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第8話 七月二十二日

 七月。  蒸し暑い風が窓を揺らす夜。  付き合い始めて、1か月ほどが経った頃だった。  ケントはある日の夕食後、冷たい麦茶を飲みながら、何気ない顔でショウに聞いた。 「そういえば、レオの誕生日っていつ?」  ショウは残りの味噌汁を飲み干しながら、あっさりと答える。 「七月二十二日」 「……へえ」  表面上は、あくまで平静を装った。  「同居人として一応聞いてみただけ」という顔を作って。  でも、内心は猛烈に焦っていた。 (あと二週間しかないじゃん……!)  危なかった。  自分から聞いていなければ、何も知らないまま当日を通り過ぎるところだった。  恋人の誕生日をスルーするなんて、彼氏としてあり得ない。 「毎年、家族でちょっといいレストランで飯食うのが恒例なんだよ。今年ももう予約してる」  ショウが嬉しそうに続ける。 「そっか」  ケントは静かに頷いた。  家族で祝う予定がちゃんとある。それはよかった。  レオが大切にされていることが分かって、安心した。  でも。  自分にとっては、付き合って初めて迎えるレオの誕生日だ。  同居人としてではなく、「彼氏」として祝いたい。  できれば、形に残るプレゼントだけじゃなくて、ずっと心に残るような思い出を作りたい。  だけど、学校ではもちろん秘密。  この家の中でも秘密。  二人きりで出かける口実を作るのは、意外と難しい。  その日の夜。  ケントは、ひっそりとレオの部屋を訪ねた。  コンコン、と控えめにノックする。  「どうぞ」と、少し籠もった小さな声が返ってきた。  そっとドアを開ける。  机に向かって本を読んでいたレオが、不思議そうに顔を上げた。 「どうしたの?」 「……誕生日」 「え?」 「祝いたい」  あまりにも直球すぎる言葉。  レオが目を丸くして、パチパチと瞬きをする。 「……ありがとう」  少しして、状況を理解したレオが、ふにゃりと照れたように笑った。  その顔を見ているだけで、祝いたい理由がどんどん増えていく。こんなに可愛い笑顔、自分だけのものにしておきたい。 「どっか行く?」 「どこに?」 「……水族館、とか」  完全に思いつきだった。夏の暑さを避けられる場所、というくらいの理由。  でも。  レオの目が、ぱっと明るく輝いた。 「行きたい」  即答だった。  どうやら、正解を引いたらしい。  ケントは、胸の奥が少しだけ誇らしく、嬉しくなった。  七月末。ケントの部活が休みの日。  空は抜けるように青く、朝から茹だるような暑さだった。 「夕飯までには帰ってこいよ。予約の時間あるからな」  玄関で、ショウに念を押される。 「はーい」  レオが元気よく返事をして、2人で家を出発した。  最寄り駅から、電車に乗る。  車内は休日でそこそこ混み合っていた。  並んで座れる席はあったけれど、2人は隣には座らなかった。向かい合って立つこともない。  学校の近くではないとはいえ、どこで誰に見られるかわからない。  男二人で休日に出かけること自体は不自然ではないが、無意識に漏れ出る「恋人特有の空気」を悟られるわけにはいかなかった。  付き合っていることは、まだ誰にも言えない秘密。  だから、少しだけ距離を取る。  ただの、友達の距離。  本当は隣に座って、肩を寄せ合いたい。  揺れる車内で、そっと手を繋ぎたい。  でも、我慢。  窓の外を流れる夏の景色を見つめながら、二人だけの秘密の時間を噛み締めた。  水族館は、冷房が効いていて涼しく、思った以上に素晴らしい空間だった。  暗い館内。  壁一面に広がる、巨大な水槽。  青い光の中を、色とりどりの魚たちがゆっくりと泳いでいく。  幻想的に浮遊するクラゲ。  氷の上を滑るペンギン。  レオはそのたびに、子供のように目を輝かせて足を止めた。 「……きれい」  水槽に張り付くようにして、小さく呟く。  青い水面からの反射光が、レオの白い横顔を神秘的に照らし出していた。  その横顔を見つめながら、ケントは心の中で密かに思う。 (……レオだって、きれいだ)  どんな魚よりも。  ライトアップされた水槽よりも。  たぶん、この世界の全部よりも。  でも、絶対に言えない。  言ったら、レオは顔を真っ赤にして怒るだろう。  それに、さすがに自分自身も照れくさくて爆発してしまいそうだ。  だから、今は言わない。  ただ、静かに隣を歩いた。  手が触れ合わない、少しだけの距離を保ちながら。  それでも、心はずっとぴったりとくっついていた。  夕方。  まだ明るい日差しの下を歩いて帰宅する。  玄関でスニーカーを脱ぎながら、レオが振り返った。 「今日はありがとう」 「ん」 「すっごく、楽しかった」  そう言って、今日一番の笑顔を見せる。  ケントも、つられて優しく笑った。 「また行こうな」 「うん」  その無防備な笑顔を見られただけで、今日の計画はもう十分すぎるほど大成功だった。  夜。  予定通り、家族でレストランへ足を運んだ。  レオはとても楽しそうだった。  弟を祝うショウも嬉しそうで、リサも一緒になってシャンパンで乾杯して祝っていた。  同居人として、ケントも当然その輪に参加し、一緒になって笑い合った。  でも。  ケントの「誕生日祝い」は、まだ終わっていない。  その日の夜。  食事が終わり、家に戻って、レオが自室で一息ついた頃。  ケントは、再びそのドアをノックした。 「ん? どうしたの」 「……プレゼント」  背中に隠していた小さな紙袋を差し出す。  レオが、驚いたように目を見開いた。 「え……。今日、水族館に連れてってもらって、十分もらったのに」 「いいから。受け取って」  紙袋から出てきたのは、上質な革のペンケースだった。  そして、その下からもう1つ。  白い、シンプルな封筒。 「手紙……?」 「……あとで、一人の時に読んで」  ケントは即答した。  今、目の前で読まれたら、恥ずかしくて確実に死ぬ。  耳まで真っ赤にしているケントを見て、レオは少しだけ愛おしそうに笑った。 「……ありがとう」 「明日から、使って」 「うん。絶対使う」  本当に、心の底から嬉しそうだった。  ケントが逃げるように部屋を出て行った後。  レオはベッドに腰掛け、静かな部屋の中でプレゼントと向き合った。  まず、ペンケースを手に取る。  シンプルで大人びたデザイン。手触りも良く、すごく使いやすそうだ。嬉しい。  でも。  それ以上に気になって仕方がないのは、白い封筒の手紙だった。  レオは、深呼吸をしてから、ゆっくりと丁寧に封を開ける。  中には、一枚の便箋。  見慣れた、少し不器用で、角張った大きな文字。  『字が下手でごめん。  普段あんまり手紙とか書かないから、おかしい所もあると思う。  その時は笑ってください』  冒頭の一文を読んで、思わず少し吹き出してしまった。  本当に、ケントらしい。  気取った言葉なんて1つもない。文章は決して上手じゃない。  でも。  一文字、一文字。  筆圧を強くして、レオのために、一生懸命考えて書いてくれたことが痛いほど伝わってくる。  そして、最後。  手紙の締めくくり。  『生まれてきてくれてありがとう。  レオに会えてよかった。  これからも一緒にいよう』  その三行を目にした瞬間。  視界の文字が、ぐにゃりと滲んだ。  気付けば、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。  ぽた、と。  涙の雫が便箋に落ちて、小さな染みを作る。  少し前まで。  レオはずっと、心の奥底で重い問いを抱えていた。  両親がいなくなり、環境が変わり。 「自分が生きる意味なんて、あるんだろうか」と。 「自分は本当に、誰かに必要とされているんだろうか」と。  ずっと。  どこかで。  孤独な夜に、一人で考えていた。  だから。  ケントの、その飾り気のないストレートな言葉が。  心のいちばん柔らかくて、いちばん痛い場所に、真っ直ぐに届いた。 『生まれてきてくれてありがとう』  たぶん。  この世界で、一番欲しかった言葉だった。  涙を拭いながら、何度も。  何度も、その三行を読み返す。  手紙なんて絶対に書かないような、不器用な彼が。  わざわざ自分のために、ペンを執ってくれた。  文字として。  決して消えない形として、残るものをくれた。  少しして、涙が落ち着いてから。  レオはスマホを手に取り、メッセージ画面を開いた。  伝えたい想いが多すぎて、何度も文字を打っては消し、書き直して。  ようやく、短い文章を送った。  『手紙ありがとう。  ケントと出会えて、本当によかった。  これからも一緒にいてください』  送信ボタンを押す。  途端に、心臓がバクバクと鳴り出し、恥ずかしくなって顔がカーッと熱くなった。  でも。  どうしても伝えたかった。  彼からもらった大きな愛に、自分も、精一杯応えたかった。  数秒後。  手のひらの中で、スマホが短く震えた。  即座に来た返信。  画面を開く。  そこにあったのは、スタンプが1つだけ。  満面の笑みで親指を立てている、犬のキャラクター。  文字は、何もない。それだけ。  レオは、涙声のまま吹き出した。 「……それだけ?」  小さく笑って、画面の犬の頭を指で撫でる。  でも。  きっと、それで十分だった。  あのスタンプの向こうで、ケントがどんな顔をして照れているのか、痛いほど想像できたから。  この先。未来の話。  レオは夢を叶え、作家になる。  本を出し、サイン会を開き、ファンレターの山を目の当たりにすることになる。  その中には、もっと美しい言葉や、心を激しく動かされるような感動的な文章も、きっとたくさんあるだろう。  それでも。  水澄レオにとっての、「一番の宝物」は生涯変わらない。  高校二年生の誕生日。  夏の夜。  大好きな人が、慣れない字で、自分のためだけに一生懸命書いてくれた。  たった一通の、不器用な手紙。  それがずっと。  これからの人生の最後まで。  レオの人生で、いちばん大切で、いちばん温かい手紙だった。

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