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第6話 キスしたい
付き合いはじめて、少し経った頃。
夜。窓の外は、風の音さえ聞こえないほど静かだった。
レオの部屋には、机の上のスタンドライトと、ベッドサイドの小さな間接照明だけが点いている。
コンコン。
控えめで、でも確かにレオの耳には届くノックの音。
心臓が小さく跳ねる。ドアを開けると、そこには少し照れたような顔をしたケントが立っていた。
「……ちょっと、いい?」
ケントがひそひそ声で言う。
背後を振り返り、一階にいるショウとリサに見られていないか、廊下に誰もいないかを素早く確認してから、レオは静かに彼を部屋に招き入れた。
カチャリと鍵を閉める。
「どうしたの」
「ん?」
ベッドの縁に腰掛けたケントは、少しだけ間を空けてから、ぽつりとこぼした。
「付き合ったはいいけどさ。ちゃんと『二人の時間』って、意外と少ないよなと思って」
レオは少し考えて、小さく頷いた。
確かに、その通りだった。
二人が付き合っていることは、ショウにも、リサにも内緒だ。もちろん、学校の友達にも。
クラスも別々だから、日中は顔を合わせる機会も少ない。
帰宅して、家族みんなでご飯を食べて。交代でお風呂に入って、宿題をして。
気付けば、あっという間に一日が終わってしまう。
同じ家という空間にいる時間は長いのに。
誰の目も気にせず、ただの「恋人」として向き合う時間は、案外少なかった。
「だから……夜、少しだけ二人の時間とれたらと思って。……迷惑だった?」
「ううん。嬉しい」
レオがケントの隣に並んで座る。
それからしばらくは、他愛のない話をした。
今日の授業での出来事、友達のくだらない冗談、明日の小テストのこと。
本当に、どうでもいい話。
会話が途切れても、焦る必要はない。共有する沈黙すらも心地いい。
レオは、そんな穏やかな時間が心の底から好きだった。
ふと。
隣に座るケントが、じっとレオの顔を見つめていることに気付いた。
何か言いたそうな、でも言えないような、もどかしい顔。
「……どうしたの?」
「……一個、お願いしていい?」
「なに」
少しだけ。
ケントが、照れたように笑った。
「ハグ、したい」
レオの動きが、ピタリと固まった。
沈黙が落ちる。みるみるうちに、レオの顔が真っ赤に染まっていく。
「……急だね」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
嫌なわけがない。
むしろ、急展開すぎて心臓がうるさく鳴り響いている。嫌じゃないからこそ、どうしていいか分からなくて困るのだ。
ケントが、ベッドの上でゆっくりと両腕を広げた。
おいで、と無言で誘っている。
レオはしばらく迷って、視線を泳がせてから、ゆっくりと彼に近付いた。
そして。
そっと、その大きな腕の中へ入った。
ぎゅっ。
柔らかく、でも逃がさない強さで抱きしめられる。
(……思ったより、近い)
温かい。
薄い部屋着越しに伝わってくるケントの体温が、じんわりと肌に浸透して心地いい。
ケントの広い肩、長い腕、厚い胸。
全部が、信じられないくらい近かった。
耳元で、かすかに衣擦れの音がする。ケントの規則正しい呼吸のリズムまで、肌で感じられる。
そして、何より。
トクン、トクンと波打つ、力強い心臓の音まで聞こえてきた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「……レオ」
「なに」
「レオの心臓、すごい鳴ってる」
「……ケントだって、すごいよ」
本当だった。
胸の向こうから伝わってくるケントの鼓動も、決して負けていない。
抱きしめた腕に力が入るたび、その激しい振動が互いに伝わってくる。
ふふっ、と。
どちらからともなく、小さく笑い声が漏れた。
好きな人に触れられて、平気でいられるほど、二人は大人じゃなかった。
しばらくそうして密着していると、少しずつ緊張も解け、鼓動も落ち着いてくる。
(温かいな。安心する……)
レオは心の中でそっと呟いた。
広い胸に頬を預けると、ケントの体温がさらに近く感じられた。
ケントも同じ気持ちだった。腕の中にすっぽりと収まるレオの、柔らかなぬくもりがたまらなく愛おしい。
何も話さなくても、ただ抱き合っているだけで満たされる。
そんな時間だった。
やがて。
名残惜しそうに、ゆっくりと身体を離す。
密着していた分、離れた瞬間に、夜の空気が少しだけひんやりと感じられた。
レオが、そっと顔を上げる。
少し照れたように。でも、心の底から嬉しそうに。
ふわりと、はにかんだ。
その瞬間。
ケントの思考が、完全に停止した。
(……かわいい)
まずい。
(本当にかわいい。なんだ今の顔。反則だろ)
「……ケント?」
「……」
「どうしたの」
ケントは、両手でバッと自分の顔を覆った。
「やばい」
「え?」
「……かわいすぎる」
ストレートすぎる言葉に、レオの顔が先ほどよりもさらに赤くなる。
「そんなこと……っ」
「ある」
即答だった。
再び、強烈な沈黙が落ちる。
二人とも、キャパシティを完全に超えてしまい、落ち着かない。
そして。
顔を覆っていた指の隙間から、ケントが熱っぽい瞳でレオを見つめ、ひどく掠れた声で言った。
「……キス、したい」
レオが、ひゅっと小さく息を飲んだ。
目を見開き、少しだけ迷って。
……こくりと、小さく頷いた。
ケントが、覆っていた手を下ろし、そっと距離を縮めてくる。
互いの吐息が触れ合うほど、顔が近付く。
緊張で、レオの長い睫毛がわずかに震えた。
そっと、目を閉じる。
チュッ。
触れるだけの。
ごくごく短いキス。
唇と唇が重なった瞬間、マシュマロのような柔らかな感触と、熱い温もりが電流のように伝わってきた。
ほんの一瞬。
たった、それだけ。
それだけなのに、耳の奥で自分の鼓動が「ドクン!」とひときわ大きく響いた。
離れたあと。
目を開けた二人は、お互いの顔を見て、同時に真っ赤になった。
レオは思わず、自分の口元を両手でギュッと押さえる。
唇に残る熱が、いつまで経っても消えない。
視線は床に釘付けで、とてもじゃないがケントの顔は見られなかった。
一方のケントも、すでに限界を迎えていた。
「おやすみ!」
「……え?」
「おやすみ!」
バッ! と勢いよくベッドから立ち上がる。
そのまま、脱兎のごとくレオの部屋から飛び出し、自室へと避難してしまった。
バタン、とドアが閉まる音が響く。
レオは、ベッドの上に一人残された。
しばらく、ピクリとも動けない。
胸がうるさい。顔が熱い。頭の中が真っ白だ。
指先で触れた自分の唇が、まだ少しだけ熱を帯びている気がした。
一方。
自室に逃げ帰ったケントは、そのままベッドへと勢いよく倒れ込んだ。
「……っ、やばい……っ!」
暗い天井を見つめながら、シーツを頭から被り、足をバタバタとさせる。
思い出すのは、つい先ほどの感触。
(柔らかかった……)
本当に。驚くほど。
かすかに残る感触を思い出すたび、胸がギューッと締め付けられるように苦しくなる。
キスなんて、はじめてじゃない。
今まで付き合ってきた女子と、それなりに何度もしてきた経験はある。
なのに。
こんなにも心臓が破裂しそうになるなんて、初めてだった。
レオの、信じられないほど柔らかい唇。
至近距離で感じた、ほのかに甘いシャンプーの香り。
震えていた睫毛。
絶対に、忘れられない。
その夜。
レオも。
ケントも。
興奮と高揚感で、なかなか眠りにつくことができなかった。
幸せすぎる寝不足というものがこの世にあるのなら。
きっと、あの夜の二人のことだ。
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