えられているものが、表へ出かけている。これを引きずり出したくて、やっていたのだと今さら気付く。そう思った瞬間、身体がかっと熱くなった。  気付けばレイは強く抱き寄せられていた。痛い。でもレイは笑う。 「ほら、やっぱ怒ってんじゃん」  政宗はなにも言わないまま、レイをベッドへ押し倒した。背中に衝撃が走る。乱暴ではないが、優しくもなかった。確かめるみたいに、奪い返すみたいに触れてくる。  あ、俺、選ばれてる。  俺のことを、手放せない顔をしている。  それが嬉しかった。  服を脱がされる。罪悪感を抱きながらも、身体はちゃんと応えた。政宗の指がレイの奥に無遠慮に触れ、レイは政宗の肩を強く掴んだ。しがみつくようにしていると、やがて政宗が動き始めて、甘い声が漏れる。強く揺さぶられながら、息を乱したまま政宗の顔を見上げると、怒りとは違う、少しぎらついた目がレイを捉えていた。  途中で、ふとよぎるものがあった。あの人と同じ目だ、とレイは思った。客とも似ている。独占欲と支配欲と、マスクの奥から自分を欲しがっていたあの目。一瞬だけ、どれがなんなのかわからなくなる。  政宗のこれは、なんだ? 愛? 欲?  考えようとしたけれど、混乱すら興奮に混ざっていって、一瞬で思考がかき消された。 「あっ」  声が漏れる。レイはわざと政宗の背中に爪を立てた。痕が残るくらい強く。政宗の動きが止まる。 「……やめろ」  低い声だった。でもレイは離さなかった。 「残るから?」  荒い呼吸の合間にそう尋ねると、気付けば自分の声が変わっていた。地下にいた頃の声が、自然と喉から出ていた。政宗の目も、その時の目になる。そこでやっとレイは気づく。やりすぎた、と思った瞬間には、政宗がレイの手を押さえていた。強く。 「違う」  声が震えていた。レイの呼吸が止まる。なにが違うのかは、わからなかった。でも拒否されたことに、ほんの少しだけ安心している自分がいた。  吐き気がした。  翌朝、目を覚ますと隣に政宗はいなかった。風呂場から水音が聞こえていて、レイはゆっくりと体を起こしてベッドの上に座り込んだ。まだ体に昨夜の熱が残っていて、火照った頬に朝の空気が少しだけ冷たかった。なぜあんなことをしたのだろうと思うのに、答えは出てこない。好きだからか、それともああやって欲しがられる側に戻りたかっただけなのか、自分はマサが欲しかったのか、あの支配される構図が欲しかったのか、どこまで考えてもわからなくなって、でも吐き気がするということだけははっきりしていた。 「よくわかんねぇな、俺」  風呂場のドアが開く音がして、政宗がタオルを肩に掛けて出てきた。目が合う。昨夜の静かな火種を宿した目はもうなかったが、背中にはレイがつけた赤い爪痕がまだ残っていた。レイはそれを見てすいと目を細める。 「……腹減ったな」 「な」  普通に言うと、そう返ってきた。泣きそうになった。普通だ、普通の朝だ。壊れていないと思った。  壊れたがっていたのは、俺の方か?  政宗がご飯をよそい、ベーコンエッグを焼いてくれる。レイは冷蔵庫からサラダを取り出して並べた。政宗は昨日の件についてはなにも言わない。いつもみたいにコーヒーを飲んで、ニュースを見ていた。画面に政宗の家のホテルの映像が流れた時、政宗は黙ってチャンネルを変えた。 「昨日さ」  ぽつりと切り出すと、もぐもぐと動いていた政宗の口が止まる。 「俺、ちょっと変だったよな」  政宗はテレビに視線をやったまま振り向かない。やがてマグカップに口をつけてから、「……ああ」と短く返ってきた。 「俺さ、たまに、わかんなくなる」  声が掠れた。政宗はなにも言わないまま、沈黙を保っている。 「揺らしてほしくてやってんのか、ほんとに好きで触ってんのか」  コーヒーの湯気がゆっくりと揺れていた。 「俺、最低じゃね?」  政宗はコーヒーを置いた。 「知らねえよ」  レイが視線を落とすと、政宗は続けて口を開く。 「でもやめさせなかったの、俺だ。……お前がやめたいなら、止める」  顔を上げると、政宗がこちらを見ていた。いつもの政宗のはずなのに、朝日で照らされたライトブラウンの瞳の中に昨日の夜の片鱗が見えた気がした。レイは息を吐く。  ──俺、マサにああいう顔させるの、好きかも。  言いかけて、やめた。代わりにプチトマトを口に押し込む。柔らかい皮が口の中で弾けて、一瞬で酸味が広がる。  噛み締めたあとで、レイはふと口を開いた。 「……俺さ。あの子とデート、行こうと思う」

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