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第6話 初めてのキス

 怪我人なら家に送るしかあるまい。  そう思って右足を引きずる店長を図書館駐車場に停めた車に案内したのだ。  東馬が助手席のドアを開けた途端に、店長はくすくす笑うのだった。  それはそうだろう。  昨日、兄の家族が遊びに来て皆で回転寿司に出かけたのだ。兄の車には東馬が乗り、この車は父が運転して母嫁孫とが乗ったのだ。ジージとバーバの歓喜ときたら目を覆わんばかりだった。  母手製のラグが敷かれた後部座席には買ったばかりの絵本や甥っ子のおもちゃが積まれているのだ。家庭臭ぷんぷんである。    東馬は黙って店長が借りて来た数冊の本を取ると、雑然とした後部座席に置いた。それを見ながら店長の笑みはまだ消えない。 「こういう車……いいな。うらやましい。家庭的というか……」  東馬は我が耳を疑う。  嘲笑ではなかったのか? 「あれは、尾形さんのお子さんのおもちゃ? だとしたら先日は、とんでもなく失礼な事を言ってしまった」 「いやっ! あれは甥っ子の……兄の息子で、僕はまだ一人だし、女より男のが好きで……」  とっ散らかった言葉を連ねる東馬に店長はいよいよ微笑みながら、ゆっくりと助手席に腰を下ろしている。右足に力を預けられないから、動作のいちいちが不自然になる。座るにも苦労している。  だが東馬は知らんふりで運転席に回っていた。助けてやりたいけれど、その身に触れたら取り返しがつかない事をしてしまいそうで怖かった。  そして案の定、東馬は佐宗真樹と口づけを交しているのだった。  佐宗店長が住んでいるマンションの地下駐車場である。  その前にファミリーレストランに寄って昼食をとった。昼食をとりながら怪我をした経緯を聞いたが、 「店内で消火器を振り回されて、足に投げつけられたんだ。あんまり痛いんで仕事が終わってから病院に行ったら、指の骨が折れてた」  佐宗真樹の説明はごく簡単だった。  東馬が詳細を尋ねても、わかったのはたぬき屋でクレーマー客が暴れて取り押さえようとした結果の怪我らしい、ぐらいである。 「それは労災が下りるの?」 「まさか」 「だって、顔も殴られたんでしょう? クレーマーのせいなら……」  オムライスをスプーンで崩しては食べていた店長は、ふとまっすぐに東馬を見た。 「私が休みの日に尾形さんはあの中年男と一緒に来たそうですね」 「中年男?」 「水田が言ってました。尾形さんはあの男と知りあいなんですか?」  すぐに思い出した。クリーニング屋の領収書を持って店長を訪ねた時、赤黒いカニのような顔の中年男が遅れて入って来たのだ。 「いや、一緒じゃなく。僕の後に入って来たんです。確かに店長に会いたいと言ってたけど……」 「ふうん。知り合いじゃなかったんですね?」 「違いますよ。全然知らない人です。あの男がクレーマーだった?」 「……どちらかと言えば、ストーカーかな?」 「はい?」  既に店長は東馬から視線を外してオムライスを一口ずつ丁寧に食べているのだった。正直この男が子供が好むこんなメニューを選ぶとは思ってもみなかった。  ちなみに東馬は冷麺を食べていた。今日もまた麺類である。  店長は怪我についてはそれ以上言わずに、むしろ東馬に関する質問を重ねるのだった。  まるで初対面であるかのように、家族や家庭について嬉しそうに尋ねる。そうして笑顔を向けられけば東馬もついあれこれ話してしまう。  父親が蕎麦打ちに目覚めて週末ごとに蕎麦を食べさせられている話に店長は大いに受けるのだった。 「蕎麦なんて家族を巻き込む趣味にハマるのはやめて欲しい。こっちは仕方なく絵を趣味にしたのに……」 「絵が趣味? 尾形さんは絵を描くんですか」  頷いて東馬は真柴本城大学ではなく美術系の大学か専門学校に行きたかったと語っていた。親の反対で諦めたと口にしてみて、 「……やっぱり専門の学校に行きたかったな。今はバイトで少し描いてるけど」  心の底にかなり大きな後悔が残っていると今更気がつく。父親の〝趣味の蕎麦打ち〟にやたら腹が立つのはそのせいだったのか。 「絵がバイトなんて、すごいですよ」 「いや。専門的な技術をきちんと習ってないから。何となくニセモノみたいな気がしてならない」 「ああ、確かに。その感じはわかります」  まさか同意を得るとは思わなかった。 「私は博多の高校時代からたぬき屋でバイトをしてて、ろくに勉強もしないまま正社員になってしまったから……」 「あの、店長って僕より年上ですよね?」 「外で店長はやめてください。佐宗真樹(さそうまさき)です。真樹でも」 「真樹さん……何才でしたっけ」 「28才です。東馬さんは25才でしたよね」  名前で呼ばれて頬が熱くなる。耳まで赤くなっている気がする。 「それで夜間大学に行くって、向学心ハンパないですよね」  つい水田から聞いた台詞をそのまま言ってしまう。 「弟も妹も独立したから、もう博多を離れてもよかて思ったとです。好きなことばしたかった。東京も見てみたかったし……」 「真柴本城市は東京都下ですけどね」 「先日は案内してもらって嬉しかったです。あげん風に言ってしまって……後悔してます。本当はもっとゆっくりおつきあいしたかったのに。申し訳ありませんでした」  佐宗真樹は膝に手を置いて頭を下げるのだった。東馬は「いや」「別に」と、もごもご言うばかりだった。  基本的には誘われたい気持ちはあったのだ。状況が違っていればあの台詞もまるで違う受け止め方をしただろう。  なのに自分があの後どんな行動に出たか思い出すだに冷や汗が出て全身が総毛立つばかりである。    ランチを終えた二人はまたしても図書館に向かっていた。  何となれば、東馬がバイトで描いているイラストが掲載されている雑誌が図書館に所蔵されているからである。是非見たいと店長いや佐宗真樹が言い出して戻ることになったのである。  幼児教育の季刊誌は出ているのは春号までで、夏号は8月発刊の予定だった。  ちなみに今回十点のイラストを送ったのはまた別の月刊誌である。  佐宗真樹は季刊誌の東馬のイラストを見るなり「へえ!」と感嘆の声を上げ、雑誌と東馬の顔とを見比べるのだった。 「いいなあ……こういう絵。見かけによらずきっぱりした色使いの大胆な絵を描かれるんですね。出来れば自分で買いたいぐらいですよ」  やたらにもじもじしてしまう。自分の作品を目の前で鑑賞されて賞賛されるなど初めてのことである。照れくさいような自慢したいような不思議な気分だった。 「そんな……買うなんて。真樹さんのリクエストならいくらでも描きますよ」 「夏号は自分で買いますよ」  助手席で言う真樹に、店頭にはないからネット予約をした方がいいと勧めている。ついでに例の十点が載るだろう月刊誌についても宣伝してしまう。 「いいですね。東馬さんは自分のやりたいことをきちんとやっている」 「いや、きちんとだなんて……仕事の片手間だし」  謙遜と本気が入り混じった言葉だった。  そうして店長を住まいまで送ったのだ。  博多うどん店たぬき屋がワンルームマンションの何戸かを社員寮として借り上げているのだった。店長と水田は隣室同士とのことである。  地下駐車場に車を乗り入れて、今度ばかりは東馬は店長が助手席から降りるのを手伝った。 右足が軸足らしく左足で座席から立ち上がるのも心許なく、東馬は肩を貸して店長の腰に手を回した。  顔が近づいてしまう。  立ち上がって車外に出た店長は片手で車の屋根につかまって東馬の顔を見た。  どちらが先に動いたか知れない。  自然に吸い寄せられるように唇を合わせていた。  今日はコンタクトレンズにして良かったと内心喜ぶ東馬である。二人の間にメガネという障害物はない。  腰を支えた手とは反対の手で首筋に手を回してしまう。艶やかな黒髪を指先でまさぐる。  途端に東馬は突き上げるような衝動を覚えていた。  そっと触れた口づけの余韻も冷めないうちに、いきなり噛みつくように強引に唇を奪ってしまう。口中に舌を差し入れそうになったところを掌で塞がれた。  間近に見る真樹の目は淫乱なまでに光っている。けれど濡れた唇で吐息のように囁くのだった。 「ここは防犯カメラがあるから……」  にわかに東馬は身を離した。思わずキョロキョロするのをクスクス笑って店長は斜め上方を目線で示している。  なるほど背後の天井から防犯カメラ以外の何物でもない機械が静かにこちらを見つめている。 「部屋に寄ってく?」  問われて口を半開きにしたまま固まってしまう。 「うんっ!」と力一杯頷きたいのは山々だが、見下ろした相手の右足は白いギプスに覆われているのだ。  万が一にも乱れて怪我に響くような事があれば悔んでも悔やみきれない。 「足がちゃんと治ってから……」  唇を噛みつつ首を横に振るのだった。 「そうやね」  と店長は防犯カメラに背を向けて、東馬の頬に唇を寄せるのだった。  フランス人のビズよろしくチュッと軽く音を鳴らされる。  東馬はもう燃えるような身体で、うっかり「好き」などと呟いたかも知れない。 「好きだ」と聞こえたのは空耳なのか真実なのかもはや判別もつかない。  二人の身長は殆ど同じだった。唇を合わせるに何の不都合もない。何なら下で臨戦態勢になろうとしている物も同じ位置にあるのだった。  

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