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第10話 燕去月〈つばめさりづき〉
その夜も鎮痛剤や睡眠薬のお世話になって眠りに就いた。
薬効の眠気が訪れる前にふいに思いついた。
初デートの雨の車中で真樹がにわかに東馬をラブホテルに誘った理由である。
あれは身体が目的ではなかったのかも知れない。
東京に逃げてようやく義父から自由になったと思っていたのに、真樹は勤め先を知られ住まいまで突き止められたのだ。
初めてのデートの日に、そんな嫌な理由で遅刻をした。
その悔しさ無念さを吐露したかったのではないか?
心が叫びたかったのだろう。
今日、東馬が母親に対してつい秘密を明かしてしまったように、誰かに真実を話して泣き喚きたかったのではないか?
信頼できる相手に。
東馬はそういう相手に選ばれたのに、猥褻目的と思い込んで激怒した。
もっとも何も知らなかったのだから、それも無理はないのだが。
今になればあの日の豪雨は真樹の胸中そのままだったようにも思える。
今度真樹に会った時には、そのことも謝ろう。彼のこれまでの人生全て受け止められる人間になろう。
怪我の痛みが少しずつ治まるにつれ、東馬の心は佐宗真樹に対する慈愛に満ちて行くのだった。
〈怪我の具合はどう?〉
翌朝さっそく真樹に送ったメッセージには、
〈大丈夫。そっちは?〉
簡単な返信があった。
東馬は痛みの具合から両親の反応など様々なことを伝えたが、既読がついただけだった。
その後も東馬はなるべく丁寧なメッセージを心がけたが真樹の返事はごく簡単なものばかりだった。
〈私のせいで怪我をさせて申し訳ない〉
〈ご両親にもご心配おかけしたことをお詫びします〉
など儀礼的な短い文言ばかりだった。しまいには、
〈治療費はまとめてお支払いします。後で領収書を渡してください〉
などと伝えて来るに及んで、東馬は鼻白んでしまった。
Tシャツにうどんのつゆが飛んだのとは違うのだ。治療費の領収書を渡せって何なんだ?
あまりにも他人行儀ではないかと不快になったが、いや真樹なりの誠実さだと自分に言い聞かせた。
ラブホに誘われた時のように自分だけの感情で怒り狂ってはならない。
真樹の無事さえ確認出来ればいいのだから、しばらく静かに見守ってやろう。
そう思って毎日おはようやおやすみのスタンプや、よしなしごとを送っては短い返事や既読がつくだけで安心していた。
〈たぬき屋の水田に手紙を預けました。いつでもいいので店に取りに行ってください〉
金曜日の夜中にいつもより少し長めのLINEが届いた。
首をかしげながら、土曜日にたぬき屋に出かけた。
例によって開店早々の店に入って見れば、
「いらっしゃいませ!」
とカウンターの奥から迎えたのはアイドル顔の店員、水田だった。
「あっ! お客さん、待ってたんすよ!」
と、にわかに店の奥に引っ込んで何やら探して持って来た。
その間、何故か東馬はまだ客のいない店内やドアの外を用心深く見回しているのだった。
あのカニのような顔をした中年男は警察官二人にパトカーに押し込められて消えたというのに。
カウンターに戻って来た水田に、
「今日は店長は休み?」
尋ねたのは真樹は傷病休暇でも取っていると思ってのことだった。よもやあの怪我で働いてはいないだろう。
「店長、辞めたっす!」
きっぱり言って水田は東馬に茶封筒を差し出した。
「これっ! 佐宗店長から預かってます」
長3サイズ、少し大きめの封書である。下には〝博多うどん店たぬき屋〟の名前やロゴマークが入っている。たぬきが丼を抱えてうどんを食っている長閑なイラストである。
東馬は口を半開きにして手を出すのも忘れたまま水田を見ている。
「辞めたって……?」
「お客さんの怪我もヤバイっすね。店長に聞きましたよ。二人ともあのクレーマー野郎にやられたんでしょう?」
「いや、そうだけど……辞めたって? 他の店に移動になった?」
「そういうんじゃなく。マジ辞めるって。水曜日に来てみんなに挨拶して、荷物を全部引き揚げて行きましたよ」
「え、じゃ、じゃあ次の店、いや仕事は?」
「聞いてないっす。部屋も引き揚げたし。早かったっすよ。店長の部屋、昨日の朝にはもう清掃屋が入ってたし」
口をあんぐり開ける、という言葉の模範例のように東馬は口を開けたきりである。
呆れているのは水田も同じようで、訊いてもいないのにあれこれ喋っている。
「せっかく大学に入ったのにって訊いたら、通信教育で勉強は続けるって。でもまだ新しい仕事も住まいも決まってないって。
ただもうあのクレーマー野郎のせいで会社に迷惑はかけられないって言ってて。あの野郎マジ何者なんすか? 店長が謝る必要なんかないのに」
店に新たな客が入って来るまで、水田は一人喋り続けた。東馬はただ頷きながら聞くばかりだった。
店を出て新車を停めてある駐車場に向かった。
車の中で真樹からの茶封筒を開封してみた。まず出てきたのは〝見舞金〟の熨斗袋だった。中には万札が何枚か入っていた。
手の切れそうな紙幣を数えながら東馬は何やらぐしゃりと胸を踏みつぶされた気分だった。
「それはそうだけど……」
誰にともなく呟きながら、更に同封されていた便箋を開いた。
佐宗真樹の文字を見るのは初めてだった。見事な達筆だった。
〈短い間ですが楽しかったです。ありがとう〉
短いのはこの文章だろうが!?
いきなり便箋を握り潰してから、あわててまた広げた。文章はまだ続いていた。
博多うどん店たぬき屋を辞めて別の場所で別の仕事を見つける、大学は通信教育で続けるなど水田が言ったのと同じ内容のことが説明されているだけだった。
〈また迷惑をかけるといけないのでもう会いません。
怪我が早く治るよう祈っております。
いつまでもお元気で〉
という挨拶で終わった手紙には、もう一枚便箋が付いていた。
そこに一行だけ書かれていたのは、
〈粥 を食 む 風待月 に君と逢ひ〉
署名は〈まさき〉とあった。
俳句なのか短歌なのか知識のない東馬にはそれすらわからなかった。
図書館に案内した時に、真樹が長いこと佇んでいたのは詩歌の書架の前だった。こういった勉強もしたいと呟いていた。
頭の中が真っ白になり東馬は新車の運転席でいつまでもその一文を見つめていた。
にわかに手紙を新車のダッシュボードに入れると車を発進させた。
まずたぬき屋の社宅であるマンションに向かったのだ。
五階でエレベーターを降りて、506号室に向かった。玄関チャイムを押すが何の音もしない。空き部屋は既に電源も切られているようだった。
ついドアノブを握って押したり引いたりするが開くはずもない。鍵穴に目をやれば、
「地震と共に去りぬ、か」
と呟きながら真樹が施錠したあの日を思い出す。
すごすごと地下駐車場の車に戻りながら考えていた。
あの時、東馬は真樹の言葉を単に部屋を去ることにかけたとばかり思っていた。
けれど実は別れを決めた言葉だったのかも知れない。
東馬の元から去る……と。
目頭がじわりと熱くなったのを包帯をした手でぐいと拭ってエンジンをかけた。思い切りアクセルを踏んで真柴本城大学に向けて走り出した。
大学の駐車場に車を停めて校門に向かっているうちに正気に戻った。
実は学生課で真樹の行方を尋ねるつもりだったのだ。だが大学がそんな個人情報を教えるはずもないだろう。
それどころか校門を入ろうとすると詰所からガードマンが出て来て「どちらに?」と尋ねるのだ。今時は関係のない人物が迂闊に学内にも入れないのだ。
とっさに東馬が言ったのは、
「経済学部の助手の森末、いや秦野太賀に会いたくて……僕は同級生だったんです」
「お約束ですか?」
「いえ、たまたま近くに来たんで会えるかと……」
守衛所の内線電話で問い合わせたガードマンは、首を横に振りながら言うのだった。
「生憎ですが、秦野先生はお辞めになったそうです。関西の大学に転勤されたそうです」
「あ……ああ。ああ、そうでしたね」などと頷きながらその場を離れた。
真柴本城市の新宿二丁目の入り口にある焙煎珈琲店〝黑河〟で東馬はただひたすら苦いコーヒーを飲んでいた。
大学助手の太賀の伝手で、夜間大学生の転居先住所を調べられないかと思ったのだ。
この期に及んであのセフレを利用しようと思いつく自分も自分である。少しばかりの自己嫌悪を感じるが、どうしても真樹の居場所を突き留めたかったのだ。
だが二度と真樹に会うことは叶わなかった。
LINEメッセージはもう送れなかった。
電話をかけても、
「この電話番号は現在使われておりません」
と機械の音声が答えるだけだった。
早々にスマホは解約したらしい。
仕事の後にたぬき屋を訪ねて見れば、既に新しい店長が店を切り盛りしていた。どういうわけか水田の姿もなく、別の若者がカウンターに立っているのだった。
一瞬自分が佐宗真樹と出会ったのは単なる妄想だったような気までする。
怪我が治り、額や腕に小さな傷跡が残るだけになり、いよいよその妄想感覚は強くなる。
そうしているうちに八月も過ぎていた。
調べて見れば、真樹が詠んだ歌の〝風待月 〟とは六月のことだった。旧暦六月は〝水無月 〟という呼び方が有名だが、風待月とも呼ぶのである。
二人が出会ったのは確かに六月である。
けれど粥は思わぬ負傷で仕方なく食べただけである。東馬としては歌に詠むほど喜ばしいことには思えなかったが、真樹にはどうだったのだろう。
そして八月は葉月である。調べて見れば、燕が旅立つ月だから〝燕去月 〟とも呼ぶ。
燕が去るように真樹も飛び去ってしまった。
涙の一つもこぼれないあっけない別れだった。
「へえ、八月は燕去月なんだって」
などと二人で言い合うことも、もはや出来ない。
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