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第15話 窓辺の月

 高校一年生、十月。  季節は秋へと移り変わる頃。  少しだけ肌寒くなってきた、ある日のこと。  その日、リサはやたら機嫌が良かった。  リビングで行き来するたび、軽い足音が響く。  理由もなく鼻歌なんて歌っている。  夜、ソファでスマホを眺めていたケントに、リサが弾んだ声で話しかけてきた。 「ねえケント」 「ん?」 「水澄レオくんって知ってる?」  聞いたことがない名前、だった。  いや、聞いたことがあったかも知れない。  とにかく耳に馴染みのない、どこか響きが綺麗な名前。 「誰」 「ショウの弟」  ああ、納得がいった。  水澄ショウ。リサの彼氏。  何度か、リサの紹介で会ったことがある。  明るくて、誰にでも優しくて、いっつもにこにこ笑っている人。  周りに自然と人が集まるような、太陽みたいな人だった。 「弟いるんだ」 「そうなの!」  リサは自分のことのように嬉しそうだった。 「なんとケントと同い年で同じ高校!」 「へぇ」  興味はない。  その時は、本当に。  一ミリだって興味はなかった。  他人の弟のことなんて、どうでもよかった。 「特進科らしいんだけどね」  特別進学科。  ケントのいるスポーツ科とは、対極にある場所。  受ける授業も違う。  グラウンドと図書室くらい、住む世界が違う。  普通に暮らしていれば、関わる機会なんてほとんどない。  だから、その話はそこで終わった。  はずだった。  翌日。  昼休みのチャイムが鳴る。  いつもなら、真っ先に購買へ走るか、あるいは、友達とボールを持ってグラウンドへ飛び出すか。  それなのに、気付けばケントの足は、いつもと違う方向へ向かっていた。  そこは、特進科の教室が並ぶ廊下だった。 「……何やってんだオレ」  ぽつり。  独り言が漏れる。  自分でも分からない。  本当に、何を考えているのか。  何しにわざわざ、こんな静かな場所まで来たんだ。  ただ、昨日から妙に気になっていた。  胸の奥に、トゲみたいにその名前が引っかかっていた。  水澄レオ。  どんな奴なんだろう。  あの、いつも明るいショウの弟だ。  兄貴みたいな感じなのか。  やっぱり、人当たりが良くて。  よく笑って。  賑やかなタイプなのか。  そんなことを考えながら、目的の教室の前にたどり着く。  廊下を歩くケントの姿は、明らかに浮いていた。  背が高い。体格が良い。  特進科の生徒たちが、怪訝そうな視線を向けてくる。  面倒になり、近くのドア付近にいた男子生徒を捕まえた。 「悪い」 「ひっ」  怯えられた。  あからさまに肩を震わせている。  まあ、仕方ない。  いきなりガタイのいい男に声をかけられたのだから。 「水澄レオってどいつ?」  男子生徒は、明らかに緊張しながら教室の中を見回した。  ケントの威圧感に圧されている。 「あ、あの……」  ひっそりと、窓際の方を指差した。 「窓際の席で、本読んでる人、です」  ケントも、釣られるように視線を向けた。  そして、その瞬間だった。  世界が、止まった。気がした。  窓際。  十月の、少し傾きかけた午後の光。  静かな教室の片隅。  一人の男子生徒が、そこにいた。  机に肘をつき、静かに本を読んでいる。  伏し目がちの横顔。  周囲の騒がしさから、完全に遮断された空間。  前髪が少し目にかかった、柔らかな亜麻色の髪。  窓から差し込む透明な光が、その髪を綺麗に透かしていた。  きらきら。  光の粒子が、彼の周りで踊っているように見えた。  柔らかく。  そして。  あまりにも、綺麗だった。  女の子みたい、というのとは違う。  男の細さ。  線の美しさ。  どこか儚くて、触れたら消えてしまいそうな空気。  あまりにも綺麗で。  ケントは、息をするのを忘れた。  心臓が、ドクンと大きな音を立てる。  胸の奥が、カッと熱くなる。  言葉を失う。  想像と、全然違った。  ショウみたいな、太陽のような人だと思っていた。  でも、違った。  彼は、月だった。  静かで。  冷ややかで。  どこか近寄りがたい、孤高の光。  なのに。  目が離せない。  網膜に、その姿が焼き付いて離れない。  心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥で鳴り響いている。  呆然と立ち尽くすケントを見て、案内してくれた男子生徒が恐る恐る聞いた。 「……呼んできましょうか?」  その声で、ケントはハッと我に返った。  急激に、心臓がバタバタと暴れ出す。 「……いや」  思わず、拒絶するように断った。  声が、少しだけ掠れた。  呼ばなくていい。  というか。  今、呼ばれたら確実に困る。  何を話せばいいんだ。  何のために見に来たのか、自分でも説明がつかないのに。  心臓が破裂しそうだった。  だから、ケントは逃げるように、その場から立ち去った。  渡り廊下を、早足で駆け抜ける。  自分の胸に手を当てる。  ドクンドクンと、信じられない早さで脈打っていた。  たった数秒。  それだけだった。  ほんの一瞬、遠くから姿を見ただけ。  それだけだったのに。  その日、午後の授業は、一切頭に入らなかった。  教科書を開いても、黒板を見ても、文字が素通りしていく。  大好きなサッカーも。  購買で買った美味いはずの昼飯も。  友達との、いつものバカみたいな会話も。  全部、上の空だった。 「ケント? 聞いてる?」 「あ、あぁ……悪い」  生返事ばかり。  気付けば、また思い出している。  あの、窓際の席。  一冊の本。光に透ける、亜麻色の髪。  穏やかに降り注ぐ、午後の光。  伏せられた、長い睫毛。  何なんだ、これ。  頭がどうにかなりそうだった。  目を閉じても、鮮明にあの横顔が浮かび上がってくる。  放課後、グラウンド。部活の時間。  ユニフォームに着替え、スパイクを履く。  いつもなら、ここで頭が切り替わるはずだった。  ピッチに立ち、ボールを蹴る。  でも。  集中できない。  簡単なパスを、トラップミスした。  あり得ない方向にボールが転がっていく。 「ケント」  チームメイトが、怪訝そうな顔で近寄ってきた。 「今日、お前変じゃね?」 「そう?」 「そうだろ。心ここにあらずって感じ」  そうかもしれない。  自分でも、自分が狂ってしまったんじゃないかと思う。  ボールを追いかけていても、頭の片隅で、あの静かな横顔がチラついて離れない。  キックに、いつものキレがなかった。  夕方、練習を終え家に帰る。  いつも通り、風呂に入る。  温かいお湯に浸かっても、頭の中はちっともすっきりしない。  むしろ、熱が身体にこもるように、余計に息苦しくなる。  ベッドに入る。部屋の明かりを消す。暗闇が広がる。  それでも。  やっぱり、思い出す。  名前。  水澄レオ。  口の中で、音を立てずにその名前を呟いてみる。  それだけで、胸の奥がきゅうっと締め付けられるように痛む。  顔。  綺麗な、あの横顔。  光の中に溶けてしまいそうだった、あの光景。  そして。  夜の静寂の中で、初めて、ケントは深く考えた。 「……何なんだ、これ」  分からない。  本当に分からなかった。  こんな気持ち、生まれて初めてだった。  今まで、女子に告白されたことなら何度かある。  でも、誰かを好きになる感覚なんて、知らなかった。  ただ、理屈抜きで、心が叫んでいた。  もう一回。  あの綺麗な顔が、見たい。  今度は遠くからじゃなく、近くで。  どんな声で話すんだろう。  声が、聞きたいと思った。  どんな風に、オレの名前を呼ぶんだろう。  名前を、呼んでみたいと思った。  それが何を意味するのか。  この時のケントは、まだ正確には知らない。  これが世間一般で言う、どんな感情なのか。  言葉の定義なんて、どうでもよかった。  高校一年生の十月。  肌寒い秋の夜。  櫻井ケントが、人生で初めて、狂おしいほどの恋に落ちた日だった。

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