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第一話 イライラの元凶③

 目が覚める。アラームが鳴る前だった。  身体を起こし、水を一杯飲んで服を着替えてランニングに出掛ける。戻ってきてシャワーを浴びてスーツに着替えて、洗濯乾燥機を回し、テレビのニュースを見ながら朝食を取る。いつものルーティンを熟して会社に向かった。しかし、頭に靄がかかったようにすっきりしないまま、先に来ていた冴木さんに挨拶して自席に座る。  今日は夜から忘年会だからなのか、定時出社してくる社員が多かった。今は次々号のネームや下書き、単行本作業などの段階で、編集側の仕事は落ち着いている。こういう時には溜まっている雑務を一気に片付けるに限る。  始業のチャイムが鳴って、思わず振り返っていた。いつもこのタイミングでパソコンを起動させている男の背中を探して。  しかし、そこには探していた彼の姿はなかった。 「冴木さん、今日牟礼は……?」  思わず立ち上がって、隣の席の冴木さんに声を掛けた。 「牟礼君は今日は休みですよ」  昨日のことが脳裏を過る。肩を震わせて、逃げるように階段を駆け下りていくその背中を。 「何か……体調不良とかですか?」 「いえ、予定休です。三週間前から入ってたと思うんですけど……何かありました?」 「いや気になっただけで。ありがとうございます」  自席に戻り、思わず安堵の溜息を吐く。俺のせいで休んだんじゃなくてよかった。  と、同時に、もしや忘年会に参加したくないがために、この休暇を取ったんじゃないだろうな? という疑念が浮かんだ。牟礼ならやりかねない。  午前中は残っていた雑務を処理し、午後は酒井先生から早速単行本の表紙イラストのラフが四案も届いた。通話しながら方向性を決めることになり、脇机に移って作業通話をする。  本編の大半が陰鬱とした空気に包まれているので、表紙は切ない雰囲気は残しつつ二人の結びつきを強く感じるものがいいのではないか、と俺の意見を述べた。  四案のうちでラストシーンを彷彿とさせる見詰め合い寄り添う二人をブラッシュアップするかたちで、感動的な海のシーンも思い出すように、またメインが男子高校生のストーリーだと印象付けるためにも、シャツとスラックスの学生服姿の二人に変えてもらうことになった。  すると酒井先生の案で、夕陽に照らされオレンジに色付いた海辺で横たわる幻想的な二人のカラーラフを目の前で描いてみせる。波の表現や濡れた服の透け感、夕陽の光源を意識するなど作画コストが高いものではあるが、酒井先生の作品の儚く美しい世界観と繊細な色彩表現を生かすにはこれ以上ない構図だと思えた。  酒井先生の熱意もあり、そのイラストを表紙にすることで決まった。一旦担当デザイナーにそのカラーラフを送り、仮のデザイン案の作成をお願いした。デザインの作業を先に進めておけば、少しだけ酒井先生の作業時間が増やせる。  来年一月発刊の六号についての編集者全員を集めた会議を行い、何度か読切で寄稿をお願いしている大御所の先生とコミファンで応募があり学業との兼ね合いで六号での掲載となった新人の先生には、七号以降で連載での参加を頂けないかの調整を行うことになった。  五号で完結となる作品が多いため、続いて新作を描き続ける状態まで持っていけている作家さんは多くはないと見ての判断だ。酒井先生には六号は休んで七号から描いてもらう予定だったが、もし七号に新作が間に合わなくても大丈夫な状態というのは、一つ安心材料だろう。  定時のチャイムと共にPCをシャットダウンして、荷物をまとめる。 「皆、準備できた人から『はるな』に向かってくれ」  編集長に促されるように編集部を出て、文夏社行きつけの「居酒屋はるな」に向かう。ちょうど文夏社と社宅の間にあり、社宅を使っている社員は普段からよく飲みに行っているらしい。和食中心の料理はどれも美味しいし、酒の種類も多く、特に日本酒は聞いたことのない珍しい銘柄もあるくらい豊富だ。  趣のある和の佇まいの店の前に見たことのある二人が立っている。上背があり明るい茶髪を一つに結んだ目立つ容姿の左文字悠斗先生とすらりとした痩せ型でメタルフレームの眼鏡が印象的な羽村晶先生だ。左文字先生は右近涼真先生原作で作画を担当しており、羽村先生は長期連載となる小説を寄稿して頂いている。 「あ、岸さんお疲れっす」 「お疲れ様です。左文字先生、羽村先生」  気さくに声を掛けてくれたのは左文字先生だ。以前俺が勤めていたドラゴンブレス編集部では、何度か読切を掲載させてもらっていたので面識がある。原作者と揉めて出禁になったと聞いた時は残念な想いをしたが、今こうして文夏社で仕事を拝見できているのは嬉しい出来事だった。 「右近先生は、ご一緒ではないんですか?」  俺の後ろから顔を覗かせたのは左文字先生達の担当編集である中河だ。 「やっぱり大勢が来るところは嫌だってさ。折角タダで飲み食いできるのに勿体ねえ」 「はは、作家さん達はお忙しいし、お酒が飲めなかったり、こういう集まりが苦手な人も多いですからお二人だけでも来て頂けて嬉しいです」  今回初めての忘年会ということもあるし、作家同士の交流を深めるという意味で作家さん達にも声を掛けたが、参加者が男性ばかりということもあり、女性作家さんは不参加、応じてくれたのはこの二人だけだった。今度これとは別にマリサ社長主催による女性作家さんの交流会を開くことになっているらしい。酒井先生も多奈先生も楽しみにしていると言っていた。 「お邪魔します」 「いらっしゃいませ。文夏社の皆さん、お待ちしておりました。小上がりの方へどうぞ」  藍染めの作務衣を着た精悍な顔立ちの店主に案内され、奥の小上がりに靴を脱いで進む。今日は貸し切りで予約をしているので、他の客を気にせず過ごせる。  次々と社員が入ってきて、それぞれが好きなテーブルにつく。全員詰めて座ってちょうどという広さだった。また席についた者から皆乾杯用の酒やソフトドリンクをオーダーしていく。お通しと飲み物が揃うと守谷編集長が立つ。 「皆手元に飲み物はあるか? すぐ飲みたいと思うから挨拶は簡単に。今年BL企画編集部が立ち上がり、創刊号から第五号発刊まで目途がついた。編集部の皆と作家先生方のご尽力に感謝している。今日はこれまでを労い、無礼講で楽しんでもらいたいと思う。それでは、BL企画編集部のさらなる発展と皆の健康を祈念して、乾杯!」 「乾杯!」  俺は並々と注がれたビールのグラスを周囲の人と合わせた後、半分くらいまで一気に飲んだ。ほんのりと喉を伝う苦みが堪らなく美味い。普段酒はあまり飲まないが好きではあるので、こうして仕事の後に飲む酒は格別だ。  運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、卓を囲んでいるメンバーと仕事の話や最近読んだ他社の面白い漫画や小説の話をする。小上がり以外のテーブル席に移って羽村先生と編集長、羽村先生の担当の眞栄さんと三人のグループもできている。   と、隣に座っていた中河が席を立ち、別卓に座っていた冴木さんが入れ替わりで座った。その時ようやく他のことに意識がいっていたのに、つい牟礼のことを思い出してしまい、思わず大きな溜息が毀れた。 「あっ俺座らない方がよかったです……⁉」 「いえいえ、そうじゃなくて! ……牟礼のことで」  どうするべきか一瞬迷ったが、酒が入っていたのもあったのだろう。俺は思わず口にしてしまった。一度口火を切ってしまったら、もう話さずにはいられない。 「牟礼君……? え! また何かありました⁉」 「何かあったというか……あったんですが」 「なに? 何の話?」  そこへちょうど空いていた向かいの席に左文字先生が、項垂れる俺を見て面白い話が聞けそうだと踏んだのか座る。 「何と言えばいいのか……牟礼って俺に対しての当たりが人一倍きついじゃないですか? だから嫌われてるんだろうとずっと思ってたんですけど」  「牟礼って誰?」と左文字先生が隣に座っていた中河や牟礼と同期入社で新人の高野に訊ね、「IT部門から出向で来てるおれの同期です。一応中途らしいですけど一個下っすね」と答えた。  帰国子女のためか性格なのか、ズバズバ言うタイプで牟礼と違う意味で最近の若い者感がある。色黒でくせ毛の少し眺めの髪だったからハーフなのかと最初は思っていた。 「……実は逆に『俺のこと好きなのでは?』と……」 「えっ……」  冴木さんが声を発した以外の言動もなく一瞬場が凍り付いたのかと思うほどだった。 「あーおれ分かるかも」  高野が何か思いつくことがあったのか、顎に手を添えて言う。 「おれも好きな人に意地悪したくなることあるし」 「牟礼君の場合は意地悪っていうか、避けてるような、寄せ付けないような感じだけど……」  あくまで一般論だった高野に、冴木さんが苦笑する。と、高野が「あ!」とまた何か思いついたように声を上げる。 「今度は何だ?」 「いや、牟礼ってそういえばよく岸さんのこと見てるなーって思って」  特に期待せずに聞き返したのだが、思いも寄らない言葉が返ってきて目を丸くする。 「自席でたまにぼーっとフロアを眺めてたら、牟礼が横目で岸さんの方ちらちら見てんすよ。何か用あんのかなーって思うけど話し掛けるとこ見たことないし。ちょっと不思議だったんすよね」  仕事に集中しろと思わなくもなかったが、高野のサボり癖なのか観察癖なのかのおかげで知れた事実ではあるし、今日は無礼講なので説教はやめておく。 「うーん、確かに言われてみれば休憩のタイミングとかそっちの方見てるかも……?」  隣の席の冴木さんも思い当たる節があるようだ。が、当の本人である俺はこの二人から話を聞くまで少しも気付かなかったのだが。しかし、鈍いと指摘されたことはないし、そもそも背中に向けられる視線に気付くのは至難の業だろう。 「え? 牟礼って人、女なの?」 「いや、男っす。ゲイかバイなんじゃないすか? おれもバイだし」  左文字先生の問いに、高野がさらっと爆弾発言を混ぜる。思わず口に運んでいた日本酒が鼻に入るところだった。 「今の時代普通でしょ。特にうちBLの漫画とか小説とか扱ってんすから、偏見良くないっすよ」  高野の正論に、ふいに胸がちくりと痛む。もし牟礼が女性で、昨日の反応をされていたら、俺は「この人は俺のことが好きなのだろう」と素直に受け取ったかもしれない。でも、そうじゃなかった。  俺はセクシュアリティに偏見が無い方だと思っていたし、酒井先生のアシスタントの渋谷君もゲイだと言っていた。カミングアウトされた後も意識することはないし、態度を変えるようなことも勿論ない。  しかし、好意が俺に向けられたことはなかったから、ただそれだけの話だったのかもしれない。そう思ったら、自己嫌悪に陥りそうになった。 「おれ、来週会ったら聞いてみましょうか? 岸さんのこと好きなのって」 「いや駄目! 絶対っ! 牟礼君ずっと隠してたんだろうし、会社来なくなっちゃうよ!」  冴木さんが慌てふためいて今まで聞いたことないほど声を張り上げて高野を制する。 「……でもこの状況……絶対牟礼が望んでなかった状況じゃないです……?」  俺はテーブルの上で両手を組んで俯く。考えれば考えるほど悪い方向に進んでいる気がする。俺に悪態をついて遠ざけていたのも、こうして露呈することを恐れていたかじゃないのか? 「てか、好きってことで確定なの? 時々見てたのだってめちゃくちゃ嫌いで睨んでただけかもしれねぇじゃん。そもそも何か『好きかも』って思うきっかけでもあったのか?」  何本目か分からないが熱燗を注文し、お猪口を片手に左文字先生が言う。  俺を見詰める牟礼の熱の籠った潤んだ瞳、赤く染まっていく白い肌、溢れ出す感情を必死に抑えるように噛んだ唇、震える肩――違う、絶対に、違う。 「……いや、気のせいでした。俺の思い込みでした。全部」  手元に残っていた日本酒を一気に飲み干す。高野が何か言いたげだったが、冴木さんが無言で首を振ってそれ以上の追撃を許さなかった。 「ま、おれは気にしないですよ。誰が誰を好きでも。社内恋愛禁止じゃないですし」  そう言うと「眞栄さんに構ってもらおっかな」と高野はレモンサワーを手に席を立ち、編集長たちのテーブルに向かった。 「しっかし、この飲みで恋バナ聞くとは思わなかったわ」 「はは……すみません」  左文字先生を白けさせてしまったかと思い、左文字先生の空になったお猪口に熱燗をなみなみと注ぐ。特に気にしていない様子で酒を口に運ぶのを見て、胸を撫で下ろす。 「いんじゃね? 恋愛してんのは、創作上の登場人物だけじゃねぇんだからさ」  そう言うと上機嫌に一気に飲み干した。瞬間、スイッチが切れたようにテーブルに倒れ込む。酒に弱いとは知らずに飲ませ過ぎてしまった。  ちょうどいい時間だったこともあり、左文字先生のダウンで忘年会はお開きとなった。俺は責任を持って先生を自宅までタクシーで送り届けてから帰宅した。  シャワーを浴び、ベッドに横になる。天井を見詰めながら、つい酒の勢いで話してしまったことを後悔した。  ――偏見。  高野のようにはっきりさっぱりした性格なら、渋谷君のように飄々とした性格なら、カミングアウトをすることに抵抗はないのかもしれない。  しかし、もし牟礼がバイやゲイだったとして、それを知られたくないと強く思っていたのだとしたら、俺は牟礼を傷付ける酷い仕打ちをしてしまったことになる。  震える肩は、引き結んだ唇は、こんなことを望んでなどいなかった。ただ心のうちに留めておきたかった。そう俺に伝えていたのに。  高野は他の社員に話すだろうか? いや、軽薄そうに見えて、そんな浅い人間ではないだろう。冴木さんもそうだ。左文字先生も。皆何も訊かなかったことにしてくれる。  明日が土曜でよかった。俺が頭を冷やすために、二日の猶予がある。その間に、俺がどうすべきなのか、どうしたいのか、牟礼のことをもっと真剣に考えよう。  眼を瞑ると酒のおかげですぐに眠りについたが、透き通った頬を上気させた裸の牟礼を抱き寄せる夢を見てしまい、日も明けない午前五時に飛び起きることになった。本当に、今日が土曜でよかった。

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