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第9話 地獄の勉強合宿

 高校二年生の夏休みも、もうすぐそこまで迫っていた。  つまり、お決まりの三者面談の時期だ。    進路指導室の前に貼り出されたプリントを見ながら、ケントは珍しく足を止めていた。 『希望者対象・夏期勉強合宿』  一週間。山の中にある外部研修施設。朝から晩まで勉強漬け、自由時間ほぼなし、スマホ没収。  今までだったら、行くなんて選択肢は絶対になかった。  文字を見るだけで吐き気がするような条件だ。 「お待たせ」 「悪いな、仕事休んでもらって」 「そういうことは気にしなくていいの!」  面談には、いつもリサが来てくれる。  姉であり、同時に母のような存在でもある。  そう言うと、リサは「こんな大きい子供がいる歳じゃありません」と怒るだろうけれど。 「失礼します」 「先生、いつもケントがお世話になっております〜」  リサがお得意の完璧な営業スマイルで挨拶をする。  担任の鼻の下が、若干伸びたのが分かった。 「——で、進路のことですが」  一通りの成績確認が終わり、本題に入る。 「櫻井はサッカーの成績が優秀だし、実業団に所属する選択肢もあるな。実際にいくつか声も掛かっているだろう。何か考えているか?」  去年の面談を思い出す。  『まだ何も決めてない』『わからない』『希望もない』。  たしか、そんなふうに投げやりな答えを返したはずだ。  けれど。 「大学に」 「「え?」」  リサと担任の声が見事に重なり、二人は丸くした目をケントに向けた。 「大学に行って、勉強したいです」  自分から、こんな台詞が出てくるなんて。 「だ、大学に行ってどうするんだ?」 「ちゃんとしたところに就職したいんで」  学歴なんて関係ない、実力主義だと言う人もいる。  でも、大学へ行かないと就けない仕事だって、まだまだ山ほどある。  選択肢も確実に限られてくる。  ——毎日必死に働くリサを見ていると、つくづくそう思うのだ。 (ごめん、リサ)  リサは両親を亡くしてから、高校を辞めた。  昼と夜の仕事を掛け持ちして、身を粉にして働いた。  自分とレオが、必死に生きるための金を稼いでくれた。  それに比べて、自分はどうだ。  何の生産性もない。  そのくせ、リサが行けなかった大学に、今さら行きたいなんて。  今まで散々勉強を放棄してたくせに、バカみたいなことを言っている。 「大学ねえ……」  担任も頭ごなしに否定はしないが、あまり本気で考えていない様子だ。  無理もない。うちのスポーツ科の生徒の大半は大学受験なんてしないのだから。  ふと隣を見ると、リサが震えていた。  両手で口元を覆い、ポロポロと泣いている。 「ごめんリサ、さっきの忘れて」  自分勝手すぎた。  何もリサの金銭的な負担や気持ちを、考えていなかった。  慌てて撤回しようとするケントを、リサが強く遮る。 「違う」 「え」 「嬉しくて、つい……っ」  リサが涙で濡れた顔を上げる。 「だってケント、今までそんなこと言う子じゃなかった」 「どこかで自分の人生を諦めてて、投げやりで、危なっかしくて」 「でも……今は将来について、前向きに考えてる」 「こんなに嬉しいこと、ないわ」  必死に絞り出すように、泣きながら話すリサ。  確かにその通りだった。  今までの自分は、将来なんてどうでも良くて、自分の人生なんて価値がないと思っていた。  でも。  今は、レオと一緒に未来を進んでいきたいと、ちゃんと思っている。  それが全ての原動力だった。 「リサ……」 「お金のことは一切心配しないで! ケント一人、大学に行かせるくらい余裕で貯めてるんだから!」  リサは涙を拭い、力強く親指を立てた。  担任も、咳払いをして姿勢を正す。 「……今までサボったぶん、かなり厳しい道のりになるぞ」 「やると決めたら最後までやれよ!」 「うっす」  大学に行くのが当たり前みたいな世界にいる、頭のいいレオ。  まだ将来の明確な夢は分からない。  でも、高校を卒業したあとも、堂々とあいつの隣にいたい。  そのためには。  少しだけ、いや、何が何でも死ぬ気で頑張ってみようと思った。  その日の夜。  レオはリビングのテーブルで、学校で配られたプリントを見ていた。  『夏期勉強合宿』の案内。  去年は当然のように行かない選択肢を選んだ。  正直、今年も行く気はなかった。  自分で計画を立てて勉強した方が効率いいし、何より集団生活が好きではない。  すると。  向かい側でスマホをいじっていたケントが、唐突に言った。 「オレ、申し込んだ」  レオが顔を上げる。 「え?」 「勉強合宿」  ブッ!!  隣でコーヒーを飲んでいたショウが、派手に吹き出した。 「ケントが!?」 「あははっ!」  リサまで手を叩いて笑っている。 「失礼だな」 「ごめんごめん、でもみんな同じ反応をすると思うわよ」 「リサ?」 「はいはい、ごめんね」  全然悪いと思っていない、明るい顔だった。  レオは手元のプリントに視線を落とす。  そして、少しだけ考えた。 「……おれも行こうかな」  今度は、ケントが分かりやすく固まった。 「え?」 「勉強合宿」 「レオも?」 「うん」  静かに頷く。  そして、ショウの方を見た。 「ショウ兄、行ってもいいよね?」 「もちろん! レオの勉強代ならいくらでも出すぞ!」  ケントの顔が、パッと花が咲いたように明るくなった。  その顔を見てしまったレオは、慌てて視線を逸らした。  なんだかひどく照れくさい。  合宿初日。  バスで山奥の施設に到着するなり、無慈悲な宣告が待っていた。 「全員、スマホをこの箱に入れなさい。最終日まで預かります」  レオはまだ平気だった。  問題はケントだ。絶望に満ちた顔でスマホを見つめている。 「一週間もレオと連絡取れねぇじゃん」  そして勉強は想像以上に厳しかった。  朝六時起床。  授業。演習。自習。テスト。授業。自習。寝る。  その繰り返し。  レオとケントは学力別にクラスも違う。  食事時間すら微妙にずらされていた。  会えない。  同じ屋根の下にいるのに、本当に会えない。  四日目の夕方。  レオが少し離れた図書スペースで、参考書を探していると。  誰もいないはずの廊下の向こうから、小声が聞こえた。 「……レオ」  振り返る。  壁の陰から顔を出したのは、ケントだった。  思わず笑みがこぼれてしまう。 「ケント」 「やっと見つけた」 「なにしてるの、自習の時間でしょ」 「抜け出してきた」 「怒られるよ」 「五分だけ」  少し息を切らせながら言う。  本当に、この五分のためだけに走って会いに来たらしい。  その不器用な事実だけで、レオの胸が熱く温かくなる。 「勉強、どう?」 「頭が爆発しそう。日本語読んでる気がしない」 「頑張って」 「レオは?」 「難しいけど、楽しいかも」 「絶対余裕じゃん」 「そんなことないよ」  言葉を交わす。  他愛もない会話。  けれど、ケントは少しだけ黙った。  それから、琥珀色の瞳でレオを真っ直ぐに見つめて。 「……会いたかった」  小さく、掠れた声で言った。  レオの心臓が、大きく跳ねる。  誰もいない廊下。  窓から差し込む、オレンジ色の夕方の光。  静かな、二人だけの空間。 「……おれも」  我慢できずに、つい素直に答えてしまう。  ケントが目を丸くした。 「マジ?」 「うるさい」 「今の、もう1回言って」 「言わない」 「ケチ」  思わず二人とも、声を殺して笑い合う。  そして。  廊下の両端に誰もいないことを素早く確認して。  お互いの顔が近づき、唇が一瞬だけ触れる、ごく軽いキスをする。  ちゅ、と小さな音が響いた。  たった数分。  それだけなのに。  お互いの肩に乗っていた重い疲れが、ふっと軽くなった気がした。  最終日前夜。  レオは教室で、黙々と問題集を解いていた。  ふと席を立ち、戻ってくると、机の端に小さなちぎられたメモが置かれていることに気付く。  見覚えのある、少し癖のある字。 『あと一日』  それだけ。  名前もない。  でも、誰が書いたかは一目で分かる。  レオは思わず声を殺して笑った。  シャープペンシルを取り、そのメモのページの隅に小さく書き足す。 『頑張ろう』  そのメモを、ケントの指定席の引き出しにそっと滑り込ませた。  翌朝、そのメモは消えていた。  代わりに、レオの筆箱の下に新しい紙片。 『終わったら、アイス食べよ』  そして、合宿最終日。  すべてのカリキュラムが終了し、スマホが返却される。  解放感に満ちた生徒たちがロビーで騒ぐ中で。  ケントは真っ先に、人混みの中にレオを探した。  見慣れた、少し細い背中。  亜麻色の髪。  見つけた瞬間、思考よりも先に自然と足が動いていた。 「レオ!」  呼ばれて、レオが振り返る。  一週間の疲れが滲んだ顔。でも、その目は優しく笑っていた。 「お疲れ」 「お疲れ!」  交わしたのは、その一言だけ。  なのに、一週間まともに会えなかった分の寂しさが、全部言葉の裏から溢れ出しそうになる。  もちろん、周りには同級生や先生の目がある。  だから、抱きしめることも、手を繋ぐこともできない。 (――あとで家に帰ったら、たぶん二人とも、少しだけ素直になる)  そんな甘い予感を胸に抱きながら。  二人は、赤く染まり始めた夏の終わりの空を、眩しそうに見上げた。

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