6 / 12

第6話 キスしたい

 付き合いはじめて、少し経った頃。  夜。窓の外は、風の音さえ聞こえないほど静かだった。  レオの部屋には、机の上のスタンドライトと、ベッドサイドの小さな間接照明だけが点いている。  コンコン。  控えめで、でも確かにレオの耳には届くノックの音。  心臓が小さく跳ねる。ドアを開けると、そこには少し照れたような顔をしたケントが立っていた。 「……ちょっと、いい?」  ケントがひそひそ声で言う。  背後を振り返り、一階にいるショウとリサに見られていないか、廊下に誰もいないかを素早く確認してから、レオは静かに彼を部屋に招き入れた。  カチャリと鍵を閉める。 「どうしたの」 「ん?」  ベッドの縁に腰掛けたケントは、少しだけ間を空けてから、ぽつりとこぼした。 「付き合ったはいいけどさ。ちゃんと『二人の時間』って、意外と少ないよなと思って」  レオは少し考えて、小さく頷いた。  確かに、その通りだった。  二人が付き合っていることは、ショウにも、リサにも内緒だ。もちろん、学校の友達にも。  クラスも別々だから、日中は顔を合わせる機会も少ない。  帰宅して、家族みんなでご飯を食べて。交代でお風呂に入って、宿題をして。  気付けば、あっという間に一日が終わってしまう。  同じ家という空間にいる時間は長いのに。  誰の目も気にせず、ただの「恋人」として向き合う時間は、案外少なかった。 「だから……夜、少しだけ二人の時間とれたらと思って。……迷惑だった?」 「ううん。嬉しい」  レオがケントの隣に並んで座る。  それからしばらくは、他愛のない話をした。  今日の授業での出来事、友達のくだらない冗談、明日の小テストのこと。  本当に、どうでもいい話。  会話が途切れても、焦る必要はない。共有する沈黙すらも心地いい。  レオは、そんな穏やかな時間が心の底から好きだった。  ふと。  隣に座るケントが、じっとレオの顔を見つめていることに気付いた。  何か言いたそうな、でも言えないような、もどかしい顔。 「……どうしたの?」 「……一個、お願いしていい?」 「なに」  少しだけ。  ケントが、照れたように笑った。 「ハグ、したい」  レオの動きが、ピタリと固まった。  沈黙が落ちる。みるみるうちに、レオの顔が真っ赤に染まっていく。 「……急だね」 「嫌?」 「……嫌じゃない」  嫌なわけがない。  むしろ、急展開すぎて心臓がうるさく鳴り響いている。嫌じゃないからこそ、どうしていいか分からなくて困るのだ。  ケントが、ベッドの上でゆっくりと両腕を広げた。  おいで、と無言で誘っている。  レオはしばらく迷って、視線を泳がせてから、ゆっくりと彼に近付いた。  そして。  そっと、その大きな腕の中へ入った。  ぎゅっ。  柔らかく、でも逃がさない強さで抱きしめられる。 (……思ったより、近い)  温かい。  薄い部屋着越しに伝わってくるケントの体温が、じんわりと肌に浸透して心地いい。  ケントの広い肩、長い腕、厚い胸。  全部が、信じられないくらい近かった。  耳元で、かすかに衣擦れの音がする。ケントの規則正しい呼吸のリズムまで、肌で感じられる。  そして、何より。  トクン、トクンと波打つ、力強い心臓の音まで聞こえてきた。  ドクン。  ドクン。  ドクン。 「……レオ」 「なに」 「レオの心臓、すごい鳴ってる」 「……ケントだって、すごいよ」  本当だった。  胸の向こうから伝わってくるケントの鼓動も、決して負けていない。  抱きしめた腕に力が入るたび、その激しい振動が互いに伝わってくる。  ふふっ、と。  どちらからともなく、小さく笑い声が漏れた。  好きな人に触れられて、平気でいられるほど、二人は大人じゃなかった。  しばらくそうして密着していると、少しずつ緊張も解け、鼓動も落ち着いてくる。 (温かいな。安心する……)  レオは心の中でそっと呟いた。  広い胸に頬を預けると、ケントの体温がさらに近く感じられた。  ケントも同じ気持ちだった。腕の中にすっぽりと収まるレオの、柔らかなぬくもりがたまらなく愛おしい。  何も話さなくても、ただ抱き合っているだけで満たされる。  そんな時間だった。  やがて。  名残惜しそうに、ゆっくりと身体を離す。  密着していた分、離れた瞬間に、夜の空気が少しだけひんやりと感じられた。  レオが、そっと顔を上げる。  少し照れたように。でも、心の底から嬉しそうに。  ふわりと、はにかんだ。  その瞬間。  ケントの思考が、完全に停止した。 (……かわいい)    まずい。   (本当にかわいい。なんだ今の顔。反則だろ) 「……ケント?」 「……」 「どうしたの」  ケントは、両手でバッと自分の顔を覆った。 「やばい」 「え?」 「……かわいすぎる」  ストレートすぎる言葉に、レオの顔が先ほどよりもさらに赤くなる。 「そんなこと……っ」 「ある」  即答だった。  再び、強烈な沈黙が落ちる。  二人とも、キャパシティを完全に超えてしまい、落ち着かない。  そして。  顔を覆っていた指の隙間から、ケントが熱っぽい瞳でレオを見つめ、ひどく掠れた声で言った。 「……キス、したい」  レオが、ひゅっと小さく息を飲んだ。  目を見開き、少しだけ迷って。  ……こくりと、小さく頷いた。  ケントが、覆っていた手を下ろし、そっと距離を縮めてくる。  互いの吐息が触れ合うほど、顔が近付く。  緊張で、レオの長い睫毛がわずかに震えた。  そっと、目を閉じる。  チュッ。  触れるだけの。  ごくごく短いキス。  唇と唇が重なった瞬間、マシュマロのような柔らかな感触と、熱い温もりが電流のように伝わってきた。  ほんの一瞬。  たった、それだけ。  それだけなのに、耳の奥で自分の鼓動が「ドクン!」とひときわ大きく響いた。  離れたあと。  目を開けた二人は、お互いの顔を見て、同時に真っ赤になった。  レオは思わず、自分の口元を両手でギュッと押さえる。  唇に残る熱が、いつまで経っても消えない。  視線は床に釘付けで、とてもじゃないがケントの顔は見られなかった。  一方のケントも、すでに限界を迎えていた。 「おやすみ!」 「……え?」 「おやすみ!」  バッ! と勢いよくベッドから立ち上がる。  そのまま、脱兎のごとくレオの部屋から飛び出し、自室へと避難してしまった。  バタン、とドアが閉まる音が響く。  レオは、ベッドの上に一人残された。  しばらく、ピクリとも動けない。  胸がうるさい。顔が熱い。頭の中が真っ白だ。  指先で触れた自分の唇が、まだ少しだけ熱を帯びている気がした。  一方。  自室に逃げ帰ったケントは、そのままベッドへと勢いよく倒れ込んだ。 「……っ、やばい……っ!」  暗い天井を見つめながら、シーツを頭から被り、足をバタバタとさせる。  思い出すのは、つい先ほどの感触。 (柔らかかった……)  本当に。驚くほど。  かすかに残る感触を思い出すたび、胸がギューッと締め付けられるように苦しくなる。  キスなんて、はじめてじゃない。  今まで付き合ってきた女子と、それなりに何度もしてきた経験はある。  なのに。  こんなにも心臓が破裂しそうになるなんて、初めてだった。  レオの、信じられないほど柔らかい唇。  至近距離で感じた、ほのかに甘いシャンプーの香り。  震えていた睫毛。  絶対に、忘れられない。  その夜。  レオも。  ケントも。  興奮と高揚感で、なかなか眠りにつくことができなかった。  幸せすぎる寝不足というものがこの世にあるのなら。  きっと、あの夜の二人のことだ。

ともだちにシェアしよう!