13 / 54

第13話 幸せそう

 うだるような夏の暑さが少しだけ和らぎ、乾いた風が吹き始めた頃。  特進科の教室には、夏休み前と何も変わらない空気が流れていた。  黒板を叩くチョークの音。  息つく暇もなく繰り返される小テスト。  山積みの課題。  焦燥感を煽るような、進路の話。  毎日、そんな慌ただしいことの繰り返しだ。  昼休みを告げるチャイムが鳴る。  レオはいつものように、自分の椅子を引いてハルとカズの席へ向かった。  窓際の一角。  約束したわけでもないのに、自然と三人が集まる定位置だ。 「……あー、マジで腹減った」  カズが、机にだらりと突っ伏す。 「お前、それ一時間目終わった時からずっと言ってるぞ」  向かい側に座ったハルが、呆れたようにため息をついた。 「だって腹減るじゃん。頭使うとカロリー消費するんだよ」 「大して使ってないだろ」  そんな軽口の叩き合いを聞きながら。  レオは小さく笑い、鞄から弁当箱を取り出した。  その瞬間。 「あれ?」  突っ伏していたカズが、顔を上げて指を差した。 「レオ、弁当箱変えた?」 「え?」 「なんか、でかくなってね?」  言われて、レオは自分の手元にある紺色の弁当箱を見下ろす。 「……ああ」  確かに、少し大きくなっていた。  夏休み前までは、カバンの中でかさばらないような小さめのものだった。  今は、それよりひと回り大きいサイズに変わっている。 「最近、ちょっと足りなくて」  レオが正直に答える。  すると、カズとハルが同時にピタリと固まった。 「……足りない?」 「レオが?」 「え?」  二人の大げさな反応に、今度はレオが不思議そうな顔をする。 「いや、普通にお腹すくから」 「普通じゃねえよ」  カズが即座に否定した。 「レオ、前まで猫みたいな量しか食ってなかっただろ。おにぎり一個とスープ、みたいな」 「そこまで少なくないよ」 「いや、そこまでだった」  ハルも深く頷いて同意する。 「最近、確かによく食べるよな」 「そう?」 「そう」  二人の声が見事に揃った。  レオは少しだけ首を傾げる。  本人には、あまり自覚がない。  ただ、思い当たる節はある。  夏休みの間、ケントと一緒にご飯を食べる機会が、格段に増えたからだ。 『もうちょっと食べたら』 『これ美味しいから一口食ってみ?』  向かいの席で、嬉しそうに笑うケントの声。  それに釣られて食べるうちに、少しずつ胃袋が大きくなっていった。のかも。  でも、本人からするとそれはとても自然で、心地よい変化だったのだ。 「遅れてきた成長期じゃね?」  カズが適当なことを言う。 「高二の今?」  すかさずハルが突っ込む。  そのテンポの良さに、レオは思わずふふっと小さく吹き出して笑った。  その自然な笑顔を見て、ハルはふと目を細めた。  なんだろう。  最近。  レオが、とてもよく笑う。  いや、元々まったく笑わない人間だったわけではない。  少し分かりづらいけれど、レオなりに笑うことはあった。  でも。  今は少し違う。  表情が、驚くほど柔らかいのだ。  肩の力がすっきりと抜けている。  夏休み前までのレオは、どこかずっと張り詰めていた。  いつも周りに気を遣って。  必要以上に気を張って、頑張って。  ふとした瞬間に、ひどく疲れているようにも見えた。  でも、今は違う。  ただ、楽しそうだ。  理由は分からない。  でも。  夏休みの間に、何かすごく良いことがあったんだろうな。  ハルは、直感でそう感じていた。  昼食を食べ終えた頃。  カズが「購買でパン買ってくる」と言って席を立った。  騒がしいカズがいなくなり、窓際の席には少しだけ静かな時間が流れる。  ハルはペットボトルのお茶を飲みながら、窓の外を眺めたまま言った。 「なあ」 「なに?」  レオが顔を上げる。 「最近、楽しそうだな」  不意を突かれ、レオがパチリと瞬きをした。 「……そう、かな」 「そう」  ハルは視線をレオに戻し、優しく笑う。 「なんか、いいことあった?」  レオは、一瞬だけ考えた。  いいこと。  たくさん、ある。  ケントと付き合い始めたこと。  一緒に出かけたこと。  甘い声で名前を呼ばれたこと。  全部、全部。  でも。  まだ言えない。  学校では、絶対の秘密だから。 「……まあ」  レオは、少しだけはにかむように笑った。 「ちょっとだけ」  その曖昧な答えと、隠しきれない甘い表情だけで十分だった。  ハルはそれ以上、深くは聞かない。  聞き出そうと思えばできる。  でも、レオが言わないのなら、まだ言えない理由があるのだ。  それくらいは、付き合いの中で分かっている。  だから。 「そっか」  と、短くそれだけ言った。  そして、少しだけ間を置いて。 「何か変わったことあったら、いつでも言えよ」 「え?」 「良いことでも、悪いことでも」  ハルは、わざとらしく肩をすくめてみせた。 「オレたち、友達だからな」  友達。  その言葉の響きに、レオは少しだけ目を見開いた。  胸の奥が、じんわりと温かくなる。  そして。 「……うん」  安心したように、小さく頷いた。  たぶん。  いつか、ちゃんと話せる日が来る。  自分には今、すごく大切な人がいること。  その人のおかげで、退屈だった毎日が少しだけ色づいて、楽しいこと。  今までよりも、ずっと自然に笑えるようになったこと。  きっと、すべてを打ち明けたら。  ハルも。  購買から戻ってくるカズも。  すごく驚くかもしれない。  でも。  この二人なら、きっと受け止めてくれる。  笑って、祝ってくれると思う。  そんな確かな気がした。  窓の外。  空は、どこまでも高く澄み渡っていた。  不意に、ポケットの中で小さな振動。  レオは何となくスマホを取り出し、画面を見た。  ロック画面。  新着メッセージ。  送り主は、ケント。 『昼、ちゃんと食えよ』  ただの、短くぶっきらぼうな一文。  それなのに。  レオの口元が、自分でも止められないほど自然に、ゆるゆると緩んでいく。  その完全に無防備な様子を、目の前で見ていたハルは。 「あー……」  とだけ、納得したように溢した。 「?」 「いや、別に」  レオが不思議そうに首を傾げる。  ハルは誤魔化すように笑って、お茶を飲んだ。  何も言わなかった。  でも、心の中では確信を持って思う。  やっぱり。  最近のレオ。  どう見ても、誰かに恋をしていて。  死ぬほど幸せそうだな、と。

ともだちにシェアしよう!