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第8話 満身創痍
他の部屋の住人が外廊下の騒ぎに気づいて110番通報したのだ。
5階廊下から階段を駆け下りた中年男は1階に到って、ちょうど到着した警察官と出くわして拘束されたらしい。
警察官が5階まで上がって来た時、東馬は蹴りつけられた疼痛で全身が麻痺したようになっていた。その上にしっかりと覆いかぶさっている熱い身体は真樹なのだった。何か聞こえると思えば、
「すまん、東馬……申し訳なか……すまん」
としゃがれた声で繰り返しているのだった。
二人は救急車で病院に送られた。不幸中の幸いは、真樹の右足が再び悪化することがなかったことである。もっとも今度は肋骨が折れていたが。頬や腕は何針も縫われ、その他あちこちに打撲傷があった。
東馬も遅れて駆けつけたわりには顔や身体に裂傷や打撲傷が残った。額を三針ばかり縫って真っ白なガーゼで覆われたのは、自分でも痛々しく感じた。
何やらあたりが良く見えないので目も怪我をしたかと思えば、
「あなた、コンタクトレンズ片方ないわよ」
手当をしている看護師に指摘されるのだった。あの騒ぎで片目だけ外れてしまったらしい。
仕方がないので残りのコンタクトレンズも外してしまえば、いよいよ世の中はぼやけるのだった(メガネは新車の中に置いてある)。
救急病院で警察官の事情聴取を受けてから、タクシーでマンションに戻る。その車中、
「今日、泊めてもらえる?」
と尋ねたのはただ真樹の身を案じてのことだった。
真樹は言葉少なに「どうぞ」とだけ言うのだった。
両親への配慮もあった。外傷を負ったばかりの姿で帰るより、とりあえず一晩おいた方が良いと思えたのだ(実際はそうでもなかったが)。
父親の出勤後に帰宅してまず母親だけに事情を話そうと判断したのだった。
母親には今夜は友人宅に泊ると連絡し、会社には月曜日は病欠の旨メッセージを送った。
よもやこんな形で佐宗真樹の部屋に泊ることになろうとは思いもよらなかった。
初めて入ったワンルームには家具らしい家具が殆どなかった。
ソファベッドに枕やタオルケットが投げ出してあるのが日々の寝床のようだった。その横に透明な衣装ケースが置かれ、壁には折り畳み式のテーブルが立てかけてある。
後は床にザックや教科書ノートパソコンなどが置いてあるぐらいだった(一体どこで勉強をするのか?)。
その夜は真樹がソファベッドに寝て、東馬は寝袋を借りて床で寝た。その寝袋は真樹が博多から出て来てソファベッドも届かない頃に使ったという。
「いいから。私は寝袋のが慣れてる。東馬はベッドで寝てくれ」
どうしても客である東馬をソファベッドで寝かせようとする真樹を納得させるのは大変だった。明らかに真樹の方が重症なのだ。床で寝ている場合ではない。
「じゃあ一緒に寝よう」
東馬は真樹の腕を取ってソファベッドに上がった。男二人が並んで寝るのはどうあっても無理な広さである。
顔も身体も包帯や絆創膏で覆われた真樹を上向きに寝かせて、東馬は傍らでまるで添い寝するように横たわった。少しでも身動きすれば床に転げ落ちる端ぎりぎりだった。
それでも尚、東馬にソファを譲ろうとする真樹の胸を母親よろしくとんとん叩いて、
「〝好き〟って言ってくれたら、言うとおりにするよ」
と言ってしまった。
普通なら恥ずかしさのあまり顔が赤くなるような台詞だが、この際目的が別だから平気で口に出来た。目的はもちろん真樹の安眠である。
対する真樹は、
「好きだよ、東馬」
さして抵抗もなく言うのだが、東馬は首を横に振っていた。
「そうじゃなく。さっきの言葉で言ってよ」
「さっきの言葉?」
「訛ってたじゃん。博多弁? それで言ってよ。〝好き〟って」
「…………」
いきなり黙り込む真樹である。重そうな瞼で瞬きをしている。病院で処方された鎮痛剤で眠気を催しているのだ。それは東馬も同じことだった。
真樹は自分の胸にある東馬の手を握って、
「好いとう……東馬、ばり好いとうよ……」
言っている間に完全に目を閉じて寝息をたて始めていた。東馬の手にも真樹の手にも真っ白な包帯が巻かれている。
東馬は眠りに落ちた満身創痍の真樹の身体にそっとタオルケットをかけた。
そして床に下りると寝袋を敷いて(中に入るような陽気ではない)同じく深い眠りに落ちたのだった。
痛みと暑さとで目が覚めた。
「うう……あう」と奇妙な音が聞こえると思えば自分の呻き声だった。
痛みで身体はろくに動かない。肌は吹き出した汗でどろどろに濡れている。
「すまん。明け方に冷房が切れよった。タイマー設定を間違ごうた。今入れ直したけん、じき冷えよる」
上から声が降って来た。
天井のどこからか冷風も流れて来る。
真樹は既にシャワーでも浴びたかのようなさっぱりした顔で立っている。
「汗を拭いちゃるけん。それから朝飯にしよう。鎮痛剤ば飲む前に胃に物を入れなならん」
この期に及んで憚られる感覚ではあるが、この日東馬は真樹の部屋でこの上もない多幸感に満ちていた。
何しろ真樹に清拭をされたのだ。
驚いたことにこの部屋のクロゼットにはちょっとした救護所のような大きな救急箱があった。中には清拭用濡れタオルなどもあり、真樹は慣れた手つきで汗まみれの東馬の背中から胸から拭いてくれたのだ。
「博多の部屋を引き払う時に家具も道具も処分したとに……何でかこれは残した。あいつが追うて来るなんて思うとらんかったに……」
「あいつって……?」
あのカニのような顔の中年男は一体何者なのだ。うどん屋のクレーマーが何故、店長の自宅まで押し掛けるのだ。東馬が疑問を口にする前に真樹は答えるのだった。
「父親や」
東馬はぽかんと口を開けたきり何も言えなくなってしまった。
「血のつながりはなか。母親の再婚相手。弟や妹には実の父親やけど」
クレーマーやストーカーの方がまだ理解できる。義理とはいえ父親が息子にあんな暴力をふるうのか!?
ひたすら驚いていたが、真樹は粛々と説明する。
もともと真樹は祖母や母親に育てられた。父親がどこの誰かも知らない。やがて新しい父親がやって来た。あの男である。
少しでも気に入らない事があれば暴力をふるう男だった。弟が生まれ妹も生まれ祖母が亡くなり、五人家族になったけれど男の暴力が止むことはなかった。
いつの間にか母親が家に帰って来なくなった。
「いつの間にか……って?」
東馬はかろうじて質問した。開いた口が塞がらない気分だが、あまりに驚くのは逆に失礼な気もした。
「仕事で泊まる言いよって外泊が続いて、たまに帰ってたのがとうとう帰らんようになった」
真樹は特に感情を見せずに東馬の身体を拭き終わると、自分のまだ手を通していないTシャツをひろげて着せてくれた。
促されてバストイレで顔を洗おうと鏡を見れば、一夜明けたわが顔はすさまじい事になっていた。傷は赤黒く腫れ上がり真っ白なガーゼや絆創膏が張り付けてあるのが一層痛々しい。
これで自宅に帰れば両親の驚愕はただ事ではないだろうと心も打ち沈む。洗うと言うよりちょんちょんと水で目元を濡らすのがせいぜいだった。
部屋に戻れば、何と真樹は折り畳みテーブルを広げて朝食の用意をしていた。茶碗に梅干し入りの粥が盛られている。レトルト食品かと思いきや、猫の額のキッチンで粥を炊いたらしい。
「うどん以外にも料理できるんだ?」
程よく塩気のある粥を啜りながら訊けば、真樹は当たり前のように頷いている。
「普通の料理なら出来るよ。喫茶店や回転寿司で働いたこともあるけん」
「だって高校の時からうどん屋で働いてたって……他でも?」
「まあ、いろいろと……」
頷いて真樹はキッチンに立つとドリップコーヒーを淹れ始めた。辺りに漂っていた粥の優しい香りにコーヒーの強いアロマが上書きされる。
「え、何? 真樹は食べないの?」
てっきり真樹の分はこれから茶碗によそうものと思っていたのだ。
「いつも朝はこれだけだから」
とコーヒーを飲んでいる。
「いや、だって薬飲む前に何か胃に入れなきゃ?」
「慣れとるけん大丈夫」
「大丈夫じゃない」
立ち上がりかけた東馬だが、足腰の痛みにまた座ってしてしまう。あわててそばにやって来た真樹の口元に一匙の粥を掬って差し出した。
「え?」と、まるで何か珍しい物を差し出されたかのようにそれを見つめる真樹である。
「一緒に食べよう」
東馬が更に匙を突き付けると、仕方なく真樹は唇を開いて粥を受け入れた。顔を顰めて飲み込むのは、おそらく口中の切り傷が傷むのだろう。それは東馬も同じことだった。
また真樹が一口食べて、次は東馬が一口食べる。
そうして茶碗の粥がなくなると、真樹は食卓を離れて何袋もの薬袋を持って来た。自分の分と東馬の分である。
まず開いたのは東馬の薬袋だった。説明書を読みながら朝食後に必要な薬を切り分けてテーブルの東馬の前に差し出した。
「ありがとう」と呟いて東馬は胸が痛む。常に自分より他人(弟妹)のことを優先して来た佐宗真樹の人生……それが見えた気がしたのだ。
東馬が薬を飲むのを見てから、真樹は自分の薬袋を開いて薬のタブレットを切り分けるのだった。
常ならば整った真樹の横顔は、今や唇も頬もすっかり腫れた上にガーゼや絆創膏が貼られて無惨なことになっている。東馬は粛々と薬を飲みながら、そんな真樹を見るのもつらい。
前に右足の骨を折った真樹を初めて見た時、いつもより痩せているような気がした。鎮痛剤を飲むために胃に入れる粥を焚くことは知っているのに、コーヒーだけで薬を飲んでいた。
おそらく他の食事も抜いていたのではないか?
だから痩せていたのだろう。
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