5 / 13
第一話 イライラの元凶②
けたたましく鳴るアラームの音に起こされたが、思ったより目覚めはすっきりしていた。昨日仮眠しておいたおかげもあるだろう。ベッドから降りコップ一杯の水を飲んでジャージに着替えて家を出る。
まだ太陽が昇っていないので薄暗く、風の冷たさに冬の訪れを感じる。マンションの近くの公園を目指して走り、外周を一周してから帰る。これで大体三十分くらいだ。
自宅に着くと今日は昨夜ほとんど汗を流しただけだったので、身体と頭髪をしっかりめに洗う。
編集部の人間は臭いと思っていた云年前の前の会社の編集部ならもとより、文夏社ではBL編集部ということもあり女性作家と接する機会が多いこともあるので、清潔感については以前よりも気を付けるようになった。今のところ男臭いとか臭いの苦情は来ていないから大丈夫だろうが。
髭を剃り、歯を磨き服を着替えて、出来合いの朝食も買っていなかったので作ることにする。
冷凍してあったトーストとブロッコリーを縦に半分に切ったものを温め、トーストの上に食べやすく切ったベーコンとブロッコリー、チーズを乗せてオーブンで焼く。これとコーヒー一杯が今日の朝食だ。
朝のニュース番組を点けると、もうすぐ一般企業のボーナス支給日だからか、ボーナスの使い道をインタビューしていた。大半が「貯金」で、俺も莉里花へのクリスマスプレゼントを買う以外は貯金に回るだろう。
と、五十代の管理職の男性が会社の忘年会があるから、いつも半分くらい払っているので忘年会費に使う、と答えていた。
文夏社も、この第五号刊行の打ち上げと忘年会を兼ねて開催することになっていたことを思い出した。それもすっかり忘れていたが明日だ。日程が決まった時に、「最終の最終の締め切りまでいくと参加できないな」と守谷編集長が笑っていたが、そうならずに済んでよかったと心から思う。
酒井先生と渋谷君の尽力のおかげだ。
朝食を取り、洗い物は食器洗い乾燥機と洗濯乾燥機という文明の利器に頼って、家を出る。会社に向かう間、昨夜読んだ酒井先生の最終話について反芻していた。
やはり彼女は特別な才を持っていたし、俺がその才を輝かせるための助力をすることができたことは正しく幸運だった。拾ってもらったマリサ社長にも感謝をしなければ。
出社すると編集長が一番乗りで、俺は二番手だった。
「編集長、酒井先生の作品ですが、無事印刷所まで回すことができました」
荷物を置いてから、印刷所から受け取った刷り上がりの原稿を提出する。
「メールを先程確認したよ。お疲れ様。刷り上がりも私の方で確認しておこう」
「お願いします」
一礼してから自分の席に戻ると、冴木さんが出社してくる。大体の人は次の連載作のネタ作り、継続連載が決まっている作家さんにはや次話のネーム作成に進んでいる人も居るが、打ち合わせをすることが多いので、各人のスケジュールを確認すると出社時間はバラバラだ。
そして九時の始業時間が迫った頃、牟礼が出社してきた。そしてノートPCを立ち上げると同時にベルが鳴る。本当に九時~十七時半の勤務時間をしっかり守っているなと思う。
俺は席を立ち、牟礼の席に向かった。
「牟礼、酒井先生の原稿どうにか間に合ったから電子配信のための作業お願いできるか?」
声を掛けても俺の顔を見ることもなく、視線はPC画面に向けられたままだ。長い前髪のせいで実際の視線までははっきりわからないが、少なくとも顔は俺の方を向いてはいない。
「……メールで同じ内容を貰っているので、わざわざ言いに来なくて大丈夫です」
「は?」
メールは送った。業務上当たり前だ。しかし、メールを読むのが遅くなることもあるし、他のメールに埋もれて気付かないことはある。だから、今回今日中に仕上げてもらう必要があるから、始業直後に直接声を掛けたのだ。
だのに、「メールを貰っているからわざわざ言いに来るな」という迷惑だとでも言うような言い方をされるとは思わず、「は?」と明らかに苛立ちを含んだ声が出てしまった。
「そういう言い方はないだろ。前から思ってたが、俺に対してだけやたらと当たり強くないか?」
他の社員に対しては、もう少し柔らかい言い方をしている気がしている。前に中河が十分にデータチェック前の修正ができていないデータを渡してしまった時、中河が土下座する勢いで平身低頭謝っていたこともあるが、特に小言も言われず「分かりました」とだけ答えて、正しいデータで作業をやり直していた。
「これ以上遅延したら困るから、念押しをしたかっただけだろ」
「……だから、それが不要だと言ったんです。メールで済むことはメールで全て完結させてください。時間の無駄なので」
この苛立ちは睡眠不足のせいだ、と思い込むことで怒りを鎮めた。それに、牟礼の隣で冴木さんが心配そうに俺と牟礼を交互に見ていたので、これ以上は冴木さんに余計な心労を与えることになるだけだ。ここは牟礼より年上である俺が大人になるべきだろう。
「分かった。今後はそうするよ」
そう言って自席に戻り、小さく溜息を吐いた。
深夜から今朝までの間に届いたメールがないかメールボックスを開く。印刷所からの業務連絡ぐらいで特にはない。
酒井先生は徹夜明けは十二時間くらい余裕で眠ってしまうから、まだ俺からのメールを確認してはいないだろう。一応印刷所まで無事に回してある旨をメールしておく。
あとは、俺のもう一人の担当作家「多奈牡丹」先生の進捗確認を入れておく。既に次々号の原稿の仕上げの段階まで進んでいるので、進捗については一切心配していないが、コミュニケーションを取っておくのは大切だ。
多奈先生はメールよりも電話で話す方が好きなので、そして作業時間も規則正しく九時~十八時と決めているので、その時間内であれば問題ない。早速先生の仕事用の携帯に電話を掛ける。
「はい、多奈です」
「岸です、おはようございます」
明るい声が電話口から聞こえてくる。それだけで、進捗に問題ないことが十分伝わってくる。
「次々号の第六話の仕上げの作業中だと思うのですが、進捗どうでしょうか?」
「ええ、今日にはもう終わっちゃいそうです。今はアシさんにお任せしてるので、次々々号かな? 私の方は第七話のネタ考えてる段階です」
業界では十五年ほどの中堅である多奈先生は筆が早く、ネームを三日で仕上げてくる。他社でも月刊の連載も同時に持っているのだが、そちらと並行してもこの速さなので毎回驚かされる。
アシスタントも固定で二名、巻頭カラーやグッズのための描き下ろしなどカラーイラストの原稿や単行本化での描き下ろしや修正作業が入ってくる場合、変動で一名増えることもあるが、基本的に自宅兼作業場にアシスタント二名といつも和気藹々と作業している。
先生は最近では少しずつ減ってきたアナログ原稿の作家さんなのだ。
「あ、それで岸さんに聞きたかったんですよ! 第七話は『清爽』のデート回になるじゃないですか? 普通にショッピングデートかな? とか考えたんですけど、いや最近の高校生のデートの定番って違うんじゃって思って」
「清爽」とは多奈先生の連載作「オレは好きって言ってない‼」の主人公で受けの爽一郎と攻めの清太のカップリング名だ。自作のキャラにあだ名を付けたりする先生は居るが、このカップリング名で呼ぶというのはBL雑誌の編集になってからの経験だった。
「私なんて二十年前なので十年前まで高校生だった岸さんの方が参考になるかなーと。男子だし意見聞かせてもらえません?」
「そうですねえ……十年前のことなんで、現役高校生とはだいぶ違うと思うんですが」
つい他にも参考意見を聞ける人はいないかと辺りを見回してしまう。と、視界の端に牟礼の背中が見える。そういえば、牟礼は高専の男子校出身だったはずだ。
清爽も男子校の高校生だし、何よりまだ二十か二十一歳じゃなかったか? 俺よりも記憶も新しいし――などと考えたが、牟礼に恋人がいたことはあるのだろうか、と思い至る。
恋人の一人もいたことがない、などと蔑むような話ではなく、そもそも恋人の有無や経験人数など下世話なことを競い合う男性社会特有のマウントが昔から嫌いな性質なわけだが、男子校だと恋人を作り辛い環境だし、牟礼の性格的に「恋人なんて煩わしい。時間の無駄」とか言い出しそうでさえある。
だからデートでどこに行くのか参考に聞いたところで――いや、まず俺が尋ねたら「そんな話聞いてどうするんですか? 僕と漫画の登場人物は違うと思います」とか言われるだけだ。
「どうかしました?」
「あ、いえ、ちょっと高校時代を思い返してて、すみません」
また余計なことを考えてしまっていた。直前に牟礼に悪態をつかれたので――通常営業なので本人にはそのつもりはないだろうが――、その影響は大いにあるだろう。
「まず爽一郎って何に興味あるんでしょうか? 俺が清太の立場だったら、今人気の場所に行くより、相手が喜びそうな場所をデートに選ぶと思います」
「うーん、言われてみれば確かに!」
「オレは好きって言ってない‼」はクラスメイトの清太に片想いをしている爽一郎が、ある日突然清太に「昨日の告白のことだけど、考えさせてくれないか」と言われて大混乱。清太によると、昨夜コンビニに向かう道中で爽一郎に声を掛けられて、告白されたというのだ。
そこでタイトルの台詞を吐く爽一郎だったが、記憶にはないものの清太が夢に出てきたことを思い出した。それから毎晩爽一郎が寝ている間に爽一郎?は清太の家を尋ねては、愛の告白をしていくようになる。実は想いを募らせたあまり、爽一郎は夢遊病となって清太に会いに行っていたのだ。
しかし、夢遊病の状態で清太に会いに行って帰り道に事故に遭い掛けたことで、心配した清太が爽一郎と付き合うことを決めて、爽一郎の夢遊病は治った。
というのが、五話までの内容だ。六話は恋人になった二人だったが、結局清太の同情で付き合ってくれてると爽一郎が思って、男同士で付き合ってるとか変に思われるし、自分とは学校ではあんまり関わらないで欲しいと言い出し、清太が「じゃあ学校の外ならいいの?」とデートを提案する。
清太は爽一郎のことをまだ好きだとははっきり認識していないものの意識し始めており、爽一郎の気持ちに誠実に寄り添おうとしている。そんな清太が爽一郎の意見を無視したような場所に連れて行くだろうか? それも爽一郎が男同士で付き合っていることを知られたくない――と清太は勘違いしている――のに、だ。
「爽一郎は清太が自分と居るところを同級生に見られるかもしれない場所は嫌がりそうですよね。そうすると、逆に男子高校生があまり行かない場所で、爽一郎が喜びそうな場所を清太は選ぶんじゃないでしょうか」
「あ! 爽一郎って恐竜が好きで、将来は古生物学者になるのが夢って設定があるんですよ! 部屋にさりげなく恐竜関係の小物描いてるんですけど、気付きました?」
「ああ、俺も気になってたんですよね。男子高校生の部屋にしてはちょっと子供っぽい性格なのかなって。そういうことだったんですね! じゃ、そうなると博物館デートなんていいかもしれないですね。男子高校生はあまり行かなそうじゃないですか」
「いいかも! 普段清太の前では緊張して話せない爽一郎も好きな物の話ならできるし! 清太が新しい爽一郎の一面にときめいたり、距離が近くなってドキッとするシーンとかいいですよねぇ」
電話口でメモを取っているのか「ちょっと待ってくださいね」と多奈先生が断りを入れる。
「うん、ちょっと描きたいことまとまってきたんでネーム描き出しちゃいますね!」
「はい、宜しくお願いします。博物館デート回楽しみにしてますね!」
多奈先生が「二、三日したらネーム送ります」と言って電話を切った。こうして多奈先生は何気ない会話の中でネタを作ることが多いので、電話で仕事と関係ない話をしたりもする。俺の少しの提案でスムーズに進行するので、彼女自身の引き出しが多いのだろう。
それに多奈先生の漫画はラブコメを得意としていることもあって、緩急のテンポがよく、台詞ひとつとってもキャラクターが生き生きとしている。ネームの段階で完成度が高いので、ほとんど直してもらうことはない。
俺がやっていることはこのたまのネタ提供と必要な資料があれば集めること、コミュニケーションと労いのために時々自宅を訪ねて多奈先生とアシスタントさんが喜ぶ流行りのスイーツを差し入れることくらいだ。
今まで原稿を落としたことがないというから、業界にとって本当に有難い先生だ。多奈先生の優良進行のおかげで、俺が新人の酒井先生の方に気を回せるのもある。
「岸君」
と、守谷編集長から声が掛り、「はい」と返事をして席を立つ。
「酒井先生の最終話、素晴らしい出来だった。一応この後他の漫画編集部と合同の会議に掛けることになるだろうが、単行本化を提案するよ」
「本当ですか!」
多奈先生は十話完結の連載作ということもあり、完結後に上下巻同時発売を考えている。他の脱稿済みの先生方は既に作家としての実績があるので単行本化は決まっている状態だった。
しかし、酒井先生は新人で、売上を期待できない場合は単行本化しない可能性も十分あり得たのだ。
「申し訳ないが、初版部数は抑えめになるだろう。ただ売上次第では重版も検討するから、酒井先生には描き下ろしや表紙イラストに力を入れて貰いたい」
「はい! 正式に単行本化が決まったら伝えておきます」
一礼した後、自席に戻ってから再び編集長を振り返って、
「多分、いえ百パーセント重版されると思いますよ。酒井先生はカラーも素晴らしいので」
と言うと、「随分な自信だな」と編集長は笑った。
自信があるのだ。酒井先生の同人誌の表紙を見た時、その実力の高さに驚いたことを思い出す。美術大学の日本画科出身である彼女の強みだ。書店に平積みされた時、彼女の本はひと際目を引くはずだ。
単行本作業がこの後入ってくるとなると、酒井先生には新作のネタ作りよりも、単行本作業に集中してもらった方がいいだろう。
単行本作業とひとくちに言っても、人によって描き下ろしの分量も発売時の展開の仕方によっては各書店への特典や宣伝用ポップのための描き下ろしなども必要になる。
酒井先生の場合は書店特典よりも単行本の描き下ろしがネックになる可能性が高い。また作業コストの高いカラーイラストはデザイナーが入るうえ、書影を出すために早めに上げて貰わなければならない。
来週からのスケジュールを一旦書き出して、考えられる締切を設定していく。まだ正式決定したわけではないが、編集長の意見が通らなかったことはないからほぼ確定と見ていい。描き下ろしは大体二十ページ前後を想定する。
書き出したスケジュールを見て頭を抱えそうになった。恐らく発売日は次号が発売して約三ヶ月後だろう。印刷、校正、デザイン、表紙イラスト作成など逆算して計算すると、酒井先生には約三週間で最低でもカラーイラストと描き下ろし漫画の作成を熟してもらわなければならない。
今でもこれだけ四苦八苦しているというのに、これだけの作業を三週間など可能なのか。いや、やってもらうしかないのだが。
決定次第、スケジュールも一緒に共有してこの状況を理解してもらうしか無い。きっと今回以上に苦しい作業になるだろうが、初単行本発売の喜びで筆が進むことを祈る。
午前中は溜まっていた領収書なんかの雑務を熟し、途中出社してきた岸班メンバーの中河や十文字さんと昼食を取りに行ったり、午後は会議で即効正式決定した単行本化について酒井先生に報告したりした。
酒井先生は電話口で涙ぐんで会話が出来なくなったので、渋谷君が対応してくれた。「スケジュールは俺が血反吐吐いても守らせるんで大丈夫っす」と早速スパルタ宣言していたが。
一応編集長から本編に濡れ場が少ないため、描き下ろしに入れて欲しいという提案があったことも話した。連載を追ってきた読者の立場で考えると、その後の二人の幸せな生活をたくさん見たいと思うだろうと俺も同意を示しておいた。
あとで落ち着いたらしい酒井先生からメールで「描き下ろし何ページまで増やせるとかあるでしょうか? 二十ページで描きたい内容が収まりそうにないので、お教え頂けると幸いです」と返ってきた。酒井先生がいつも以上に本気になっていると感じられ嬉しかった。
一応三十ページまでは増やせる予定であることを伝える。しかし、そんなページ数を描けるとは思えず、「無理をしないようにしてください」と添えておいた。
あとは単行本化に向けて売り出し方を含めたキャッチコピーを考え、作品の雰囲気に合ったデザイナーの選定を行い、印刷所に単行本発刊のための仮スケジュールを提示した。
そうこうしているうちに定時のチャイムが鳴る。その音でようやく思い出したのが、電子配信のデータだ。作成を頼んでいたが、任せっきりで結局終わったのか聞いていなかった。
ふと見ると牟礼が早々と退社しており、編集部のドアを開けて廊下に出ようとしている姿が見えた。まずい、もし終わっていなかったらまたIT部門に頭を下げないといけなくなる、そう思って慌てて後を追った。
「牟礼! ちょっと待ってくれ!」
廊下に出るとちょうどエレベーターに乗り込もうとしているところだった。声を掛けても歩みを止めないので、俺は咄嗟に牟礼の肩を掴んだ。
「引き止めて悪い。電子配信のデータの件で――」
牟礼の背後で無人のエレベーターのドアが静かに閉まり、下の階に降りて行く。俺が言葉を途中で切ったのは、突然のことに混乱したからだ。
牟礼の両耳から白いコードが伸びてスマホに刺さっている。音楽を聴いていて俺の呼び止める声は聞こえなかったのだろう。だから突然肩を掴まれて驚いて、振り返ったのだ。
この時初めて俺は、牟礼と目が合った。そして心臓が鷲掴みにされたような感覚を、初めて味わった。
乱れた前髪から覗く牟礼の大きな瞳は、俺の姿をその明るい茶の虹彩に映し煌めいている。そして、牟礼の顔はみるみるうちに熟した林檎のように真っ赤に染まっていった。
「……離して、ください……」
すぐに顔を背け、口を引き結び前髪を引っ張りながら俯いた。しかし、そんなことをしても隠しようがない。牟礼の透き通るような白い肌は耳や首までピンクに染まっていく。
「あ、あぁ悪い……」
牟礼の肩が微かに震えていることに気付いて、俺は慌てて手を離した。と、牟礼は次のエレベーターを待たずに、すぐ脇にある階段を駆け下りていった。
俺はしばらくの間、牟礼が去っていった階段の方を呆然と見詰めていた。何が起きたのか、俺には理解できなかった。
牟礼は俺のことが嫌いなのだろうと思っていた。明らかに俺と他の社員とでは接し方が違っていたし――特に仕事上関わりの深い冴木さんからはコンビニのスイーツをもらって一緒に食べている姿を見たことがあるから親しいのだろう――、俺とは極力関わりたくないというスタンスを取っていた。好き嫌いで仕事はできないから、嫌われていても関わらないわけにはいかない。
今回も、牟礼に配信データの作業報告を聞いていなかったから、強引に呼び止めることになってしまったが、悪気はなかった。
しかし、それは俺の一方的な思い込みだったのかもしれない。驚愕の引き攣った顔が赤く染まっていくとともに変化していった。牟礼の表情は、溢れ出る感情を必死に抑えるような、堪えているような――少なくとも嫌悪している人間に向けるものではなかった。
俺は呆けたまま踵を返し、編集部に戻った。
「何かあったんですか?」
自席に戻ると不穏な空気を感じたのか中河に声を掛けられて、ようやく正気に戻る。そうだ、電子配信用のデータはどうなったのか結局聞けなかった。
「いや、牟礼に酒井先生の電子配信の方がどうなったか聞きたかったんだけどな」
「また帰られちゃったんですね」
「あー……まあ」
どっちつかずの返事に不思議そうな顔で俺を見る。はっきり「そうだ」と言い切るべきだったかもしれない。が、今俺の頭の中にある疑問を言葉にしてみたくなった。
「……あいつ、俺のこと『好き』ってことはないか?」
「はい……?」
目を丸くして首を傾げる中河に「何でもない」と返して、PCのメールボックスを確認する。と、三十分前に牟礼から「酒井あるひ先生の電子配信の前準備完了しました。IT部門への連携済みです」という業務連絡が来ていることに気付いた。
メールで完結できることはメールで、と今朝言われたばかりだったのに、早速破ってしまった。それと引き換えに、俺は牟礼の見たこともない表情を見ることになったのだが、恐らく今までの俺に対する牟礼の悪態は「牽制」で、想定される事故とも言えるこの事態を避けるためだったのだろうと、今になって分かるのだった。
その日の仕事を終えて帰宅する道のり、コンビニに寄って今日の夕食と明日の朝食のサンドイッチを選ぶ時、BGM代わりのテレビを点けて夕食を食べる間、頭から熱いシャワーを浴びて一日をリセットする時間、ベッドに横になって目を瞑る瞬間も、牟礼のあの表情が俺の脳裏にこびりついて離れなかった。
本人に「あの時の赤面の意味って何?」なんて問い詰めるほど俺は無神経ではない。しかし、それ以外でどうやって確かめたらいいか分からない。
――何も見なかったことにして、気にしないで今まで通り仕事をすればいいのでは?
それが一番穏便で平和で角が立たない。同僚という立場で、わざわざパーソナルな部分に突っ込んで人間関係を複雑にして、働きづらい環境にするリスクを取る選択はすべきではない。
いや、そうなのだが、全くその通りだが――見なかったことになどできるか? あんな表情を、眼差しを、忘れられるか?
近いものは今までにも経験はあった。俺の恋人だった女性達から告白された時の表情が、一番近かった。しかし、そのどれとも違うのは、今も俺の心を掴んで離さないということ。瞼を閉じても思い浮かぶ。思い出してしまう。感じたことのない、高揚感を。
きっと俺は知らぬうちに牟礼を侮っていた。仕事に対してプライドとか責任感とか、そういうものが感じられなかった。だから、牟礼があの胸の奥にあんな熱情を隠しているとは考えもしなかった。
あの線香花火のような静かに燃える火のような熱情に触れてみたい――火傷をしても、痛みを伴っても、俺にあの眩い火を灯して欲しい。そう思ってしまう。そんな感覚を、俺は知らない。
ともだちにシェアしよう!

