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第5話 好きって、何度でも

 前期の中間テスト五日前。  レオは自室の机にかじりつくように向かい、ただひたすらにシャーペンを走らせていた。  机の上には、数学の青チャート、英語の長文問題集、現代文のプリントが、わずかな隙間も残さないほど雑然と広がっている。 (集中しろ。今はとにかく、目の前の勉強だ)  心の中で何度もそう念じる。  難解な数式と格闘し、無機質な英単語を脳に詰め込んでいる時間の方が、今のレオにとっては遥かに楽だった。  こうして強制的に脳を酷使していれば、余計なことを一切考えずに済むから。  何より、ケントのことを考えなくて済む。  あの騒動の夜、自分の中に渦巻いていた感情が「恋」だと自覚してしまってからというもの、レオは常に張り詰めた糸のような毎日を送っていた。  表面上は、いつも通りの水澄レオ。ただの同居人。友達のまま、隣で笑い、くだらない話をする。  それだけ。それでいい。  この距離を保つことが、自分にとってもケントにとっても一番安全なのだと、必死に胸の熱に蓋をして思い込もうとしていた。  コンコン。  ふいに、小気味よいノックの音が静かな部屋の空気を揺らした。 「レオ」  聞き慣れた、少し低くてハスキーな声。ドア越しでも分かるその響きに心臓が大きく跳ねたが、レオは努めて平坦な、いつもの冷静な声を出す。 「どうぞ」  ガチャリとドアが開き、入ってきたのは案の定ケントだった。片手には、少しよれた数学の問題集が握られている。 「この問題、どうしても分かんなくて。教えて」 「うん、いいよ」  いつものことだ。ケントがこうしてレオの部屋を頼ってくるのは、もうすっかり日常の一部になっていた。  レオは自分の参考書を脇に退け、ケントが差し出してきた問題集に目を落とす。 「ここは、まずこの公式を展開して、こっちの数字を代入するんだよ」 「あー、なるほど」  レオの解説に、ケントは珍しく真面目に耳を傾けていた。分からない箇所を素直に質問し、レオがそれに淀みなく答える。  教え、教えられ、ノートの余白が数式で埋まっていく。  気付けば、みっちり一時間が経過していた。 「あー、一気に頭使ったわ……」  ケントが両手を上に突き上げ、気持ちよさそうに大きな伸びをする。 「お疲れ様。よく集中したね」 「悪いな、いつも教えてもらってばっかで」  ケントが、ふにゃりと柔らかく笑う。その無防備で優しい笑顔に、レオの胸がまたきゅうっと締め付けられそうになり、慌てて視線を逸らした。 「……休憩、する?」 「する」  二人は机から離れ、いつものようにベッドの縁に並んで腰掛けた。これが、この部屋で休憩するときの二人の暗黙の「定位置」だった。  レオの手には、無糖のカフェラテ。ケントの手には、微糖のアイスコーヒー。  お互いのお気に入りを飲みながら、特に会話もなく、ただ静かな時間が流れていく。  窓の外は、すでに吸い込まれそうなほど真っ暗だった。  すると。  ふいに、ケントが深く、重いため息をついた。 (珍しい……)  レオは少し驚いて、隣の横顔を盗み見た。 「どうしたの」 「んー……」  歯切れが悪い。もっと珍しいことだった。  ケントは何か悩み事があっても、あまり表面に出さず、自分でケロッと解決してしまうタイプだ。  でも、今のケントは明らかに違っていた。  何か、重大なことを考えている。何度も、何度も、口を開きかけては、その言葉を飲み込んでいる。その横顔が、かつてないほど強張っていた。  レオは不思議に思って、覗き込むように首を傾げた。 「本当に、何かあった?」  沈黙が降りる。  数秒。……いや、十秒。  部屋の中の空気が、じりじりと熱を帯び、張り詰めていくような錯覚を覚える。  そして。  ケントが、決意したようにぽつりと言った。 「ごめん」 「え?」 「もう、我慢できないから……聞いてほしい」  レオは、パチパチと瞬きをした。何の話だろう。  次の瞬間。  ケントが身体をひねり、まっすぐこちらを向いた。  絶対に視線を逃がさない、強い目。射抜くような、真剣な目。  そのあまりの迫力に押され、レオは無意識に息を止める。 「レオのこと」  ケントの声が、いつもより一段と低く響く。 「ずっと好きだった」  世界から、全ての音が消えた。 「オレと、付き合ってほしい」  思考が停止した。  完全に、頭の中が真っ白になった。  聞き間違いだろうか。いや、違う。今、確かに。 「好きだ」と。「付き合ってほしい」と。目の前にいる櫻井ケントが、この自分に向かって、はっきりと言った。  意味が分からなかった。頭が完全に理解を拒絶する。 (罰ゲーム……? それとも、何かのドッキリ? 誰かがクローゼットに隠れてる?)  だって、あのケントが。自分みたいな男を? 好き?  ありえない。そんなこと、天地がひっくり返ってもあるはずがない。  あまりの衝撃に、石のように固まったまま動かないレオを見て、ケントが少し困ったように眉を下げて笑った。 「オレと付き合うのって、正直……どう思う?」  促されて、レオの乾いた唇が小さく動く。でも、混乱した頭から振り絞るようにして出てきた言葉は、あまりにも不器用なものだった。 「……わから、ない」  嘘偽りのない、本心だった。本当に、何も分からない。  心の底から嬉しいはずなのに、それ以上に「信じられない」という恐怖が勝ってしまう。  しかし、ケントは傷付いた顔をしなかった。むしろ、さらに少しだけ前へ身を乗り出し、切実な目でレオを見つめてくる。 「どうしたら、オレのこと好きになってもらえる?」  レオは、絶望に似た気持ちで目を見開いた。  違う。そうじゃないんだ。  好きじゃないから「分からない」って言ったんじゃない。好きだから。ケントのことが、好きすぎるから。  だから、失うのが怖いんだ。 「わから……っ」  言いかけて、言葉が詰まった。  視界が急ににじみ、限界を迎えた瞳から、ぽろりと大粒の涙が頬を伝って落ちた。  自分でも驚くほど、一度決壊した涙は止まらなかった。次から次へと、ボロボロと溢れ出てくる。  ケントの顔が、一瞬で真っ青になった。 「えっ……おい、レオ!?」  完全に焦った声。ケントが慌ててベッドから立ち上がる。 「ごめん。悪かった。気持ち悪かったよな、いきなりこんなこと言われたら」 「……違う……」 「忘れてほしい。今の、無かったことにして」 「違うってば!」  レオは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて叫んだ。声がガタガタに震えて、上手く息が吸えない。  でも、今言わなきゃ、本当に全てが終わってしまう。  しばらくの間、過呼吸のような激しい沈黙が部屋を満たした。  レオは袖で何度も涙を拭いながら、消え入りそうな声で、自分の胸の内を吐き出した。 「……ケントのことは、好き」  ケントの動きが、ピタリと止まる。 「好き、だよ」 「……」 「でも……っ」  胸が苦しくて、声が詰まる。 「ケントがおれを好きになることなんて、あるわけない」  それが、レオの胸の奥底にずっとあった、本音のすべてだった。  何かの間違いだ。聞き間違いか、あるいはケントの勘違い。そうでなければ、自分が見ている都合のいい夢だ。 「おれ、暗いし……」 「……」 「愛想もないし、取り柄だって何もないし……」 「……」 「もし、何かの罰ゲームとかなら、今すぐそう言って。そっちの方が……納得できるから……」  喉を締め付けるような、痛々しく、絞り出すような声だった。  長い沈黙が流れた。  ケントは、ゆっくりと、深く溜め込んでいた息を吐き出した。  その顔は、出会ってから今まで一度も見たことがないくらい、真剣で、どこか怒っているようにも見えるほどまっすぐな顔をしていた。 「オレ」  静かで、でも限りなく優しい声。 「罰ゲームで人に告白するような人間だと思われてるほど、レオに信用されてない?」  レオは、心臓が冷たくなるのを感じて、慌てて首を振った。 「違う……!」 「じゃあ何だよ」 「ケントがそんなことする人じゃないの、分かってる。頭では、分かっているよ……!」  本当に、分かっている。ケントはまっすぐで、誠実な男だ。でも、心が追いつかないのだ。  ケントはそこで、初めてすべてを理解した。  目の前で泣きじゃくっているこの愛しい同居人は、本当に、本当に、自分のことになると信じられないくらい臆病で、自信がないのだということを。  ケントはレオの前にゆっくりと膝をついてしゃがみ込んだ。下から覗き込むようにして、レオと目線を合わせる。 「レオ」  いつになく、鼓膜に心地よく響く優しい声。 「頭いいし」 「……っ」 「誰にでも、めちゃくちゃ優しい」 「……」 「いつだって手抜きしない頑張り屋だし」 「……」 「レオが作る手料理、最高に美味い」 「……」 「それに……顔も、可愛い」 「……は?」  最後の言葉に、レオの涙がピタッと止まり、思わず変な声が出た。しかし、ケントは止まらない。 「笑うと、めちゃくちゃ可愛い」 「……やめて」 「机で、静かに本読んでる姿も好き」 「やめてってば……っ」 「声も好き」 「ケント……!」 「全部、お前の全部が好きなんだけど。何が取り柄ないだよ」  レオの顔が、耳の付け根まで一瞬で真っ赤に染まっていく。  でも、ケントの目はどこまでも大真面目だった。冗談なんかじゃない。ふざけてもいない。 「こんなに可愛い奴のこと」  ケントは、レオの目をまっすぐに見つめながら、噛み締めるように言った。 「好きにならないやつなんか、いるわけないだろ。」  まっすぐ。  あまりにも、まっすぐすぎる言葉の数々。  レオは、その瞳をじっと見つめた。  逃げない。揺れない。そこにあるのは、ただひたすらに温かく、世界で一番愛おしいものを宝物みたいに見つめる、櫻井ケントの瞳だった。  その時、ようやく、レオの頑なだった心の氷が音を立てて溶けていく。 (本当に……本当に、おれのことを、好きなのかもしれない)  ケントが。この、ケントが。 「……嘘じゃ、ない……?」  子供のような、微かな声で尋ねる。 「嘘じゃない」 「本当に……?」 「本当に」 「ほんとに……?」 「本当に。何度だって言ってやるよ」  レオが納得するまで、ケントは何度でも、同じ熱量で答えた。  そして、少しだけ意地悪に、でも心の底から嬉しそうに口元を緩める。 「これ……両思いだったってことで、いいんだよな?」  レオは、まだボロボロと涙をこぼしながらも、小さく、コクリと頷いた。  その瞬間。  ぎゅう。  強い力で、身体ごと抱きしめられた。  ケントの大きな身体の熱が、ダイレクトに伝わってくる。温かい。包み込まれるように、大きい。 「好き」  ケントが、耳元で囁く。 「好き」  もう1回。 「好き」  また。 「……ケント、もういいよ」 「好き」 「聞いたってば」 「好き。大好き」  止まらない。ケントは壊れたように「好き」を連発する。  レオの耳まで真っ赤になっていた。心臓がうるさくて破裂しそうだ。それでも、ケントは抱きしめる腕を緩めず、何度も、何度も、レオの耳元で愛の言葉を囁き続けた。 「ふふ……っ、もう分かったから……っ」  ようやく。  レオの顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。泣きながら。恥ずかしそうに照れながら。  でも、確かに、心の底から幸せそうに笑った。  それを見たケントも、眩しいものを見るように、くしゃりと顔を綻ばせる。  机の上で開いたままのノート。窓の外の暗闇。  けれど、二人の部屋を包む空気は、これまでにないほど甘く、温かかった。  切なくて、もどかしくて、苦しかったに人の「片想い」が、ようやく静かに終わりを告げた、特別な夜だった。

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