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エピソード 牟礼向葵
「お前、千真のこと好きなんだろ?」
夕日に照らされた校舎と、その少年の嘲るような表情を今でも鮮明に覚えている。僕はその言葉に、顔が焼けるように熱くなるのを感じていた。
僕が八歳の時、両親が離婚した。原因は父親の不倫だが、物心がついた頃から、両親はいつも喧嘩ばかりだった。
父親はいつも帰りが遅く、僕が寝ているとリビングから言い争う声がよく聞こえた。鈍い音と母親が泣き叫ぶ声に驚いて、僕がリビングに行くと、母親は「パパがぶったの! 助けて向葵!」と僕に泣きながら縋り付いた。
僕は母親の背中を撫でながら、父親を見るとビールの缶をシンクに投げ入れて家を出て行った。父親も母親も、まるで子供のようで、僕はこの狭い世界の中で生きていくことの息苦しさを感じていた。
そんな日々が終わって、僕を待っていたのは施設での生活だった。母親に引き取られたものの、彼女には生活力が無かったためだ。
元々集団生活が得意ではなかった僕は、色んな年代の沢山の子供達がいる環境に馴染めるのか不安だった。園の先生に促されてやった自己紹介も、上手く言えなかったし、新しい仲間がつまらない奴だとがっかりしている雰囲気すらあった。
「向葵、だっけ? 俺、千真! お前小三だろ? 一緒だな!」
そんな僕に最初に話しかけてくれたのが千真だった。
彼は快活で、僕のような大人しい子供にも分け隔てなく接していて、年長者にも小さい子にも好かれていた。
屈託なく楽しげに歯を見せて笑う、学校でも園でも、いつも集団の中心に居る彼を、僕が好きになってしまったのは、仕方のないことだった。
中学校に上がる頃には、僕は自分の性的指向が同性に向かっていると認識していた。それが周りと違うことも、それを明らかにすることは集団生活に支障を来すであろうことも。
だから、僕は千真に対する恋心を隠して、「友人」として接することを望んだ。千真が、ストレートであるというのは、小学五年の時、園の年長者にアダルトビデオを観せてもらったと喜んで報告してきたことから明白だったし、中学に入ってからは彼女が何人も入れ替わるのを見てきたので今更恋人になれるとは思わない。
しかし、千真の恋人は変わっても僕が友人であることは変わらなかった。同じ年の園の子が男では僕しかいなかったから、中学校に入って派手になっても、不良グループとつるむようになっても、僕を必ず連れて歩いた。周りは地味な僕を煙たがっていたけれど。
高校受験を控えた中三の初夏、秋にある文化祭の内容を決めることになった。当時流行っていたメイドカフェをやりたいと言う女子とお化け屋敷をやりたいという男子で意見が割れた。派手めな女子の一人が、男子は女装をすれば良いなんて無茶を言い出す。
「女装なら、向葵は似合いそうだな!」
唐突に千真からそう言われて、顔が一気に熱くなった。
「えー、向葵が女装?」
橋本という、中学に入ってから千真とつるむようになった不良グループの一人が苦笑いを浮かべて僕を見る。
「いや、こいつ色白いし顔小さいし、睫毛も長えんだぜ! ぶっちゃけ女子より細ぇし。ぜってー似合うって! な!」
何で僕に振るんだ、とクラス中の視線が僕に集まるのを感じて身を小さくする。女子より細いは角が立つだろ、と二人きりになったら文句を言おう。
「マジでやるなら、あたしメイクしたげるよー! ウィッグもあるしー」
「マジか! やるよな、向葵!」
僕は千真に遊びに誘われてついて行かなかったことはなかった。夏休み最終日に宿題を見せてと言われたら全部写させた。母親から誕生日プレゼントは何がいいか聞かれたら、千真が欲しがっていたゲームソフトの名前を挙げた。
僕の世界の中心には千真という人間がいつも居て、その人間の願いはいつも僕の願いとなった。
だから、僕はその時も黙っていつも頷いて、彼の喜ぶ顔を見て幸せな気持ちになった。「友人」である僕が、唯一望んだことは、彼の「友人」であり続けること、だから。
その時、橋本が酷くつまらなそうにしていたのを、僕は気付かないフリをした。
放課後、千真が彼女とデートするからと一人残された時、橋本が話があるから残れと言ってきた。何の話か分からなかったが、逆らうのも面倒なので、人気の少ない校舎裏で彼を待った。
「お前、千真のこと好きなんだろ」
そして、彼が言ったのはその言葉だった。
「顔真っ赤じゃん! 分かりやす過ぎんだよ、お前」
嘲笑を浮かべる橋本を僕は頭が真っ白になりながら、呆然と見詰めた。
「あとさ、千真のこと見過ぎだから! 目力強いんだよ、お前。あいつもしょっちゅう視線感じるって言ってたぜ?」
無意識に自分が千真を目で追っていたことを初めて知った。僕は園で短く切られた前髪を必死に引っ張って俯く。
「あいつがお前がホモって知ったらどうなんのかね?」
彼の、千真の笑顔が頭の中に浮かんで、胸が締め付けられて、苦しい。僕は、それ以外何も望まないのに。
「……言わ、ないで」
「は? 声小さくて聞こえねーわ!」
声が、身体が震えていた。言葉がそれ以上出てこない。
「うそうそ! 言わねーって! ただはっきりさせたかっただけだからさ!」
橋本が僕の肩をポンと叩く。彼の言葉に胸を撫で下ろし、「じゃあ明日な」と去っていく彼を見送った。僕の恋心は、知られてはいけないのだ。
次の日、千真と変わらず登校し、昼休みを挟んで、五限目の文化祭の出し物決めのホームルームの時間になった。
「やっぱ、お化け屋敷にしよーぜ!」
昨日までメイドカフェに乗り気だったはずの千真の第一声に驚く。元々気分屋なところはあるけれど、あまりにも急だ。
「金内君に女装させんじゃないのー?」
「いや知らねーしそんなの」
全く僕の方を見ようともせず、冷たく言い放たれたその言葉に、僕は確信した。千真に知られた、と。橋本が僕を見てほくそ笑んでいた。
その日から、千真は僕を一切無視するようになり、やがて僕がゲイであることが校内に知れ渡った。幸い酷いいじめには発展しなかったが、クラスでも園でも、僕を皆が遠ざけるようになり、孤立した。
そして千真の近くに居ることが苦痛になり、園に居る時間をできるだけ短くして、文化祭にも勿論参加せず、学校にも保健室に行って帰るだけになった。
母親が園に知らない男の人と一緒に、僕を迎えに来たのは、進路面談を控えた十二月のそんな頃だった。
「この人は、牟礼京一さん。向葵の新しいパパよ」
久々に見た母親は化粧が少し濃くなっていて、香水の匂いがきつくなっていた。そして母親が紹介した男性は、母親よりずっと年上に見える。特別顔がいいわけでも優しそうでもなかったが、着ているスーツや付けている時計が子供でも高いものだと分かった。
「初めまして、向葵君。宜しくね」
義父となった男性は、まるで営業マンのような張り付いた笑顔で僕に手を差し出した。母親が期待するように僕に視線を送る。
契約だ、と思った。僕はこの手を握ることで、赤の他人で何者かすらわからない男性を父親にするための契約を結ばされるのだ。
握手をすると、母親は嬉しそうにパチパチと手を叩いた。
「京一さんがね、三人で暮らせるようにって、マンションを買ってくれたのよ! やっと一緒に暮らせるの! こんなところで暮らさなくていいのよ!」
ああ、僕は母親が「こんなところ」なんていうところで七年近くも暮らしていたのだと思う。でも、今年の夏までは、そんなに悪いところでもなかったよ。……そう、母親に言うことはなかったけど。
年が明けるのを待たずに、唐突に転校が決まって、新しい家で暮らすことになった。
郊外のマンションの4LDK。僕は初めて自分の部屋を貰った。部屋にはベッドや勉強机が既に置かれていた。
「ねえ、向葵。パパと遊んできたらどう?」
部屋に服と勉強道具を置いて、一息ついたところで、母親がそう言って顔を出した。そして義父がボールとグローブを持って現れる。
「キャッチボールしないか」
僕はこの時、何もかもが嫌になった。七年ずっと好きだった人に無視をされるようになって、学校にも園にも居場所が無くなって、新しく与えられた場所では新しい父親が形だけの親子関係を求めている。そして母親は僕の何もかもを知らない。
母親が他の母親達と話し込んでいる間砂場で一人で遊んでいたことも、学芸会でセリフを間違えたことも、運動神経が悪いから運動会の組体操は支える役しかなかったことも、全国模試で数学が六位だったことも、僕の好きな人が同性だったことも、ゲイだと知られて学校の保健室に通っていたことも、何もかも。
「……嫌です」
僕はその日初めて拒絶するという選択をした。そして、全寮制の高専に進学することを決めた。
母親は「せっかく一緒に暮らせると思ったのに」と、義父も「寂しくなる」と言っていたが、嘘だと分かっていた。何せ反対もされず、何の支障もなく入学まで淡々と進んだのだから。
高専では寮内で色々なイベントが行われていたが、基本的に勉強が忙しくて遊ぶ時間は少なかった。それは僕にとっては都合が良かった。面倒な友人関係を作らなくて済むから。
夏休みや年末年始に帰宅しなければならない苦痛を除けば、特に大変だったという記憶はない。在学中に情報処理関係の資格を取れるだけ取ったため、就職する時は条件の良い会社を選びやすかった。
すぐに一人暮らしをしたかった僕は、社宅のある社員が百人くらいの会社を選んだ。同期が多いと煩わしいので中小企業、また自社開発ではなく客先常駐の会社を選んだ。一定期間で人間関係がリセットされる方が都合が良い。
入社して一月ほどは外部研修、五月からは自社研修、六月から客先で教わりつつ仕事が始まった。
「井野です。今日から宜しくね」
柔和な雰囲気の優しそうな人が上司だった。仕事の教え方も上手くて、知識も人一倍あって、頼れる人。自社からは井野さんが一人で常駐していたが、現場の人達からの信頼が厚く、新人を増員してくれることが認められたのだとか。
「進捗どう? 分からなかったらいつでも聞いて」
井野さんは優しく、隣の席だったこともあり、僕が少し詰まっていると気付いて声を掛けてくれた。
「今日はここまでにして、飲んで帰らないか」
「はい」
井野さんは残業した日は、よく僕を飲みに誘ってくれた。仕事の話や井野さんの昔話が話題の中心だったが、不思議と煩わしい気持ちにはならなかった。
「牟礼君は前髪を伸ばしているけど、目が悪くなるし、折角可愛い顔してるんだから切った方がいいよ」
「またそれですか」
二月。少しずつ仕事にも慣れてきた頃、リリース作業で残業した帰りにいつものように飲み屋に寄った。
一時間ほど飲んで、ほろ酔いになってくると、井野さんは決まって僕の髪型について言及する。
あの日、橋本から言われた目で追う癖が気になるようになってから、前髪を伸ばしているのだ。
「ほら、短い方が似合うよ」
そう言って前髪を持ち上げられて、周りの視線が気になり、赤面しながら「やめて下さい」と手を退かした。
二十以上年の離れた井野さんはまるで父親のようだった。こんな風に話すことができていたら、義父との関係は違っていたかもしれない。
「牟礼君、彼女はずっといないんだっけ?」
「……そうですね」
少し言い淀んだ僕に「高専だと、女子少ないもんねぇ」とフォローする。ゲイの僕からすると、全くフォローになっていないのだけれど。
「井野さんはどうなんですか」
「僕? 僕はまあモテないし、職場も男性ばかりだから出会いも無いしね」
初めての切り返しに驚きながら、井野さんはハイボールをぐいと飲み干した。恋人が居たり結婚をして無ければおかしいという感覚は、男性社会には根強くある。その中で四十を過ぎた男性が未婚で居続けるのは、毎回この手の話をされて面倒なことだろう。
「でもまあ、寂しくはないかな。可愛い後輩がこうやって飲みに付き合ってくれるから」
「……僕自身はお酒あまり飲めないですけど」
「お酒の量は関係無いさ。こうやって話ができるのがいいんだ」
そう言ってにこにこと自然な笑顔を浮かべる井野さんを見ていると、つられてこっちまで笑顔になるから不思議だった。
「あれ、もしかして井野さん探してる?」
設計書の内容と実際のプログラムに齟齬があって、確認をしようと思い辺りを見回していると、常駐先の社員の人が僕に声を掛けた。
「はい。確認したいことがあって」
「へえ……牟礼さんはいつも井野さんのこと見てるよね」
薄笑いを浮かべて、まるで小馬鹿にするような言い方だった。話したことがほとんどない人に、そんなことを言われるくらい見ているのだろうか。不安になって、伸ばした前髪を引っ張る。
「残念だけど、井野さんは会議に呼ばれちゃったからしばらく帰って来ないよ」
「そう、ですか……」
違和感を覚えた。この人の表情や言葉が、いつかのことを思い起こさせる。心臓がどくんどくんと脈を打つ。
その後、生きた心地がしなかった。一時間ほどで井野さんが戻ってきて、確認しなければならないことも聞けずにいると、
「牟礼君、顔色悪いよ? どうかした?」
と、僕の様子が可笑しいことに気付いて声を掛けてくれた。いつもと同じ様子に、胸を撫で下ろす。気にし過ぎだ。
井野さんは常駐先の会社さん達の飲み会に参加するということで早めに退社したので、その日は定時で帰宅できた。
「おはようございます」
翌日出社して、隣の席の井野さんに挨拶する。
「お、おはよう……」
いつもなら軽く挨拶を返してくれるが、その日の朝は明らかに声のトーンが違っていた。僕の方を顔を強張らせてちらりと見て、すぐにPCの画面に視線を戻す。
──同じような空気を、僕は知っている。
しかし、知られる理由が分からなかった。リアルでもネットでも、同じセクシャリティの人との交友を持ったことはないからだ。
漏れるとしたら、同じ中学に在学していた人くらいだが、目立つ人間ではなかったし、卒業前に転校した僕のことをわざわざ覚えている人間がどれくらいいるのか、疑問ではある。
「牟礼さん、好きな人にはすぐ顔赤くなるし、目で追うから分かりやすいって言ってたけど、本当ですね」
トイレで手を洗っていると、先日の社員さんがやってきて、そう言った。振り返ることもできず、鏡越しに薄ら笑いを浮かべた男性を見る。
「なんで、そんなこと……」
「大学の後輩の連れと飲んだ時に、中学時代の話になったんですよ。親が再婚して牟礼って変わった名前になったって言ってたから、それって牟礼さんのことじゃないかって」
仲の良かった人間以外に、僕の話を持ち出すような人間は居るだろうか。居るとしたら、千真かもしくは──。
「昨日飲み会で井野さんに牟礼さんがゲイだって教えたらびっくりしてましたね! ゲイの人ってヤリまくってるんでしょ? 純情そうに見えたんじゃないすか。絶対狙われてるって言ったら、めちゃビビってて面白かったっすよ!」
昨日の飲み会に参加していたのは、常駐先の社員と協力会社のリーダーだ。男性の多い職場で、ゲイだと知られることがどういうことなのか、想像に難くない。
「あ、俺は無理ですよ! ゲイとかマジキモいんで!」
そう嘲笑して、散々言うだけ言って去っていった。残された僕は、あの中学三年の数ヶ月を思い出していた。
その日から井野さんは僕をあからさまに避けるようになり、話し掛けると嫌そうな顔をするようになって、質問さえし難くなった。現場の人達も、僕がトイレに行くと慌てて逃げるように出て行ったり、通り過ぎる時に悪態をついたり嘲笑するようになった。
そして、部長から現場を抜けてくれないかと打診されたのは、そのすぐ後のことだった。部長に井野さんが相談したのだ。
IT業界は狭い世界だ。別の現場に行っても、前の現場に入っていた会社が常駐していることが多い。またしばらくしたら、ゲイだと知られてしまうだろうし、それで仕事がし難くなることもあるだろう。
僕は退社することを選んだ。送別会が開かれることもなく、勿論会社からの引き止めもなかった。
社宅を出る時、ベッドなどの大きな家具は処分したので、荷物はキャリーケースに入るだけしかなく、入った時とほとんど増えていなかった。
どうして僕は、他人を信用してしまったのだろう。心を許してしまったのだろう。生活のために金を稼ぐだけの関係であったら、こんなに裏切られた気分にならずに済んだはずだ。
全て僕に隙があったことに非がある。中学時代も社会人になっても、「友人だから」「彼なら」「この人なら」、などという甘い考えで他人に心を許した。
僕を特別な人間として扱ってくれる「誰か」なんていない。血の通った親にも、「友人」だった好きな人にも、誰にも必要とされなかった。会社でも、仕事を頑張っても評価されない。
それなら、もう「誰か」なんて期待しない。期待した僕が愚かだったのだ。
誰とも繋がりを持たないで、ただ生きるために働こう。そうしたら、きっと──傷付かないで済むから。
ネットで新しい就職先を探して始めてすぐ、出版社のIT部門の求人を見つけた。業界が違えば、前の会社でのことを知る人は少ないだろう。
僕は「文夏社」の面接に申し込んだ。僕が諦めた「誰か」が未来に居ることを、この時の僕は、まだ知らない。
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