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エピソード 岸千之③
出張編集部の片付けもそこそこに自宅に一度戻り、服を着替えてからマンガアワードのパーティ会場に向かった。
紙袋に会社から預かった販促物とコメ山先生の原稿、そして酒井さんの同人誌を入れて。
「岸さん、こんばんは。今日は宜しくお願いします」
パーティ会場のホテルでの待ち合わせで大丈夫と言っていたのでロビーで待っていると、黒縁眼鏡にさらさらの黒のショートヘアの好青年──伊馬川先生に声を掛けられた。
着慣れないはずのスーツをきっちりと着こなしているのは、彼の育ちの良さからくるものだろうか。
「こちらこそ。マンガアワードのパーティに同席させて頂きありがとうございます」
「いえ。こういう場は不慣れですし、人見知りなので、岸さんが居てくださって心強いです」
俺もそんなに場数を踏んだわけではないので得意というわけではないが、初めて会う人でも緊張せずに話せるので、こういう場では役に立つ。
伊馬川先生と共に会場に入った。色々な出版社や書店の偉い人が集まっている。うちからは取締役と編集長も来ていて、すぐに伊馬川先生を囲んだ。
そしてパーティが始まり受賞した作家と作品が紹介される。順番に作家に一言ずつ求められて、伊馬川先生の番が来た。
人見知りなどと言っていたが、あまり緊張した様子もなく言葉を述べる。そして次に文夏社の少女誌で連載されている作品紹介された。
「文夏社の女社長ってあの人か」
「敏腕社長って話だよな。あの漫画も、作者自体がずっと鳴かず飛ばずだったらしいんだけどさ、文夏社で連載始めて一気にブレイクだろ? どんな編集がいるんだかなあ」
近くに居た別の出版社の人達が、コメントを求められている作家の人の近くに居たダークレッドのドレス姿の女性を見て言う。
俺は持っていた名刺を取り出し、ついに機会が来たと思った。きっとここだ、この出版社だ。
一通りの紹介が終わり、伊馬川先生に断りを入れて席を外した。そして俺は文夏社の安藤社長が一人になったタイミングで近付く。
「初めまして。漫画雑誌ドラゴンブレス編集部の岸千之です」
「ええと……伊馬川先生の担当の方かしら?」
唐突に名刺を差し出してきた男に驚きながらも、名刺を受け取ってくれた。
「はい。しかし先生とは関係なくお話したいことがあり……大変不躾なことをお尋ねしますが、この後ご予定は如何でしょうか?」
「あら、こんな場所でナンパ?」
「はは、そのようなものです」
安藤社長は俺の顔を見て、何か感じるものがあったのか笑みを漏らすと、
「いいわ。パーティが終わったらうちの社に来て。まだ開いてるはずだから、そこでお話ししましょう」
と名刺を鞄にしまった。俺は「ありがとうございます。宜しくお願いします」と一礼して、素早く席に戻った。
パーティが終わり、伊馬川先生を囲んで二次会が開かれることになった。
「すみません、急遽コメ山先生から連絡が来て、今から向かうことになりまして」
伊馬川先生には申し訳ないが、こうするしか方法がない。
「コメ山先生の読切とても面白いですよね。宜しくお伝え下さい」
伊馬川先生はそう言ってあまり得意ではないはずの飲み会に連れて行かれていった。彼は俺が担当でなくても問題ない作家だ。初めから描きたいものも才能も十分にあったから。だから、俺が会社を辞めても彼は素晴らしい漫画を描き続けるだろう。
俺は少し罪悪感を覚えながらも、一人文夏社に向かった。
受付はもう閉まっていたが、社長秘書の饗庭さんというフルオーダーのスーツに身を包んだ初老の紳士が玄関で待ってくれていた。
安藤社長から社長室に来るようにと言伝されいて、一緒に六階の社長室に向かう。
「社長、失礼します。岸さんです」
ノックをして俺を通してくれる。俺は「失礼します」と一礼して入室すると、パーティと同じドレス姿の社長がソファに座っていた。
「どうぞ、掛けて」
俺はテーブルを挟んだ正面のソファに腰を下ろす。社長は足を組んでいるので、スリットから脚が見えて少しセクシーだ。
「何? 本当にナンパじゃないわよね?」
「はい、すみません。俺なんかのために時間を作ってくださって、ありがとうございます。今日はご相談したいことがあり、伺いました」
俺は紙袋に入れていたコメ山先生の原稿が入った封筒を取り出し、中身を出して安藤社長の前に置いた。
「この漫画はどなたの?」
「俺が担当しているコメ山メシ太先生の漫画です。そしてご相談というのは……どうかコメ山先生のこの読切を、貴社の雑誌に掲載頂けないでしょうか」
俺が頭を下げて少し間が空いてから、社長が漫画を手に取る。一枚一枚テーブルに原稿が置かれていく。
「……これ、貴方の独断ね?」
「はい。弊社も先生も知りません」
「こんなことしたら、貴方会社には居られないわよ」
安藤社長の溜息で顔を上げると、彼女は予想外にも笑みを浮かべていた。
「とても面白いわ。うちの漫画編集部に回しておくけど、どうして貴方のところは載せないのかしら? 不思議ね」
ああ、分かってくれる人がいた。彼の才能を。それがとても嬉しくて、笑みが溢れた。
「うちは、人気の先生だけで固めてやっていくつもりなんです。だから──」
「辞めるつもりで私のところに来たってわけ?」
俺は苦笑しながら、「はい」と頷く。
「コメ山先生が描きたい漫画を描けるようになるなら、俺はそれでいいんです。コメ山先生に必要なのは、伸び伸びと描ける環境だけでしたが、俺の力不足で弊社では整えてあげられませんでした。担当編集として最低限のことさえできなかった。だから、彼が漫画を描き続けてくれるなら、それ以上何も望みません」
「あと」と付け加えて、今日会った酒井さんの同人誌を社長の前に出す。
「今日のコミファンで貴社のブースの受付が終わってしまったと言っていた女性の同人誌です。色々と拙いところは有りますがとても才能が溢れていて、画力は勿論、惹き込まれる漫画を描かれています。今度創刊されるという雑誌にぜひ推薦させて下さい」
俺の話を黙って聞いていた安藤社長は、突然噴き出し、声を上げて笑った。そんなに面白いことを言っただろうか。
「貴方、聞いてたらさっきから作家のことばかりね? 私はてっきり自分も会社に入れて欲しいって言うのかと思っていたわ」
考えてもみないことだった。そもそも、こんなタブーを犯して業界に居られるとは思わなかったから、編集者という職自体を辞める気でいた。
「でも、貴方は本当にこの仕事が好きなのね。それは伝わってきたわ」
安藤社長は酒井さんの同人誌を読むと、小悪魔的に微笑を浮かべて俺を見詰めた。
「ねえ、本当に仕事に未練はないわけ? 編集者として、見つけてきたこの子を、自分で育てたいと思わないの?」
痛いところを突かれた、と思う。コメ山先生は三年近く読切を描き続けているし、俺でなくても担当編集者が適度にアドバイスするだけで自分で考えて進んでいける。
しかし酒井さんは性格を考えたら、上手くやれるのかとても不安だ。俺だったら、と考えてしまう。深く息を吐き出し、項垂れる。
「……正直言って、やりたくないかって言われたらやりたいですよ。編集者として一緒に悩んで考えて、彼女の世界観が表現された作品を作っていけたらって。しかしそんなことが──」
「じゃあうちに来たらいいわよ」
安藤社長があっけらかんとして言い放った台詞に、続ける言葉を失った。
「ちょうどBL漫画小説雑誌の創刊に伴って、新しく立ち上げるBL企画編集部で働いてくれる編集経験者を探していたところなの。今のところ異動を予定している人員に未経験者が多いから、来てくれると助かるのだけど」
「いや、しかしコメ山先生だけでなく俺までとなると、流石に社長にご迷惑が……」
コメ山先生はうちと専属契約を結んでいるわけではないからいいとしても、担当の俺も転職したとなれば話は余計にややこしくなる。普通に考えて、うちの会社から恨みを買うはずだ。
「そんなこと貴方が心配することじゃないわ。貴方の仕事は、雑誌の編集でしょ? 作家先生が円滑に仕事ができるようサポートして、雑誌が無事に刊行できるようにする。それだけを考えていたらいいの」
安藤社長はドアの前に立っていた秘書の饗庭さんを呼んで、コメ山先生の漫画原稿と酒井さんの同人誌を渡した。
「大丈夫よ、心配いらないわ。ちゃんと上手くやるから。……で、貴方の返事は?」
新しい部署で、新しい仲間と、新しい雑誌を創り上げる仕事。魅力を感じないわけがない。きっと、この社長がいるこの出版社なら、素晴らしい作品を世に送り出す手伝いができる。
「是非、お願いします!」
俺は立ち上がり、深く頭を下げた。
その後は一応人事部を通した方がいいからということで、経歴書を送付することになった。
また、コメ山先生の方は詳細については文夏社の編集部から直接話をするということで、俺はとりあえず経緯説明だけをすることになった。
「あ、酒井さん! こっちです!」
喫茶店の出入り口でキョロキョロしている金髪の派手な服装──今日は左右で色も丈も異なる黒白のワンピースだ──の女性を見付けて手を挙げる。
「あ、あのっ、こ、この度は私を文夏社様に御推薦頂き、また創刊号にて漫画を執筆させて頂けることになり、岸さんには足を向けて寝られないというか! 本当に本当にありがとうございますっ!」
何度も何度も頭を下げる酒井さんに、「とりあえず座ってください」と着席を促す。
「俺も酒井さんのおかげで転職が決まったというところがありますから、こちらこそありがとうございます」
「いえいえそんなっ! 滅相もございませんっ……!」
大きく首を横に振るこの初々しい新人漫画家に笑い掛ける。
「これからは酒井先生、ですね。どうぞ宜しくお願いします」
「こ、こちらこそ、宜しくお願いします……!」
酒井先生に今回の話の経緯を改めて話し、今後文夏社の方から正式な依頼が来ることを伝えた。
軽く世間話をして別れた後、俺はもう一つの約束のために駅に移動した。
「お兄っ!」
振り返ると長いウェーブの掛かった茶の髪を揺らしながら瞳の大きな少女──白のショートパンツにオフショルダーの黒のブラウスを着ている──が駆け寄って来ていた。
「ねぇねぇ、あたし、英語で満点取ったの! 褒めてっ!」
腕を絡めながら大きな瞳で上目遣いで見詰める。痩せているが胸はあるので、谷間が見えていた。正直兄としては無防備過ぎて心配だ。
「頑張ったな莉里花」
「えへへ」
頭を撫でてやると嬉しそうに笑う。
「じゃあ何か買ってやらなきゃな」
「やったあっ! 莉里花欲しい靴あるの!」
大体莉里花が俺にショッピングに付き合って欲しいと言う時は何か買って欲しい時なのだが、妹の賢いところは、何かの報酬にプレゼントするという形にすることで、買う方も悪い気がしなくなるという点だ。実際のところ、とても頭が良い。
その上、見た目もとても可愛いのだ。中学三年の時にスカウトされて読者モデルとして活動しているので、身内の贔屓目ではないと言えると思う。
この春から高校三年になったが、最近ではファッション雑誌の表紙を一人で飾ることも増えた。
莉里花が腕を組んだまま歩き出すので、そのままついていく。欲しいと言っていた靴のブランドショップに行くのだろう。
「会ったら聞こうと思ってたんだけど〜……お兄、彼女さんと別れたでしょ」
「ああ、この間な」
そういえばそんなこともあった、と言われて思い出す。最近ずっと忙しかったから、すっかり忘れていた。
「やっぱりー! 今日久々の休みの日なのに予定ないとか可笑しいと思ったんだよねー!」
そんなに気にすることかと思うが、思春期の女の子だから、恋愛に興味があるのだろう。
「最近忙しかったからな」
「また振られたの? 好きな人できたとか?」
「ああ、正しくそのパターンだな」
割と俺の恋愛については妹に聞かれる度に話しているので、今までどういう感じで別れたのかも知られている。
「結構長く付き合ってたから、今回は結婚するかもとか思ってたのに……お兄凹んでない? 大丈夫?」
「うーん、まあ今の今まで忙し過ぎて忘れてたくらいだからなあ」
と、俺の台詞に妹は聞こえるくらい大きな溜め息を吐いた。
「……今度お兄にちゃんと好きな人ができますようにって縁結びの神社でお祈りしとくねー」
「はは、ありがとうな」
毎回振られてもさしてダメージを受けないから、流石に俺が恋愛感情を抱いていないのではないかと気付き始めているのかもしれない。そろそろ御守りを持たされそうだ。
「あ、そういえば五月末で会社辞めることになった」
「ええぇ〜〜! 何それ大事件じゃんっ!」
「いや、すぐ六月から別の出版社の編集に転職するからさ。これから引き継ぎとかでまたしばらく忙しくなるかも」
莉里花にも会えないし、実家にもしばらく顔を出せそうにない。
結局五味さんは俺が辞めることを喜んでいたが、編集長からは一応の引き止めがあった。辞めると決まって色々と一月以上掛けて引き継ぎをするので忙しい。
俺が文夏社に行くことは勿論、コメ山先生の件も知らないようだ。社長が「上手くやる」と言っていたが、どうなるのだろうか。
「意外ー。お兄なら全然違う仕事に就きそうなのに、また編集者なんだ?」
不思議そうに俺の顔を覗き込む。俺が十年打ち込んできた陸上を辞めると言った時、俺は何の未練もなかったけれど、莉里花はすごく残念がっていた。俺が道具を次々と捨てていくのを見て、泣いていた。なぜそんなに悲しいのか、俺には理解できなかった。自分の中では、やり切ったという思いがあったからだろう。
「好きなんだね、編集の仕事!」
今回偶然にも縁があったから同じ職に就くことになったのだと思っていた。しかしそうではなかった。酒井さんを他の誰かに委ねる気にはなれなかったから。
まだ、やり切ったというには、俺は編集者としてはあまりに未熟だ。やれることも、やりたいこともある。
「……そうだな」
きっと、好きなのだろう。簡単に捨てられないくらいには。
新しい職場で、新しい雑誌を創る──。そのことに胸躍らせるくらいには。
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