10 / 13
第四話 過去との邂逅①
牟礼が風邪で会社を休んだ日、会社に戻って仕事をして、定時くらいに一度牟礼からメッセージが届いた。内容は「熱が下がりました。ありがとうございます」。お粥を準備して洗濯物を洗って干してやりたいというお節介心を抑えて、「よかった。油断せずに夕食取って薬飲んで良く寝ておくようにな」と返信した。
夜寝る前にスマホを確認すると、牟礼から一時間前に「明日は出社します。おやすみなさい」と届いていて、「無理はするなよ。おやすみ」と返した。
その瞬間に既読がついて、まだ寝てなかったのかと心配になると同時に、画面を開いて返信を待っていたのか、俺とのやり取りを読み返していたのかで、そのどちらにしても愛おしさが溢れて、ひとりベッドの上で悶絶する。
翌日出社すると、牟礼はマスクをしていつもより少し早く出社してきた。冴木さんに御礼を言って編集長に一言報告してから席についた。流石に俺が昼休みの時間に牟礼のところに行ったことは冴木さんしか知らないから、俺のところに俺を直接言ってはこなかったが、始業の前にメッセージで「昨日はありがとうございました。岸さんが来てくれて本当に助かりました。土曜のこともあるので、何か埋め合わせをさせて下さい」とメッセージが届いて、顔が緩むのを止められず、堪らず突っ伏した。中河に変な目で見られたのは言うまでもない。
とは言え、埋め合わせなんて要らないし、そもそも俺がやりたくてやったことで、ただのお節介なわけだが、牟礼は俺に借りを作ったと感じているのだろうか。生真面目だなと思うが、だとしたら、ちゃんと断っておくべきだろう。しかし、食い下がってくる気はしたので、「じゃあ今週どこかで俺と昼飯食べに行ってくれないか」と返した。
「分かりました。今日はご飯買ってきてしまったので、明日お願いします」と返ってきて、言ってみるもんだなと思いつつ、無理強いをしてないか気になってしまった。
酒井先生の「最果ての彼ら」の単行本の表紙イラストが届き、デザイナーに転送する。煌めく海と笑い合う二人の切なさを帯びた表情が、胸を締め付けるようだった。永遠を信じて、願っているけれど、横たわる現実の前に、それが永遠ではないことを解っているようで。儚さが漂う美しいイラストだった。
また、酒井先生が明日の午後には描き下ろし部分のネームが送れそうだというので、明後日の午後に打ち合わせを設定し、自宅に伺うことになった。ちょうどその日の午後にはデザイナーさんからデザイン案が三つ送られてきたのもあり、酒井先生のご意見も伺うことにした。
その日の俺の仕事は順調に進んだが、中河と高野の単行本発売キャンペーン企画書の進みが悪く、明日編集長含めた部内会議に出すため、ブラッシュアップと発表の準備をしているうちに、夜は更けて、会社を出たのは十二時過ぎの終電間際の時間になっていた。
電車の中で今朝の牟礼とのメッセージのやりとりをぼんやりと眺める。日付が変わったから、今日かと昼食を食べに行く約束を思い出した。どんな食べ物が好きなのか、先に聞いておいた方がいいか? いや、会社の人間と行く昼食でそんなことわざわざ事前に聞かれないか? などとああでもないこうでもないと考えながら、駅前のラーメン屋で遅い夕食を取った。
家への道の途中にある商店街ではイルミネーションやクリスマスの飾りつけがされ、近くの教会の「クリスマス礼拝」の告知が貼られていた。
去年まで在籍していた出版社に居た頃は、年末進行で毎年忙しくクリスマスどころではなくて、恋人と過ごした記憶は学生時代に遡るくらいまでない。それに比べて今年文夏社に転職してからは多忙といっても以前ほどの酷さはない。締切破りの常習者が居ないだけでこれほど平穏なのかと思うくらいだ。
その時ふっと牟礼のことが思い浮かんだ。牟礼は実家で家族と過ごすだろうか。もし一人なら、俺と過ごしてはくれないだろうか。――まだ、恋人でもなんでもないけれど。
気付くと、一日仕事か牟礼のことしか考えていない。恐らく思春期にまともに初恋を経験していないせいもあるとは思うが、大人になった人間は、こんな風に浮かれて過ごしたりはしないのだろうか。
コンビニや飲食店でよく流れてくる最近人気らしいバンドのラブソングは、日常の様々な情景の中に恋しい人が思い浮かんでしまう、という歌詞だった。正しく今の俺のようだと思う。ということは世の中の恋をしている人は、俺のように熱に浮かされたような状態で一日過ごしているのか。
――俺は、ちゃんと牟礼のことを好きでいられているか?
恋い慕うという感情が、今の俺の状態と違うと言われたら、もう一生恋をすることはないのだろうと思うほど、俺の今の状態は確かに、「恋をしている」。
翌日、いつもより浮ついた気分で出社して、午前中の仕事を終え昼休みのチャイム音と共に席を立つ。
「牟礼、外行こうか」
一応他の社員からあまり注目を浴びないようにさり気なく声を掛けたつもりだったが、昼休み返上で午後の会議の準備を進めていた高野に見付かって、親指を立てて激励をされてしまった。
牟礼はマスクをしているので顔が赤くなっても目立たないから良かったが、俯いて小さくなったまま会社を出る。
「……高野さんは……何か知っているんですか」
どこの店に行こうか尋ねようとして、言葉に詰まった。牟礼に誠実に接するなら、ここは誤魔化さずに正直に話すべきだろう。
「前に少しな。高野はセクシャリティのことに偏見が無いから、ちょっと話を聞いてもらったことがあって、俺が牟礼のことを好きだって知ってるんだ」
牟礼が俺をよく見ていることを高野が知っているということは、言わない方がいいだろう。
「そう、なんですね……」
「すまない。牟礼は嫌だよな。俺が軽率な発言をしたせいで、職場の人間に変な目で見られるの」
以前の職場で同性愛者だと噂されて居づらくなり退職した経緯があることを鑑みると、牟礼にとっては好ましい状況では無いことは確かだ。
「岸さんは……嫌じゃないんですか?」
前髪の間から覗く瞳は、俺を不安げに見詰めている。
「嫌じゃないよ。高野もただ素直に応援してくれてるだけだし。第一、俺の気持ちは嘘じゃないからな」
「……そうですか」
牟礼は再び俯く。何を考えているのかマスクもあって表情が読みにくく、余計に分からない。が、ひとまず昼食だ、と歩き出す。
「和食と洋食と中華、どれがいい?」
「洋食、がいいです」
「よし、じゃあランチにパスタとドリンクとデザートがつくカフェがあってさ。そこにしよう」
遠慮して選ばなそうだと思ったが、風邪の一件でいい意味で遠慮がなくなったのかもしれない。俺と牟礼は会社から駅前の方に歩いたところにあるカフェに入った。お洒落で女性に人気のある店で、先週末マリサ社長主催の女子会も行われた店だ。そのため客の比率は八対二で女性が大半を占めている。
「この店、よく来るんですか?」
「ああ、一人でたまに入るよ。生パスタがもちもちしてて美味しいし、大盛りにできるし。デザートまで付くのは満足感あっていいからな」
俺はベーコンとキノコの和風パスタを大盛りにして、コーヒーとパンナコッタ、牟礼はモッツァレラチーズのトマトパスタ、ダージリンティー、ティラミスを注文した。周囲に女性が多いことが気になっているのか、牟礼は小さくなっている。
「僕はあんまりこういう店慣れないです。岸さんは女性と来るので平気なんでしょうけど」
少し胸の辺りがずきっと痛んだ。俺がいわゆるノンケだから、と距離を取られているような感じがしたからかもしれない。
「妹がカフェ好きだから。付き合って入ってるうちに俺も好きになってきたのもあるよ」
「……妹……」
「そ。めちゃくちゃ可愛い妹」
スマホを出して、待ち受け画面にしている妹の写真を牟礼に見せた。と、牟礼は何か驚いたような表情をして写真をじっと見た後俺を見る。
「似てないって言いたげだな? そうなんだよ。俺に全然似てなくて可愛いんだ」
まだ何か言いたげにしているので、もしかして自分の妹を待ち受け画面にしていることに引かれたのでは、と思い至る。
「どうした? シスコンだって引いた?」
「いえ、そうじゃなくて……妹さんだったんだなって……」
「妹さんだった」? 牟礼の言い方に引っ掛かる。まるで、莉里花を知っているかのような――
「……もしかして、俺と莉里花が一緒に居るの見たことあるのか?」
牟礼は背を丸めて小さくなりながら、顔を赤くする。まさか、俺と莉里花が一緒に居るのを見て恋人だと勘違いをしたりしたのだろうか。
だとしたら、恋人が居ながら男の牟礼にアプローチしてくる軽薄な男に思われていた可能性が……。だとしたら、牟礼の壁を感じる対応も頷ける。
「大人っぽく見えただろ。モデルの仕事してるせいかもな。けどまだ高校生なんだ。保護者として色々連れ回されてるよ」
「……そうなんですね」
牟礼はもう一度スマホの写真を見た後、ほっとした表情になったように思えた。誤解が解けたならよかったと俺も胸を撫で下ろす。
食事が運ばれてきて、早速パスタを食べる。相変わらず麺のもちもち食感が美味しい。パスタを食べた後、デザートとドリンクがテーブルに並べられる。コーヒーに口を付ける俺に対し、牟礼はすぐにティラミスを口に運んだ。
「美味しい……」
思わず言葉が口をついて出たというような呟きに、「美味しいよな」と同意しつつ顔を綻ばせる。
「もし腹に余裕があるなら、俺の分も食べていいぞ。パンナコッタも美味しいんだ」
牟礼の前に器ごと置くと、嬉しそうに瞳を輝かせて俺を見る。もう目が合っても、逸らさなくなっている。
「頂きます。ありがとうございます」
牟礼は満足そうにティラミスとパンナコッタを平らげる。デザートは別腹と言うが、科学的にも証明されている事象を普段小食な牟礼なだけに、目の前で証明された気分だ。
「じゃあ、戻るか」
伝票を持って立ち上がろうとした瞬間、俺の手を牟礼が掴んで思わずどきっとする。
「僕が払います。今日は埋め合わせなので」
「い、いや、一緒にご飯食べてくれただけで俺は十分――」
「いいえ。それだと僕の気が収まらないので」
ぐいと俺の指をもう一方の手で伝票から引き剥がし、半分奪い取るようにして牟礼は伝票を手にし、レジにそのまま行ってしまった。俺としては牟礼に手を握られた衝撃でそれどころではなく、手に残った感触に思わず鼓動が高鳴る。
「岸さん?」
牟礼の方は何とも思っていないらしく、いつまでも席から動かない俺を不思議そうに見る。大胆なんだか天然なんだか。溜息を吐いて牟礼の後に続いて店を出た。
「牟礼って結構頑固だよな」
「そうですか? 初めて言われました」
会社に戻る道の途中、ケーキ屋の前を通り過ぎる時に店内に飾られたクリスマスツリーと「クリスマスケーキ予約本日まで」の貼り紙を見て、昨晩考えていたことがふっと思い起こされた。このタイミングではないかもしれないが、今言わなければ言うタイミングもきっともう来ない。
「牟礼、週末の予定空いてるか?」
牟礼は驚いたように俺の顔を見た後、恥ずかしそうに俯く。
「……空いてますけど……」
何か言い掛けて向けた牟礼の視線の先に、ケーキ屋のクリスマスツリーがあった。クリスマスを意識させられたのは、俺だけじゃない。
「牟礼さえよかったら、夕食食べないか? 外は予約とかもう無理だろうから、俺の家で」
「……えっ……」
マスクをしていても分かるくらい、牟礼の顔、露出している肌は全て、みるみる赤くなっていった。クリスマスイブに家で二人きりで過ごすというシチュエーションを深く考えていなかったが、冷静に考えると「そういうこと」を意識してしまうのは仕方が無いことだった。
「あっ、いや! 変な意味じゃないぞ? チキンとケーキ食べるだけだから……!」
自分で言いながら言い訳がましい感じがして、恥ずかしさに顔が熱くなる。
「……では、伺います。ケーキ、食べたいので」
最後の方はぼそぼそと聞こえないほど小さな声だったが、約束を取り付けられたことに心の中でガッツポーズをする。
「ケーキ何がいい? 予約しとくよ」
「……あの、丸太みたいなケーキを食べてみたいです」
「あぁ、ブッシュドノエルか。分かった」
食べてみたい、ということは食べたことはないのか? 好きなケーキを選べる環境になかったのだろうか。
だとしたら、牟礼が楽しめるように少しクリスマスっぽい飾りを買ったりしておくか。そういうことを考えるだけで、今から心が躍る。
会社に戻り、午後の会議で中河と高野の企画書の説明を聞く。中河は緊張して噛み噛みだったし高野は質疑応答で適当な回答をして眞栄さんから怒られていた。
とはいえ、企画書自体は問題ないということで通って、来週には先方の会社に出向いて発表となる。中河には引き続き練習させて、想定されるQAを二人に叩き込んでおくということになった。
自席に戻ると、酒井先生からネームが届いており、描き下ろしのページ上限の三十ページになっていた。以前貰っていたあらすじからストーリーに変更はなかったので、ひと通り確認してネームを受け取った旨と明日の打ち合わせの日時のリマインドをメールで送る。
多奈先生の方の進捗は下書きに入っており、背景以外はペン入れに入れそうとのことで順調に進んでいた。元々次々号の原稿まで脱稿済みで、年末進行とは無縁だから、年を越えてからでも十分なほどだ。前の雑誌で迷惑を掛け続けていた大口先生には、多奈先生の爪の垢を煎じて飲んでもらいたいと心の底から思う。
仕事を終えて最寄り駅にあるケーキ屋にぎりぎり閉店間際に飛び込み、チョコレートのブッシュドノエルを一台予約した。チキンはどうするか悩みつつ定食屋で夕食を取ってから自宅に着く。
シャワーを浴びて髪をタオルで乾かしながら、何となく点けたテレビのニュースで、百貨店で売っているチキンやオードブルなどを紹介していた。土曜は夕食からだし、午前中に買いに行ける。
それに、食事をするだけではちょっと味気ないから、折角だしクリスマスプレゼントも用意するのはどうだろう。牟礼は細いし、手を掴まれた時冷たかったから寒そうだ。マフラーや手袋なんかの防寒具がいいかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えた時、牟礼に握られた手の感触をつい思い出してしまった。
肉があまりついていなくて、細い指だった。肌は思ったより張りがあってすべすべしていたような――気付くと以前夢に見た淫らな姿の牟礼を思い浮かべていた。
人並みには性欲はある、と思う。ただ、今まで恋人に誘われるとか雰囲気がそういう感じになるとか、何かの切欠が無いと相手に性欲を向けるということがなかった。本能が理性を打ち負かすようなこともなく、「まるで作業」と言われるような性行為だった。
なのに、付き合ってもいなければそういう関係にもない相手のあられもない姿を想像して興奮しているというのが、自分でも信じられなかった。
しかし多分、今これをしたらまずい。週末には牟礼が部屋に来るというのに、そんなことをしたら絶対に理性が本能に負ける。信頼を勝ち取れるかどうかという大事な時だ。耐えろ。
深呼吸を繰り返し、スマホに手を伸ばし待ち受け画面の莉里花を見詰める。と、一気に冷静になり、心が次第に凪いでいった。助かった、ありがとう莉里花。今度服を買ってあげよう。
何か刺激を与えたらまた変な妄想に囚われてしまいそうだったので、早々に電気を消しベッドに横になった。
眠りについた俺はその夜、淫夢に襲われ、翌朝十年振りくらいの夢精を経験して絶望することになる。その日はまともに牟礼の顔を見ることができなかったが、午後から酒井先生の打ち合わせが入っていたおかげでなんとか助かった。
ともだちにシェアしよう!

