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第一話 イライラの元凶①
初めての印象は、「真面目そうな人」だった。しかし、それが「融通が利かない働きづらい同僚」になって、今は「イライラの元凶」になっている。その理由はついこの間の出来事が原因だった。
「本当にすみません……! あと二時間で終わらせますっ……!」
「分かりました。余裕を見て二十一時くらいにまた連絡しますので、状況教えてください。早めに仕上がったら、原稿お送り頂いて構いませんので」
「は、はいっ! 本当に毎回毎回ご迷惑をお掛けして申し訳ありません……!」
電話口でも頭を下げ続けているのが分かる。俺の担当漫画家の「酒井あるひ」先生は、俺がアマチュアの彼女を編集部に推薦した経緯がある新人漫画家だ。
今話で五話目となる酒井先生の初連載作は読者からの反応もよく、当社の電子配信サイトのレビュー欄にはいつもたくさんの感想が寄せられ、毎話感想の手紙を送ってくれる熱心なファンもいる。
五話でついに完結となるため、酒井先生もたくさん悩んで、ネームを仕上げるのにいつも以上に時間が掛かってしまった。だから、本来なら今日の十七時脱稿で、二十四時までに校了を目指していたが、それを二十分前に超えてしまった。
「大丈夫です。引き続き宜しくお願いします。もし何か困り事があったら、躊躇なく連絡してください」
「すみません、宜しくお願いしますっ……」
酒井先生との電話が切れて、小さく溜息を吐く。酒井先生の原稿の遅れに対する溜息ではない。もう少し俺が気を回しておけば、いやネームの段階で酒井先生の詰まっている原因に早く気付いて必要な資料を用意できていれば、遅延することもなかったはず、という後悔と自戒によるものだった。
「酒井先生、大丈夫そうですか?」
俺の班の中河が心配そうに声を掛ける。中河の担当の先生の原稿は午前中に届いて、編集作業に入っている。
「ああ、多分日付が変わる頃には原稿が届きそうだ」
酒井先生は妥協ができない性分だから、ギリギリになって細部が気になってしまい修正したい箇所が出てきてしまう。恐らく二十一時に連絡したら、もう少し直してもいいかと訊かれ、脱稿は二十四時になる。
俺は酒井先生が納得しない原稿を雑誌に載せたくない。特に酒井先生はうちの雑誌でデビューしたばかりの新人作家だ。新人のうちに妥協と諦めを押し付けるようなことをすると、創作意欲を失わせ、本来好きだった漫画制作を苦痛に感じさせて、ついにはただの作業にさせてしまう。
締切を守ることは大事だし、時には妥協も必要だが、今はその段階ではない。というのも、最終の最終の締切は三日後だ。今日のところは俺が後で印刷所に断りの電話を入れるだけで済む。
が、一番の問題はそこじゃない。また溜息を吐き、立ち上がって出入り口に近い一つ向こうのデスクを見る。一人黙々と作業をしている、耳に髪が掛かるくらいの少し長めのボサボサの茶髪の男に真っ直ぐに向かう。
「牟礼、待ってもらってる酒井先生の原稿なんだが、日付を超えそうなんだ」
「……そうですか」
俺に視線を向けることもなく――前髪が目に掛かるほど長いので視線が合ったこともないが――手を止めることなく作業を続ける。画面には中河担当の先生の電子配信用のデータが作られて、弊社の配信プラットフォームに掲載されるリリース前の画面が映っていた。原稿の表示サイズの確認をしているのだろう。
「それで相談なんだけど、電子の最終締切は明日の九時までだったろ? 牟礼の電子化対応回すのは流石に間に合わないから、明日の夕方になりそうで──」
と、牟礼は突然開いていた画面を全て閉じ、ノートパソコンをシャットダウンしぱたりと閉じて立ち上がった。
「退いてください」
「は……?」
「帰ります。定時なので」
牟礼はリュックを背負って呆気に取られる俺の横をすり抜けて行った。編集部のドアが静かに閉まる音だけが響く。
「はぁっ⁉ 定時⁉」
その声に腕時計を見ると、五時三十一分だった。
「急ぎですか?」
と、俺の思わず出た言葉に、牟礼の隣の席の冴木さんが心配そうに声を掛ける。冴木さんは前職がSEだったこともあり、電子配信のためのプラットフォーム制作の設計に編集部の窓口として少し関わっていた。IT部門から出向してきたのは牟礼一人なのもあり、電子配信の対応を一人で担当している隣席の牟礼が孤立しないように、よく気を回して話し掛けている。
「あ、いや、急ぎではないんですが……酒井先生の原稿が遅れてて、電子対応が明日の午後になりそうなんです」
「なるほど。岸さんの作業スケジュールはどんな予定ですか?」
「ええと……多分完徹で明日の朝までに原稿チェックを終わらせて、午後のできるだけ早い時間に入稿データを仕上げるつもりです。なので、電子の最終締切は明日の九時だから牟礼に作業を待ってもらえないかというのと、恐らく残業になるという頭出しをしたかったんですけど……」
が、話し終わる前に帰ってしまったので、俺のそんな気遣いも無駄になったわけだ。
「牟礼君に残業させるのは難しいですよ。彼自身に非があっての遅延でもない限りは。今のところ牟礼君起因の遅延は起きていないので、入社以来残業ゼロですけどね」
冴木さんは苦笑しながら、ノートパソコン以外の一切の物がない牟礼のデスクを見る。
「まあ……ですよね。大丈夫です。電子の方の断りも俺の方からIT部門に早めに入れときます」
前に締切から三十分遅延した程度で受け付けてもらえなかった前例や定時ギリギリに何とか間に合わせて提出した時は翌朝に回されて結局IT部門に謝罪電話をすることになった前例など、全く融通が利かないのだ。少しくらい協力してくれてもいいだろうに、だ。
しかし、この状況を作り出しているのはそもそも俺だというのは分かっているから、牟礼が徹底して定時退社をする人間だと理解して前倒しで進めていくくらいの余裕が本来必要なのだ。つまりこの件の非は俺にあるから、牟礼に苛立ちを覚えるのはお門違い。無論それも分かっている。
「牟礼君帰っちゃいましたね」
席に戻るなり、椅子にどっかと座って大きな溜息を吐く。苦笑交じりに言う中河に「仕方がない」と自分に言い聞かせるように答えて、俺は受話器を手に取り、IT部門に電話を掛けた。
IT部門は俺が連絡を掛けると最初の頃は丁寧だったが、最近では俺に対して「またですか」「そもそものスケジュールを見直した方がいいのでは?」とか不満や小言を言うようになった。それを聞くのは気分がいいものでは無いのだが、まあ俺が悪いので甘んじて受け入れるとしても、一番困るのは牟礼に対する愚痴だった。
「牟礼さん、入社以来定時退社らしいじゃないですか。IT部に回さないで牟礼さんの方で負担できる仕事もっとあるんじゃないですか? リリースぐらいやってもらえないです?」
「自分に言われても難しいですね。牟礼の作業については編集部の方で管理されているので、新しい作業が増える場合はIT部門の方で上を通して話を持って来て頂けたらと思います」
明らかに苛立っている相手に正論をぶつけるのは火に油を注ぐ行為であまりに無謀ではある。が、とはいえここで話を合わせたり同調したりするのは違うだろう。牟礼は任された仕事を業務時間内に終わらせているだけで、残業をしていないことは何の問題もない。
IT部門の負担が大きいのであれば、それはIT部門内の問題であって我々編集部門の責任ではない。IT部門の人員の増員や牟礼に作業を振りたいならをそれを上に提案すればいい話だ。それをせずに、牟礼を槍玉にあげるのは違う。
「は? こっちがスケジュール調整しなきゃいけなくなるの誰のせいだと思ってるんですか? そもそも岸さんの担当作家さんが毎回原稿遅過ぎるんですよ。ちゃんとどれだけの人間に迷惑掛けてるか伝えてください。分かっててこれならプロとして向いてな――」
「あの、それ以上言ったら流石に怒りますよ」
相手の言葉を遮った声は、自分でも怒気が籠ったと分かるものだった。このままでは謝罪の連絡を入れた意味が無くなってしまうと思い、一つ深呼吸をして冷静になろうと努める。
「悪いのは全部俺なので、俺の仕事に対しての文句ならいくらでも言ってください。何時間でも聞きますし、誠心誠意謝罪もします。今回の遅延については申し訳ありませんでした。お手数をお掛けしますが、スケジュール調整をお願いします」
電話口で言い返す言葉が見つからなかったのか、「これ以上の遅延は無理なので、それだけお願いします」と言って電話が切れた。受話器を置き、ふうとひと息を吐いた後、印刷所への一報の連絡を入れるため、再び受話器を取った。
印刷所の方はこのての連絡は慣れているのもあり、最終の最終締切さえ守ってもらえれば文句を言われることはない。他の仕上がっている原稿の試し刷りやチェックなどできる作業は今の時点ではあるからだろう。
「オレ先帰りますけど、岸さん大丈夫です?」
「ああ、問題ない。お疲れ」
気遣う中河を見送って、しばらくして残っていた冴木さんも編集長も退社し、一人編集部に残された。今回最後尾を走っているのは俺だけらしい。
進捗確認の連絡を入れる予定の二十一時まで二時間ちょっと時間がある。深夜作業が待っているので、それを見込んでインスタントラーメンをさっと食べて、二時間仮眠を取ることにした。
スマホのアラームと予備としてキッチンタイマーの二つをセットして、背凭れを深めに倒し腕を組んで目を瞑る。編集を始めてから、大体これで数分のうちに眠れるようになった。本格的に寝る時は椅子を四つ連結させるが、今回はあくまで仮眠なので深い眠りに落ちても困るから座ったままの姿勢だ。
仮眠を取っていると浅い眠りだからか、夢を見ることはよくある。起きた時はほとんど覚えていないような薄い内容だが、大体直前の内容が反映されることが多い。その日スマホのアラーム音で目覚めた時、無性に苛立っていた。夢の内容のことも珍しく覚えていた。
夢に出てきたのは牟礼だった。牟礼は俺に「岸さんって本当に仕事できないですね。毎回迷惑を被る立場にもなってください」と煽るようなことを言ってきた。目元が全く見えない前髪のせいで無表情なのか嘲笑っているのか呆れているのかも分からない。
因みに俺と牟礼はリアルでは数時間前の会話程度の言葉しか交わしたことがない。なので、牟礼が俺に小言を言ったことは一度もない。必要最低限の会話しかしないと決めているのだろうと思うくらいだ。だから、恐らくIT部門の人に言われたことが混ざってキャラが可笑しくなっていた。
仕事ができない、というのは一番言われたくない言葉だった。業界の経験年数は五年で、この編集部では漫画・小説の編集経験者が少ないため、重宝されているとはいえ、まだまだ失敗することもあるし、今回みたいに編集者として未熟なために担当作家の作業遅延を招くこともある。
しかし、それでも仕事は「誠実に、丁寧に」を心掛けて、どうにか最悪を回避することは今までできている。仕事ができない、と言われるレベルの失態はしていないはずだ。少なくとも牟礼に。
牟礼に対して、どうしてこんなに苛立つのか。俺は仕事を真面目にやらない奴は嫌いだし、軽蔑している。牟礼は仕事に誠実かと問われれば肯定も否定もできない。俺の仕事に対して、牟礼が誠実に対応してくれているとは思わないが、牟礼が受け持っている仕事については誠実に対応しているとは思う。遅延の一つも出さず業務時間内に終わらせられるのは、真面目に取り組んでいるからというだけでなく、自己管理能力も高いと言える。
ただ、他人に手を貸すとか協力するという気が一切ないのは、仕事をする上で周りとの軋轢を生む原因になるだろう。
まず元々の部署であるIT部門の同僚からは批判的な言葉が投げかけられている。編集部に出向している間はいいが、戻ることになった時に虐めの対象にならないかと心配になるほどだ。
俺が苛ついているのは、恐らくそういう軋轢が生まれることに無頓着なところだろう。もっと周りと円滑なコミュニケーションを取った方が、仕事をする上で快適な環境になるのに、あえてしないようにしているようにさえ思える。
俺が何か頼みごとをしたくても聞く耳も持たない。せめて拒否するにしろ話を最後まで聞くべきだろう。たった定時に一分過ぎていたくらいのことで、退社を優先するのは人間関係を良くする気がないと言っているようなものだ。
余計なことを考えてしまった。こめかみの辺りを押さえて深く溜息を吐き、スマホを手に取った。
「酒井先生、こんばんは。お世話になっております、岸です。進捗の方どうでしょうか」
「ご、ごめんなさい……!」
この謝罪の後に続くのは、更なる締切延長の依頼だが、今回は少し事情が違った。
「原稿完成したんですけど、データが重いのか回線が混雑しているのか……アップロードに時間が掛かっちゃって……まだメール送れてなくてすみません……!」
「いえいえ、全然問題ないです。ありがとうございます。きっと三十分後くらいですよね。お待ちしております」
二十一時くらいだと多くの家庭がインターネットを使用する時間帯でもある。集合住宅の回線が混雑することくらいよく起こる。しかし、酒井先生は夜型なので深夜での作業が多いし、今まで日付を跨いだ時間帯――早朝のこともある――にデータを送信することが一般的だったから、一度も回線速度が低下して送れないということがなかったのだろう。
「確認したらこちらからも一報入れますね」
「はい、お願いします」
と、電話の向こう側で何か話し声がする。
「岸さん、お疲れっす。渋谷ですー」
「ご、ごめんなさい、変わります」と酒井先生の焦ったような声がフェードアウトすると同時に明るい声の男性の声が聴こえてきた。
「あぁ、渋谷君お疲れ様」
渋谷君は酒井先生のただ一人のアシスタントだ。というか、新人で初連載、まだ単行本も出ていない酒井先生がアシスタントを雇えるほどの稿料はうちの出版社からは出ていないので、ほとんどボランティアに近いと思われる。
他の漫画家のアシスタントを兼ねつつ酒井先生が苦手な機械や人工物等の背景を担当してくれている。仕事が早く、頭の回転が速いので、酒井先生の思考を先回りして背景やアイテム素材を作っておいてくれ、本当に助かっている。
酒井先生とは美術大学で出会ったのだそうだ。性格が大人しく輪に入るのが苦手で孤立していた酒井先生を見かねて声を掛けたらしい。
渋谷君が言うには、酒井先生は入学した同級生の中で抜きんでて実力とセンスがあって、教授等からも一目置かれていたので、彼女のコミュニケーション能力だけの問題ではなく、やっかみだろうという。そういう渋谷君も彼女の才能に打ちのめされて、しかし同時に惚れ込んで、必ず世に出してやるとサポートし続けてきた。
同人誌を出すことやコミファンで文夏社の出張編集部に持ち込むように勧めたのも彼だ。つまり渋谷君が居なければ、酒井先生が俺と出会うことも文夏社で作品を発表することもなかったのだ。
この業界は実力があっても積極的に動かないとタイミングを逃すことがある。運の要素もかなりあるから、酒井先生ほどの力のある作家も機会を逸し続ければ世に出ないままになることも十分ありえるのだ。
「井坂、今回かなり頑張ったんで期待してください。俺もスゲー頑張ったけどさ」
最終回は二人でバイクに乗って旅に出て、海に辿り着くシーンがあった。今回酒井先生は二人に合う色々な海の資料を探していたし、バイクも詳しくないので安くて二人乗りが出来るものを調べるのに時間が掛かった。渋谷君は今回特にバイクや車などをたくさん描いたことだろう。
「渋谷君もお疲れ様。酒井先生の初連載作品の最終話、俺もとても楽しみにしてるよ。酒井先生にそう伝えてくれないか」
「スピーカーになってるから大丈夫っす。絶対岸さん泣かせるって井坂も言ってます」
「い、言ってないよっ……!」
二人の漫才のようなやり取りに笑みを溢しながら、「ではまた連絡しますね」と電話を切った。
スリープ状態になっていたノートPCを立ち上げ、メールボックスとクラウドサーバーを交互に更新して届くのを待つ。
後続の作業を進めたいというより、早く読みたいという気持ちが大きい。ネーム、下書き段階では内容を確認しているものの、酒井先生は仕上げの処理で深みが増すタイプなので初見との印象はかなり異なってくる。
クラウドサーバーの画面更新をして何度目かに、「酒井あるひ‐最果ての彼ら‐第五話」というデータがアップロードされていた。俺はすぐにダウンロードボタンを押し、メールボックスで受信を繰り返す。と、データアップロードを伝える自動メールと酒井先生から「アップロード完了しました。ご確認お願いします」とメールが届いていた。
ダウンロードが完了し、原稿を開く。
「最果ての彼ら」は、因習に縛られた田舎の村で育った主人公と幼馴染の二人の物語だ。
第一話では思春期を迎えて互いの気持ちの変化に気付くが、父親が他界したことで片方は母方の祖父母が住む都会へ引っ越してしまうところから始まる。
高校三年の夏、同性愛者であることを母に打ち明けたことで、一人かつての田舎の村に戻され、同性愛者への嫌悪感を隠さない高校の教師でもある叔父が一人で住む家に預けられることになり、幼馴染と再会する場面が描かれる。
第二話では二人の数年の間にできた距離のせいかぎこちない関係になっており、昔はよく笑っていた幼馴染が、俯いてばかりで笑顔を見せない姿に違和感を覚える。そして学校で「オカマ」と罵られ酷い虐めに遭う幼馴染の姿が描写される。
陰鬱とした雰囲気が漂う中、第三話では幼馴染とは違って新しい友人もでき、学校に馴染み始める主人公だったが、ただ幼馴染と友人だと知られると虐めの対象になることを恐れて避けるようになった。しかし、何が原因で同性愛者だと知られたのか疑問を持ち始める。
第四話で、その謎が明かされる。幼馴染が高校入学して間もなく主人公の叔父にかつて性的虐待を受けたと告発したというのだ。叔父は同性愛に嫌悪感を抱いているので断じてないし、幼馴染が自分を気に入らないので嘘を吐いたと言い出す。
そして、同性愛者なのは幼馴染の方で、言い寄られて困っていたがはっきりと拒絶したことで逆恨みされた、と。そのことを知った主人公は幼馴染の家を訪ねる。そして、バイクで旅に出ようと持ち掛ける。
第五話はその二人の短く切ない逃避行とその結末を描いた話だ。言葉もほとんど交わすことなく田舎の山村から都会へ出て、海を目指した。かつて村を出たことのない幼馴染が、海を見てみたいと言っていたことを思い出したのだ。
バイクを停めて砂浜へ下りて行く二人。見開きで美しい夕空と海が広がる。主人公はひた隠してきた幼馴染への想いを告白する。主人公の姿形は描かれず、幼馴染の顔と主人公のセリフだけが描かれる。
顔をくしゃくしゃにして泣き出す幼馴染、抱き寄せる主人公の腕、背中に腕を回す幼馴染が、コマ送りの無声映画のように描かれ、夕陽の沈む海で抱き合う二人の姿。
新学期が始まって、主人公は幼馴染と付き合っていることをクラスメイトに告白し、二人とも虐めの対象になるが、主人公が大暴れしたことで沈静化し、幼馴染には「辛かったらバックレたらいい」と何かあると二人で学校を離れて過ごすように。
叔父には「俺は真実を知っても祖父母に報告はしない」と脅しを掛けてほぼ関わらないまま高校を卒業。桜の中で主人公に笑い掛ける幼馴染の姿が描かれ、場面転換する。
都会の工場で溶接工として働く主人公。厳しく指導されてくたくたになって小さなボロアパートに帰ってくる。「ただいま」と声を掛けると「おかえり」と迎える幼馴染。準備してあった夕食を六畳一間の狭い部屋で食べ、幼馴染が働く学童保育所の話を聞く。そして一人用の布団に身体を寄せ合い愛し合う二人。
ぽろぽろと涙を溢す幼馴染を抱き寄せて「おやすみ、また明日」と目を瞑り物語は幕を閉じる。主人公たちが過ごしていた山奥の村が「最果て」ではなく、ただ二人が二人として生きていくことが許される小さな部屋が「最果て」だったのだ。
しばらく呆然として、目尻に涙が滲んでいることに気付かなかった。ストーリーだけでなく、台詞回し、表情やコマ割り、小さな動作一つ取っても全て繊細で美しく、感情を突き動かされた。
受け取ったという一報を入れることになっていたのに、簡単なデータ確認だけでなく熟読してしまっていた。慌ててメールで返信する。受け取ったことと「今度またお会いした時に改めてお話しさせて頂きますが」と前置きして簡単に感想を書いて送った。「泣きました」という言葉も添えて。
恐らく昨日からほとんど眠らないまま作業していたと思うので、すぐに返事は来ないだろうと再度誤字脱字チェックなどをした後、印刷所に原稿を回し、印刷用データが完成して送られてくるまで待つ。
印刷所の方が今日の営業を終えていれば明日の午前中の到着になるが、受領と印刷所側のデータチェック完了の連絡が来れば、まだ電車が動いている今のうちに印刷所に直行して刷り上がりの原稿の確認までできる。
それら全てに問題がなければ、データを牟礼に渡して電子配信用のデータに変換してもらい、あとは配信と雑誌刊行を待つのみとなる。
引き上げた後だったかと諦めて帰ろうとした時、印刷所から電話がありデータチェック完了して試し刷りをする連絡が入った。メールも送られていたが、電話の方が気付くだろうと気を回してくれていた。
俺はこの後刷り上がりの確認に伺う連絡をして荷物をまとめて会社を後にすると、その足で駅に向かい、電車で印刷所へと急いだ。
印刷所に着いたのは翌日に日付が変わってからだった。刷り上がった紙の原稿を細かくチェックする。ここで誤字脱字、文字や大事な絵の一部が見切れていないかなどを改めて見る。
データの状態だと気にならなかったところが、ここで見えてくることもあるから、十二分に注意を払う必要がある作業だ。印刷所の担当者から、ここは切れてもいいのかなど確認が入ることもある。
今回は何も問題が無かったので、全ての原稿が揃ったので、夜の間に印刷機を回してもらえることになった。明日中には雑誌が完成することになる。
印刷所を出た時、時刻は深夜の二時四十分。始発まで時間を潰すことも考えたが、一二時間でも寝られるなら寝た方が良いし、風呂に入って服も着替えてルーティンのランニングも熟したい。
結局タクシーで自宅に戻って、汗だけ軽く流して六時にタイマーをセットし、ベッドに横になった。そして一分と経たないうちに眠りに落ちた。
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