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第3話

 トーマは薄暗くなった夕方の新宿二丁目を歩いていた。三ヶ月も住んでいるうちに行動範囲が広がり、すっかりどこに何があるのか分かるようになっていた。  今は一丁目との境にあるスーパーで買い物した後の帰り。セドリックの近くにコンビニはあるが、しっかりした食事を安価で摂るなら、スーパーの方が選択肢は豊富だった。  雨はまだ降り続いている。傘を差していると、誰とすれ違っているのか分かりづらい。けれども、トーマは気づいてしまった。濃紺の雨合羽を着た男が道路の反対側を歩いているのを。  大柄な体を丸めて歩く姿は、見紛うことなく十条だった。この時間帯では、いくら雨合羽を着ていても目立ってしまう。トーマは傘の影から辺りを見回した。やはり誰かが後ろをつけている。透明の雨合羽を着ているが、その下に見えるのは警官の制服だった。 このままでは遅かれ早かれ十条は捕まってしまうだろう。何とかして助けてあげたいと考えを巡らす。幸い警官は十条だけを見ていて、トーマの存在には気づいていないようだった。  トーマはポケットに入れていた小銭入れを近くの植え込みに投げ捨てた。そして、大声で「泥棒!」と叫ぶ。途端に警官が立ち止まり、トーマの方へ振り向く。もう一度、聞こえよがしに「泥棒!」と叫ぶと駆け寄ってきた。十条が脇道に逃げてゆくのが視界の端に見える。 「どうしましたか?」 「男がぶつかってきて、小銭入れを奪ったんです」 「どちらへ逃げていきましたか?」  トーマは植え込みの方を指差す。警官はしばらく辺りを探し回っていたが、すぐにトーマの小銭入れを見つけてくれた。 「盗られたのはこれですか?」 「はい。ありがとうございます」  トーマはその場から立ち去ろうとしたが 「署まで来ていただけますか」 と、連行されてしまった。  トーマが釈放されたのは、それから何時間も後のことだった。身元引受人として現れたマスターはトーマを見て呆れた顔をする。 「小銭入れを盗られたくらいで大騒ぎするなんて……」 「僕の貴重な財産ですから」 「……ま、理由なんて聞かなくても分かるけどさ。あんたの顔を見りゃね」  トーマは肩を竦める。それ以上、マスターは咎めようとはしなかった。 *  セドリックに戻るなり、ボーイの一人が真っ青になって飛び出してきた。トーマを見て、こっそりマスターに耳打ちする。すぐにマスターの顔色が変わった。 「トーマ、すぐ六番に入って」  そう言って、トーマが手に持っていた荷物を奪い取る。トーマは何が起きてるのか分からず、手ぶらで六番の個室に向かった。  扉を開ける前にノックする。すぐに中からゴソゴソ物音が聞こえて扉が少し開けられた。トーマが細い隙間から様子をうかがうと、腕が伸びてきて力強く中に引きずり込まれる。  抱きしめられて顔を上げると、そこには汚れた下着姿の十条がいた。驚くトーマを見て、ニヤリと薄い笑みを浮かべる。右手にはピストルを持っていた。 「どうして、ここに……」 「さっきのお礼を言いたかったんだ。俺を助けてくれてありがとう」  そう言って十条はチュッとトーマの鼻先に軽い口づけをする。思いがけない行動に、トーマは次の言葉を失ってしまった。  警察に捕まるかもしれないのに……。けれども、そんなリスクを冒してまで、わざわざ自分に会いに来てくれたことが嬉しかった。気を取り直して、脱ぎ散らかしていた服をロッカーに片付ける。ピストルだけは枕元に置いておきたいと固辞された。 「シャワーを浴びますか?」 「いや、今はとにかく寝たいんだ」  十条は再び寝床に横たわる。呆然とするトーマに向かって 「おまえも来いよ」 と、手招きした。トーマはなぜだか自分でも分からないうちに服を脱いでいた。そして、十条と同じ下着姿になると、遠慮がちに寝床へ入った。途端に体へ腕が回され、力強く抱き寄せられる。期待と緊張が入り混じる中、トーマの鼓動が早くなった。 「誰かを抱いていると温かいな」  満足げな声。すぐに十条は寝息を立て始めた。トーマは窮屈な姿勢のままで息を殺し、じっとしていた。触れられるくらい近くに唇や一物があるのに、もう十条は寝入ってしまっているのに、トーマは何もできないでいた。それは眠りを妨げないためでもあったし、せっかく得られた十条からの信頼を壊したくなかったからでもあった。  トーマは壁にかかった時計を見る。十条はいつからここにいたのだろう。一時間が何時何分になるのか見当がつかなかった。ただ、気が済むまで眠らせてあげたい。それだけだった。  十条の寝顔をじっと見つめる。この人はどんな生き方をしてきたのだろう。暴力団員であり、敵対する組長を殺したことしかトーマは知らない。けれども、こうして自分の抱いている男は、まったく別人のような気がした。  笑ってくれた時の温度、ふと目をそらした時の寂しそうな横顔……そういうものを、一つずつ拾い集めていけば、いつかこの人の全部にたどり着けるのだろうか。決して叶わぬ願い。トーマの胸の奥がチクリと痛んだ。  十条の体温がじんわりと伝わってくる。男らしい獣臭が鼻腔を擽った。せめてこのひとときだけはずっと忘れないでいよう、そうトーマは心に誓った。  どれくらいこうしていたのか。不意に扉がノックされる。すぐに十条は目を覚まし、鋭い目つきで睨みつけた。「お時間ですよ」とトーマが囁くと、別人のように気の抜けた顔に戻る。それすら愛おしかった。  トーマは先に寝床を出て、服を身に着ける。十条が立ち上がるのを見計らって、服を一枚ずつ渡していった。 「シャワー、浴びれなかったですね」 「構わないさ。気持ち良く眠れたんだからな」  もし、自分が住み込みでなく部屋を借りていたら、十条を連れ込んでいただろう。そうしたらシャワーを浴びるのも、好きなだけ眠るのも自由にできたはずだ。それができないのがもどかしい。こんな風に突然、客が感情で動くこともある。それを受け止めるのがこの仕事なのだと、あらためて痛感した。  扉を開ける前に、トーマは十条を気遣わしげに見つめる。 「気をつけてくださいね」 「心配してくれるんだな。ありがとう」  十条はトーマを強く抱きしめた。本当は伝えたい想いがたくさんあるのに言葉にできない。今、言わなかったらもう次は無いように思えた。  他の客やボーイがいないのを確かめて廊下に出る。玄関まで行くと、マスターが気難しげな顔つきで待っていた。十条からサービス料を受け取るなり 「もう、うちには来ないでください」 と、言い放った。思わず声を出しそうになったトーマを視線で黙らせる。 「うちとしても勝手な真似をされたら困るんです」  トーマは固唾を飲んで成り行きを見守った。相手はピストルを持っているのだ。もしかしたら怒って撃たれるかもしれない。  けれども、十条はフッと笑うと 「分かったよ。迷惑をかけちまったな」 と言って、くるりと背を向けた。トーマは何も言えずに、靴を履くのを見守る。そして、十条は振り返りもせずに右手を軽く上げた。思わずトーマの体が動く。しかし、その肩はマスターが、がっしりと掴んでいた。  十条がエレベーターに乗り込むと、トーマはマスターに向き直る。泣きそうな目で 「どうして、あんなことを言ったのですか?」 と尋ねた。マスターは 「そりゃ私には、この店とボーイを守る義務があるからね」 とだけ言って背を向ける。まだ何か言いたそうに佇んでいるトーマに 「変な気を起こすんじゃないよ」 と言い残して、表の看板を取りに行ってしまった。  トーマはガランとした六番の個室を片付ける。十条の頭の匂いが染み込んだ枕を抱きしめながら涙を流した。  何もしなかった。もう会えないなら、その体に触れれば良かった。もっと話がしたかった。笑顔を見たかった……。そんな後悔が次から次へと押し寄せてくる。  ふとノックがして、トーマは慌てて涙を拭った。返事をする前にマスターが入ってくる。 「外で警察が張り込んでいたよ。十条が店に来なかったかって。もちろん、来なかったって嘘をついたけどね」  ついさっき外に出たばかりなのに、警察は気づかなかったのか。そんなトーマの疑問に先回りするように 「あんな図体の大きい男を見逃すなんて、警察も節穴だね」 と、マスターは呆れた口調で言った。 「あんたも何も言っちゃいけないよ。何も見なかった。そう答えるんだ」  あまりの気迫に圧倒されて、トーマはこくりと頷く。 「まったく、あんたのせいでとんでもないことに巻き込まれちゃったね」  マスターは、ぼやきながら個室を出て行く。トーマは十条に会えなくなった悲しみを忘れて、ただ落ち込むだけだった。今さらながら、自分の肩に責任が圧し掛かる。だが、他に行く宛てのないトーマは、どこにも逃げられず、その言葉に従うしかなかった。

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