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第三話 都合のいい物語②
ようやく約束の土曜になり、いつもより早めにルーティンを熟し、クローゼットから服を選ぶ。アイボリーのクルーネックニットとグレーのテーパードパンツ、グレージュのチェスターコートという莉里花に以前褒められたことのある無難なコーディネートで家を出た。
が、集合時間の三十分も前に博物館に着いてしまい、俺が思う以上に浮かれている事実をまざまざと突き付けられるようで、少し恥ずかしくなる。とりあえず人のいないうちにと角度を変えて何枚か外観写真を撮った。今は常設展しかやっていないせいか、来館者は少ないようで助かる。
「あ、あの……岸さん」
と、声を掛けられて振り向くと、背中を丸めて小さくなった俯き加減の牟礼が立っていた。黒のマウンテンパーカーに黒のワイドパンツという格好で、いつもとそれほど変わらない服装だった。思い切りデート気分で来た自分と比べてしまってきまりが悪い。
「おはよう。早いな」
腕時計を見ると集合時間の二十分前で、時間丁度に来るものと思っていたから意外だった。
「……遅れるとよくないかと」
俺をちらっと一瞬見て、目を伏せる。顔が少し赤くなっている。もし牟礼が仕事と割り切っているなら、この時間に着こうとはしないだろう。そもそも今までならこの約束さえ初めから断られていたはずだ。
「少し早いが、入ろうか」
心臓がどくんと跳ね顔が熱くなるのを感じて、牟礼の先を歩いて入り口であらかじめ買っておいた二人分の電子チケットを見せて入館する。
「岸さん、お金――」
「俺が付き合わせてるんだから気にするな。俺の方が歳上だし、今日は払うよ」
申し訳なさそうに肩を落としてとぼとぼと後ろをついてくる。今までデートで金を出すのも、後輩に奢るのも当たり前という感覚で生きてきたが、牟礼は違うのだろうか。三回スイーツを渡したが、あれも気にしていたりするのだろうか。
情報番組で今の若者は男女平等の感覚が根強く、デートでも割り勘が当たり前と言っていたことを思い出した。奢るのはよくなかったかもしれない。
しかし、牟礼に余暇の貴重な時間を使わせているのだから、せめて金くらいは払わないと駄目だろうとも思うわけで。
「メインの恐竜コーナーは地下らしいが、折角だから他も見ていかないか?」
「はい……」
エントランスホールの写真を撮った後、相変わらず萎縮している牟礼の斜め前を歩く。最初に見えた展示コーナーの恐竜の標本をスマホで撮る。
「牟礼、悪いが大きさの比較のためにそこに立ってくれないか?」
牟礼は言われるまま恐竜の標本の方に立つが、写真に顔が写るのが嫌なのか標本の方を向く。漫画の資料としては、そういう絵になるだろうからいいのだろうが、俺としては牟礼の顔が写った写真の方が嬉しいのだが。
他にも動物の剥製やダイオウイカなど海洋生物、太陽系の模型や月の石なども撮る。そうして牟礼と時々感想を言いつつ展示コーナーを見て回った。
無理に付き合わせている自覚はあったから、つまらなそうならすぐに資料用の写真を撮ったら出るつもりだったが、牟礼が説明書きをちゃんと読んで展示物を一つ一つ丁寧に見るので、少しは楽しんでいるならよかったと思う。
そうして最後に、今回の目的の恐竜の標本のコーナーに辿り着いた。
「もう少し右の辺りに……ああ、そこで。ありがとう」
多奈先生の漫画のコマに合うように全体、寄り、アオリ、比較のために牟礼の写った写真を来館者の邪魔にならないように配慮しつつ何十枚か撮る。
爽一郎もたくさん写真を撮るだろうなと様々な角度の恐竜の標本の写真を見つつ思う。そして清太が写り込んだ写真を見つけて喜んだりして。
撮り損ねたものがないか確認のために、写真を見ていると、一枚だけ牟礼が正面に視線を向けているのを見つけて、思わずお気に入り登録してしまった。
「写真大丈夫でしたか?」
「あ、ああ。ありがとう。牟礼のおかげで展示コーナーは撮れてた。あとはレストランで最後だ」
十二時過ぎでちょうどいい時間だった。レストランに向かうと、数組が席についていた。全体を撮った後、壁際の漫画の絵にちょうどいい席にひとまず牟礼だけ座ってもらって写真を撮る。
それから料理のイメージ写真付きのメニュー表を撮って、料理を注文した。俺は爽一郎が頼みそうな恐竜をイメージしたカレーのプレートを、牟礼はナポリタンを選んだ。
「今日は付き合ってくれてありがとう。助かったよ」
「いえ、僕は何も……ご飯も奢ってもらって、デザートまで……すみません」
食後の飲み物を注文しようとした時、爽一郎が喜びそうな恐竜のクッキー付きのデザートがあったから、写真を撮った後牟礼に食べてもらったのだ。
資料のためだけではなく甘い物を食べる時、牟礼の顔が少し緩むのが可愛いから、その表情を見たかったからだった。
「ほんとに気にしないでくれ。ま、今日は正直言うと仕事にかこつけたデートみたいなものだし」
少し照れ臭くなってコーヒーを口に運ぶ。牟礼の顔は俯いていても赤くなっているのが分かる。髪の間から覗いた耳の先が赤く染まっていた。
「あ、一応言っておくと、多奈先生の資料のためっていうのは嘘じゃないからな」
「わ、わかってます。先行で頂いてる次々号のデータ、僕も目を通してますから」
そういえばそうだ。牟礼も電子配信の担当とはいえ、サイズ間違えや文字化け、モアレなど、電子化で発生した不具合がないか漫画や小説のデータを一つ一つ確認しているのだ。多奈先生の作品の六話がデートの約束をするところで終わっているので、予想もつく。
「牟礼もちゃんと作品読んでるんだな」
「……仕事ですから。お金を貰っているので、やることはやってます」
定時退社しているというだけで、時間内にきっちり自分の仕事を終わらせているわけだから、仕事をサボっているわけではない。それに本来内容の細かい確認は俺達担当編集の仕事で、電子化対応のみを行っているIT部門からの出向である牟礼は確認する必要はないのだ。
そう思うと、牟礼なりに仕事に誠実に向き合っているのではないか。
「そういえば、酒井先生のデータが遅れたのは悪かった。けど、時間が掛かった分いい作品になってただろ? 困難を乗り越えて二人で見つけた幸せの中で生きていく……酒井先生のBLには儚さとリアリティの中に、美しい世界が描かれてる」
ジンジャーエールを飲んでいた牟礼が、静かにストローから口を離し動きを止める。
「……僕は、あの話好きではないです」
「……は……?」
思いもしない言葉に、目を丸くする。俯いたままで表情は読めないが、水滴のついたコップを両手でぎゅっと握って白くなった牟礼の指先に気付いた。
「現実には助けてくれる幼馴染も、偏見から解放される世界も存在しない」
牟礼は今何かを思い出している。恐らくこれが、牟礼が壁を作る理由――いや「原因」だ。
「岸さんの言う『美しい世界』は、非現実にしか存在しない『都合のいい物語』なんです」
牟礼は唇を噛み締め荷物を手に取り、席を立つ。何か声を掛けなければと思うが、牟礼を纏う拒絶するような重い空気に、言うべき言葉が思い付かなかった。「都合のいい物語」しか知らない俺では、どんな言葉も軽い。
「……今日はありがとうございました」
そう言って去っていく牟礼を追い掛けることもできず、その背をただ見送った。牟礼と初めて目が合ったあの日と変わらない状況に、勝手に牟礼が心を開いてくれたと舞い上がっていたことを恥じた。
変わらないといけないのは、俺の方なのだから。
浮気を目の前で目撃しても、何も言わず立ち去ろうとした。別れを切り出されても、そのまま受け入れた。俺は、そういう人間だった。
──岸くんさ、人を好きになったことないよね?
今になって思い出されるその言葉に、胸がずきんと痛む。
俺にとって、誰かを好きになること、恋い慕う感情というのは、非現実の世界にしか存在しないものだった。特にそれでも何の支障もなく生きてきた。
しかし、俺は牟礼を心の底から好きになりたいと思う。牟礼と真剣に恋をしてみたいと思う。牟礼の心に届くような何かを、差し出せるくらいに。俺はもっと深く強く激しい感情を知らなければならない。
一人帰宅して、写真を整理する。使えそうなものをクラウドサーバーに上げて多奈先生に共有した。牟礼の正面に視線を向けた写真は、お気に入り登録したままローカルにだけ残した。
目を閉じれば、展示物を真面目に見ている横顔も、甘い物を食べて緩む顔も、顔を赤らめて俯く顔も思い出せるのに、どうしても口を引き結んだ苦しそうな顔や力を込めて白くなった指先を思い出して胸がずきずきと痛んだ。
そんな顔をさせたかったわけじゃない――後悔の念が胸の中を渦巻く。
翌日、このままでは月曜に出社しにくいだろうと思い、牟礼に昨日のことを謝ろうと、「昨日は嫌な想いをさせて悪かった。付き合ってくれてありがとう、助かった」とメッセージを送った。が、既読がつかないまま月曜を迎えた。
二日ほとんど眠れないまま会社に着く。身体が怠いのでコンビニで久々に買った栄養ドリンクを一本飲んでから自席に座る。
「岸さん、おはようございます! ――ってすごい隈⁉ どうしたんですか⁉」
元気に出社してきた中河が大きな声を上げたものだから、フロアにいた全員が俺と中河を見る。
「……いや、少し寝不足なだけだ」
「えぇっそうなんですか? 岸さん酒井先生の第一話の脱稿手伝って二徹してた時の方が今よりも元気そうでしたけど」
ただ忙しいだけだとか、気付いていないだけだとか、色々プラスに考えてみたものの、あの別れ方をした後で有り得ない。もう牟礼に見限られたのかもしれない――そんなことをずっと考えていたら、今朝だった。
始業のチャイムではっとして牟礼の席を反射的に見る。しかしそこに姿はなかった。慌ててスケジューラーを確認したが、牟礼の予定休は入っていない。
ふと見ると、冴木さんが脇机で電話をしていることに気付いた。電話の後、編集長に報告して自席に戻り、PCに何かを入力する。その後、牟礼の今日のスケジュールに「全休」の文字が表示された。
すぐに冴木さんの席に向かうと、俺が視線を送っていることに気付いていたからか、待ち構えられていた。
「冴木さん、今日牟礼は……」
「牟礼君、土日に風邪引いて熱出したんだそうです。今日もまだ微熱があるらしいので休むと連絡がありました。声がガラガラだったので仮病じゃないですよ」
俺が考えそうなことを苦笑交じりに先んじて言われて目を丸くする。
「……そうですか。ありがとうございます」
自席に戻り、仕事に集中しなければとメールフォルダを開く。多奈先生から「資料ありがとうございました! お手伝いくださった方にも御礼を言っておいてください」とメールが届いていた。
駄目だ、牟礼のことが頭から離れない。別れた後、熱を出して日曜は一日中うなされていたんだろうか。社宅とはいえ一人暮らしだ。食事は取れているのか? 水分は? 薬は飲めているか?
メッセージに既読がつかなかったのは熱にうなされてそれどころではなかった可能性もあるが、そんなことはどうでもいい。俺がそんなメッセージの返信ごときで馬鹿みたいに悩んでいる時に、牟礼は体調不良で苦しんでいたのだ。寝不足で身体が怠いなど馬鹿馬鹿しい。
仕事が手につかないなど初めてのことで、集中できないまま午前中が終わってしまった。このままでは一日潰れてしまう。部屋を訪ねて薬や食事を差し入れに行こう。
そう思い立ったものの、未読スルーされているとしたら応答してくれない可能性があるのでは、と頭を抱える。仕方がないので、昼食を取ろうとしている冴木さんに声を掛けた。
「あの、冴木さん。申し訳ないんですが、昼休みにちょっと牟礼の様子見てきてもらえませんか。ろくに食事とか取れてないんじゃないかと思うんです」
冴木さんなら社宅だし、さっき連絡も取っていたから大丈夫だろうという考えだった。しかし、冴木さんは俺を見上げて瞬きをした後、スマホで何か操作した後鞄から鍵を取り出す。
「オートロックのキーお貸しするので、ご自分で行ってください」
「あーいや……恐らく俺には会いたくないと思うし、差し入れも受け取ってくれないかと……」
「……何かあったんですか?」
他の社員の目が気になり、「すみません、外で」とフロアの外に出て、廊下の突き当りにある誰も居ない休憩スペースに向かった。
話すべきか迷ったが、飲み会でのこともあるし、協力を願い出た手前、話さないわけにもいかない。土曜牟礼に資料集めに付き合ってもらったこと、喧嘩別れのような状態になっていることを伝えた。
冴木さんは真剣な表情で話を聞いてくれたあと、溜息を吐き、少し間を置いて話し始めた。
「この間、前の会社で現場が一緒だった人達と飲む機会があったんですが、俺が前職を辞めた理由を聞かれた時に、上司に襲われかけたからって話をしたんですよ。そしたら、他社の協力会社だった人が、俺の会社は部下が上司を襲ったパターンだった、ちょっと優しくしたら襲われかけたらしいって……その後部下は新入社員でゲイバレして居づらくなって辞めたとも言ってました」
冴木さんの過去の告白に衝撃が走ったが、本人は克服しているのか辛そうに話していないので、深く突っ込むべきではないだろう。今は冴木さんがこの話をわざわざ俺にした理由だ。この言葉の後に続くのは――緊張感が伝わってきて、思わず唾を飲み込む。
「……その会社、牟礼君が以前在籍していた会社なんです。それほど大きな会社ではないし、聞いてみると退職時期も近いし……名前まで確認はしませんでしたけど、多分……」
「牟礼がそんなことするわけないでしょう⁉」
思わず大きな声を出してしまい、辺りを見回し人が居ないことを改めて確認して、冷静になろうと深呼吸をする。
「分かってます、俺も信じてないです。噂に尾鰭がついてるだけだと思います」
――僕は、あの話好きではないです。
「最果ての彼ら」の主人公の幼馴染は、噓を流布されて酷い虐めを受けることになる。牟礼がああ言ったのは、過去の自分の状況と重ね合わせてしまったがゆえなのかもしれない。
「だから、きっと牟礼君はこの会社では、極力人との関係を避けようとしていたのだと思います」
「そんなことも知らずに、俺は牟礼と無理に距離を詰めようとした……はは、そりゃ嫌われるのも当然ですね」
一人で浮かれて、牟礼のことを知りたいだの気になるだの言って、ずけずけと牟礼の気も知らないで土足で入っていった。同性同士であるということ、周りからどう見られるか、同性同士で付き合うこと、その意味、影響――俺は、それら全てを考えた上で、牟礼を好きだと心から言えるだろうか?
冴木さんは項垂れる俺に、僅かに空気を和らげるように笑みを浮かべる。
「俺は嫌われているとは思わないですよ。だって、牟礼君飲み会も有休入れてまで欠席するのに、岸さんに頼まれた資料集め、休日返上で手伝ってくれたんでしょう?」
そう言われるまで、俺は牟礼の気持ちを考えていなかったことに気付いた。今までの牟礼なら絶対「時間外労働はしません」「時給出るんですか?」くらいのことは言っていた。俺と二人で会社外で一緒にいること自体嫌がっていただろう。
それなのに、少しだけ俺に歩み寄ってくれた。俺を信用してくれたのだ。牟礼を傷付け、酷い仕打ちをした人間とは違う、と。
「……やっぱり自分で牟礼の様子見に行きます。鍵を貸してもらってもいいでしょうか」
「はい。部屋は306です。牟礼君にはもうメールしてあるので、宜しくお願いします」
いつの間にそんなことをしていたのだろう。冴木さんから鍵を受け取り、「もしかしたら、少し時間戻り遅くなるかもしれないので、編集長に報告しておいてください」とお願いして、廊下を走ってエレベーターのボタンを押した。昼休みだからか一階に降りたまま上がって来ないので、階段を駆け下り会社を出る。
最寄りのコンビニでお粥、うどん、ゼリー、スポーツ飲料、のど飴を、ドラッグストアで風邪薬と冷却シートを購入してマンションに走った。エントランスのオートロックを鍵で空け、エレベーターで三階へ。牟礼の部屋はエレベーターで降りて手前の部屋だった。
眠っていて冴木さんのメールに気付いていないかもしれないし、俺が来たと知って応答はしないかもしれない。急にドアの前で緊張し始めてしまい、息を吐き、気を落ち着けてインターホンを押した。
少し待って反応が無いので、あとで冴木さんにドアレバーに荷物を下げてある旨をメールしてもらおう。そう思った瞬間、レバーが動き、ドアがゆっくりと開く。
「あぁ急に来て悪い。しんどい時に、起こしてすまなかった」
今まで横になっていたのか、上下スウェットで、髪もぼさぼさだった。まだ熱があるのだろう。顔も赤い。
「余計なお世話だろうけど、食事取れてるかとか薬とか、色々心配だったから持ってきた。冷却シートもあるし、よかったら使ってくれ」
レジ袋ごと差し出すと、牟礼は黙ったまま荷物を受け取る。冴木さんからメールを貰っているから、本当は会いたくもないのに、仕方なしに出てきてくれたのだろう。
「……じゃあ、俺は戻るから。何かあったら俺じゃなくてもいいから頼れよ。心配だから」
ドアから離れようとした時、ふいに手が伸びてきて俺の腕を掴んだ。驚いて牟礼を見ると、言いたげに俺を見上げていた。が、目が合うとさっと手を離し再び目を伏せてしまう。
牟礼は他人を頼るとか任せるとか、そういうことが苦手なのだろう。しかし、今牟礼は俺に手を伸ばした。俺が今、その手を掴まなくてどうする。
「牟礼が嫌じゃなかったら、部屋に上げてくれないか。手伝えることがあれば手伝わせて欲しい」
できるだけ牟礼を追い詰めないように、言葉に気を付ける。と、俺を招き入れるように少しドアを広く開けて、中に通すような身振りをした。
「お邪魔します」
俺は靴を脱ぎ部屋に入る。1DKの一般的な単身者用の部屋で、ゴミを出し忘れたのかキッチンの脇に袋が一つ残されている。IHコンロ、冷蔵庫と電子レンジ、それ以外はあまり物がない。
「昨日から何か食べれてるか? 今食べられそうだったら、お粥かうどん温めるけど」
牟礼に渡した袋を受け取って、食事を取り出す。そして二本買ったスポーツドリンクを一つ牟礼に手渡した。
「まだ熱あるんだろ。とりあえず俺が帰るまでに一本飲んどけ」
奥の部屋で、牟礼がベッドに座りペットボトルのキャップを開けようとしているが、力が入らないのか開けられないでいる。居間に入って牟礼の代わりにボトルのキャップを開けた。
スポーツドリンクをごくごくと喉を鳴らして飲むと、牟礼の額や首筋に大量の汗が噴き出る。
「汗掻いてるな。服も着替えた方がいい。下着も」
と、自分で言って目の前で脱げないか、と勝手に入って良くないと思いつつ脱衣所の方を見ると洗面台の棚に乾いたタオルが置いてあった。一つ拝借して湯で濡らし、固く絞って牟礼に渡した。
「とりあえずうどん温めとくから、その間に身体拭いて着替えておいてくれ」
居間との間の引き戸を閉じる。これで着替えもしやすいだろう。うどんをレンジで温めつつ、冷却シートを一枚だけ取って、残りを冷蔵庫の中に入れた。
しかし冷蔵庫の中に麦茶しか入っておらず、何も食べていないような雰囲気を感じる。レトルトのお粥をこの後夕食に食べてくれるかどうかも心配になってきた。
レンジの音が鳴り、うどんを取り出しフィルムと蓋を外す。着替えの途中じゃないかとゆっくりと居間の戸を開け横目で窺うが、ちょうどスウェットの上を着ているところだった。
「何も食べてないだろ。うどん食べられそうか? ゼリーもあるし、何か胃に入れとかないと体力もたないぞ」
テーブルの上にうどんとゼリー、割り箸、風邪薬を置いて、冷却シートのフィルムを外し、牟礼の前髪を掻き上げて額に貼る。
「……悪い、お節介が過ぎた」
熱のせいだけではないと分かるほど牟礼の顔が赤くなっているのに気付き、さっと手を引いた。それくらい自分でできるだろうに、つい妹に世話を焼いていた頃の感覚でやってしまった。
「うどん食べたら、薬飲んで寝ておけよ。あと飲み物枕元に置いといて、定期的に飲むようにな」
ベッドの上にタオルと一緒にまとめて置いてあった脱いだ服を持って、洗濯機の中に放り込む。乾燥機能が付いていないから、回しても牟礼が干せる状態ではないし、ひとまず入れておくだけにしよう。
しかし、服を持っていく時牟礼が何か言い掛けていたが、と考えて蓋を閉める時に一番上にボクサーパンツが見えて、また余計なことをやってしまった、と溜息が毀れた。
「……岸、さん」
「どうした?」
今日初めて聞いた牟礼の声は、がらがらで心配になりすぐに居間に戻る。牟礼は腕で口元を覆って、咳き込みはしなかったが、少し苦しそうに呼吸をしていた。
「土曜は、すみませんでした……」
項垂れるように背中を丸めてがらがら声で言う牟礼に、思わず目を見張った。謝罪をされるとは思ってもいなかったから。
「いや、謝るのは俺の方だ。すまなかった。休日に付き合わせた上に、牟礼の気持ちも考えずにずけずけと土足で踏み込もうとして、無神経だったよな」
牟礼は首を横に大きく振って、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
「……嬉しかったんです……岸さんが僕を気になるって、好きって言ってくれて……ずっと舞い上がってて……あの日も……」
俺には上手く隠しされていたから分からなかったが、牟礼は俺の好意を好ましく思ってくれていたのだ。嫌われてしまったかと思っていたから、少し気持ちが軽くなる。
牟礼が俺に風邪が移らないようにと考えてか、口元を押さえたまま話すので籠った声で、声も小さいので聞き逃さないように牟礼の前に片膝をついて座った。
「だから、岸さんがBLの綺麗な世界に感化されているだけかもしれないって思った時……苦しくなって……感情のままにあんなこと言って……酒井先生の作品にだって……本当にごめんなさい」
俺は不意に俯いている牟礼の前髪に手を伸ばし、掻き上げる。涙を湛えた大きな瞳が、俺を真っ直ぐに見詰めた。
「ありがとうな。いっぱい考えてくれたんだな、俺のこと」
きっと牟礼は俺なんかよりもずっとずっと情が深い人間なのだ。俺は気になるとか、好きかもとか、そういう曖昧な感情の中でふらついているけれど、牟礼は真剣に俺が自分をどう思っているのか、どういう気持ちで自分に好きだなんて言ったのかを考えていた。
だから、虚構の世界を美しいなんて夢見がちなことを言われて、現実に横たわっている問題に何一つ向き合っていないことを見透かしたのだろう。
事実、俺は牟礼が受けたようなセクシャリティによる偏見に晒されたことはないし、理不尽な目にも遭ったことがない。その深刻な問題に立ち向かえるか?
指で牟礼の目から零れ落ちる涙を掬い、泣き止んで欲しいと願い、微笑み掛けた。
「俺もいっぱい牟礼のこと考えるよ。それで牟礼のことを好きだって心の底から言えると思ったらもう一度ちゃんと気持ちを伝えるから、聞いてくれないか」
俺を捉える大きな瞳が揺れて、静かに伏せられる。そして、小さく頷いた。
「……うどん、伸びちゃったな」
苦笑交じりに牟礼から離れてテーブルの上のうどんと、箸を割って牟礼に手渡す。と、ずるずるとうどんを啜り始めて、安堵の溜息が毀れた。
「……あ、岸さんもう戻らないと」
牟礼に言われて、腕の時計を見ると十二時五十分を過ぎていた。
「遅れるって言ってあるから大丈夫」
「でも……」
「牟礼がうどん食べて薬飲んだのを確認してから戻るよ。このまま戻っても心配で仕事が手につかないからな」
そう言うと牟礼は頬を染めて、うどんをまた食べ始めた。俺にじっと見られているので食べにくそうではあったが。
「じゃあ、何かあったら連絡してくれ」
薬を飲ませたし、冷却シートが温くなったら替えが冷蔵庫にあることも、夕食にお粥を食べるようにも伝えたし、スポーツドリンクも枕元に置いてあるし、とりあえず大丈夫だろう。
「……はい」
玄関で俺を見送りにきた牟礼が素直に頷く。他人を頼るということを少しはできるようになったようで嬉しい。
「いや、何も無くても連絡して欲しい。俺が単純に嬉しいから」
そう言うと、牟礼は表情が柔らかくなって「はい」と小さく呟いた。
玄関を出てエレベーターで一階に降りる。エントランスを出て、マンションを振り返って牟礼の部屋のベランダを一瞥してから、会社へと歩き出した。胸の中に湧き上がる温かな感情に顔を綻ばせて。
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