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第7話 初めての外出
水澄レオは、朝から全く落ち着かなかった。
休日だというのに、目覚まし時計が鳴るよりもずっと早い朝六時には目が覚めてしまい、そこから何度も壁掛け時計を振り返って確認している。
待ち合わせは、午前十一時。
まだ五時間もある。
「……何やってるんだろ、おれ」
ベッドの上に胡座をかき、小さく呟いて文庫本を開く。
活字を目で追ってはみるものの、内容は一向に頭に入ってこない。ただ機械的にページだけが捲られていく。
理由は、痛いほど分かっていた。
今日は、ケントとの「初デート」だからだ。
週末はいつもサッカー部の練習や試合で忙しいケント。
その彼が、珍しく急に部活が休みになり、ぽっかりと空いた貴重な一日。
同じ家で暮らしているせいで、いつでも会える気はしているけれど、二人きりで外へ出掛ける機会は意外と少なかった。家族の目もあるし、学校ではただの友達のフリをしている。
だからこそ、「恋人」として出掛ける今日が、レオにとっては特別だった。
十時。
(……そろそろ、家を出るか)
一緒に出掛ければいいものを、家族に怪しまれないように「別々に家を出て駅で待ち合わせる」という面倒な手段を選んだのはレオだ。
階段を下りてリビングに向かうと、ソファでショウがにこにことテレビを見ていた。その隣では、リサが優雅に休日の紅茶を飲んでいる。
「おはようレオ。今日はお友達とお出かけだっけ?」
「……うん。ちょっと駅前まで」
平静を装って答えると、リサがふふっと笑った。
「ケントもね、今日は出かけるって」
「え?」
「朝から妙にそわそわしてたわよ。洗面所、ずっと占領してたし」
「珍しく髪なんて3回くらいセットし直しちゃってさ。ケントにも、可愛いところがあるのよねー」
「……っ」
鏡の前で、真剣な顔をしてワックスと格闘している大きな背中。
容易に想像できてしまって、レオは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を手で覆った。
そんな不自然な様子を見ていたショウが、不思議そうに目を丸くする。
「レオ、なんか今日、機嫌いいな?」
「別に……普通だけど」
「そう? なんか顔ニヤケてるぞ」
「本当に別に!」
誤魔化すように足早に玄関へ向かう。
けれど、髪の隙間から覗く耳だけは、隠しきれないほど赤く染まっていた。
待ち合わせ場所は、駅前の大きな時計飾りの下。
気合いが入りすぎて三十分前に着いてしまったレオは、休日の行き交う人混みの中でぽつんと立ち尽くしていた。
(やっぱり、一緒に家を出ればよかったかも……)
少しだけ後悔し始めた、その時。
「レオ!」
人混みの喧騒を縫って、鼓膜に真っ直ぐ届く聞き慣れた声。
ハッとして振り返ると、こちらに向かって小走りにかけてくるケントがいた。
黒い襟付きのシャツに、細身のジーンズ。
いつも家で見慣れているはずのラフな姿や制服姿とは違い、外の光の下で待ち合わせをして会う彼は、何故か少しだけ大人びて見えて、酷く新鮮だった。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たところ」
「嘘だな」
「……なんで」
「レオ、待ち合わせには絶対三十分前に来るタイプじゃん」
「来てないし。そんなに待ってない」
「いーや、がっつり待ってた顔してる」
ニヤリと笑って即答された。
悔しい。完全に図星だった。けれど、ケントはからかいながらも心の底から嬉しそうに笑っている。
その太陽みたいな笑顔を見た瞬間、レオの胸の奥がきゅっと鳴って、じんわりと温かくなった。
(好きだな)
と、思う。
何度でも、今日が始まる前から。
昼は、ケントが調べてくれていた駅裏の小さなカフェで食事をした。
それから話題の映画を見て、大型の本屋に寄って、お互いの好きな本や雑誌を眺める。
特別なことは、何もない。高校生のありふれた休日の過ごし方だ。
それなのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
ただ、隣にケントがいるだけで。
歩幅を合わせてくれる、その足音だけで。
「なぁ、レオ」
「ん?」
「今日のレオ、めっちゃかわいい」
「……っ!?」
本屋の通路で、レオは思わず激しく咳き込んだ。
「な、何、突然!」
「本当のこと言っただけだけど」
「人がいるところで言わないでよ!」
「ごめんごめん」
口では謝っているのに、琥珀色の瞳は全く反省していない。
レオはパタパタと手で顔を扇ぎながら、慌てて顔を背けた。耳まで一気に沸騰したように熱い。
付き合ってから、1つだけ分かったことがある。
ケントは、こういう歯の浮くような台詞を、息をするように平気で言う時がある。
しかも、本人は計算でも何でもなく、ただ思ったことを無意識に口にしているだけなのだ。
たぶん、それが一番タチが悪い。
夕方。
少し歩き疲れた二人は、駅の喧騒から少し離れた静かな公園に立ち寄った。
人影のまばらな遊歩道のベンチに、少しだけ距離を空けて並んで座る。
頬を撫でる春の風が、心地よかった。
「……今日、楽しかった?」
ケントが、少しだけ不安そうに覗き込むように聞いた。
「……うん。すっごく」
「そっか」
それだけで、ケントは心底安堵したように、パッと花が咲いたように笑う。
レオはその無防備な横顔を、静かに見つめた。
サッカーをしている時の、雄々しい顔とは違う。
学校の友達といる時の顔とも違う。
自分に向けられる、甘くて、優しくて、少しだけ不器用な顔。自分だけが知っているケントの顔。
胸の奥が、ぎゅうっと少しだけ苦しくなる。
好きだから。
好きすぎるから、こんなにも感情が揺さぶられる。
「レオ? どうかした?」
「……なんでもない」
(ケントのことが好きすぎて、胸が痛い)なんて、絶対に言えるわけがなかった。
その時だった。
ベンチの上に置いていたレオの手に、ケントの長い指先がそっと触れた。
人目の少ない場所とはいえ、ここは外だ。誰が見ているか分からない。
レオはビクッと肩を揺らし、慌てて周囲を見回した。
「ケント」
「ん?」
「外、だから……」
「分かってる」
そう言いながら、ケントは悪戯っぽく小さく笑う。
「手、だけ」
そう言って、ケントの小指が、レオの小指にそっと絡みついた。
恐る恐る。指先だけが触れ合う、ぎこちない接触。
ただそれだけなのに、火傷しそうなほどの熱が伝わってきて、胸がいっぱいになる。
恋人になって三週間。
夜の部屋で、内緒のキスはした。抱きしめ合ったこともある。
けれど、こうして外で手を繋ぐという「恋人らしいこと」は、まだ信じられないくらい緊張するのだ。
「……レオ」
「なに」
「好き」
夕暮れの静寂の中、あまりにも自然に、ストレートに言ってくるから。
レオはたまらず、真っ赤になった顔を俯かせた。
「……ずるい」
「なんで?」
「そういうの、反則」
「……言われたくない?」
下から覗き込まれ、レオは少し考えてから、小さく首を横に振った。
「……言われたい」
素直に答えると、ケントが耐えきれなくなったように吹き出した。
「マジでかわいい」
「……っ」
「好き」
「……もう、分かったから」
「好き」
「……」
絶対に、勝てない。
たぶんこれからも、ずっとこの熱には敵わないのだろう。
けれど、それも悪くないと、レオは心から思った。
触れ合っている指先に少しだけ力を込めて、握り返す。
すると、ケントも同じ強さで、ギュッとその手を握り返してきた。
オレンジ色に染まる夕暮れの中。
誰にも知られないまま。
二人だけの、少しもどかしくて甘い初デートは、静かに夜へと溶けていった。
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