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第29話 バレンタイン
高校二年生の二月。
吐く息はまだ白く、マフラーをきつく巻き直したくなるような厳しい寒さが続く季節。
街中のショーウィンドウは、鮮やかな赤やピンク。
そして甘く濃厚なチョコレート色に少しずつ染まり始めていた。
放課後の図書室。
レオは開いたままの参考書から視線を外した。
窓の外の冬空を見つめながら一人、静かに悩んでいた。
バレンタインデー。
恋人同士になってから、初めて迎えるその特別な日。
そんな日を目前に控えて、レオの頭の中は彼氏であるケントのことでいっぱいだった。
ケントは甘いものが好きだ。
普段はクールで大人びているくせに。
ことスイーツ、特にチョコレートに関しては目がない。
コンビニの新作チョコもこまめにチェックしているし。
休日に二人で出かけた時も、よくカフェで甘いものを頼んでいる。
だから、恋人として迎える初めてのバレンタインに「何もしない」という選択肢は、レオの中に微塵もなかった。
けれど、問題がある。
二人の関係は、同居している兄のショウや、その恋人であるリサには秘密なのだ。
家で堂々とハート型のチョコレートを作ったり。
可愛らしくラッピングしたり。
そんなことをしたら、鋭いリサには確実に怪しまれるだろう。
かといって、ショウたちには何も用意せず、ケントにだけこっそりと渡すのも不自然極まりない。
(……どうしよう)
いっそ外で待ち合わせて渡すか?
いや、せっかく一緒に住んでいるのに。
わざわざバレンタインの日に外で会ってチョコだけ渡して帰ってくるなんて。
それこそ不自然だ。
頭を抱えながら、レオは深いため息をついた。
どうすれば怪しまれずに。
かつ、ケントを喜ばせることができるのか。
それは今のレオにとって。
目の前に広がる大学受験の数学の問題よりも、はるかに難しく、正解のない難題だった。
そして迎えた、二月十四日。
朝、教室のドアを開けた瞬間から、学校の空気は明らかにいつもと違っていた。
女子生徒たちは朝から数人ずつのグループで集まっている。
手作りのラッピング袋を見せ合ったり。
そわそわと廊下を気にしたり。
一方の男子生徒たちも。
平静を装いながらも、どこか浮ついた様子で不自然に周りをキョロキョロと見回していた。
学校全体を包み込む、甘くて、少しだけ緊張感のある空気。
「今日のオレ、なんかモテる気がする」
昇降口で靴を履き替えている時、友人のカズが根拠のない自信に満ちた顔でそう宣言した。
隣で靴紐を結んでいたハルが、一切の感情を排したような冷ややかな声で返す。
「毎年言ってるよな」
「いや、今年は違う。今日のオレの星占いは第一位、恋愛運も最高潮に達している」
「去年も全く同じこと聞いた」
「今年は違うんだって!」
「去年も」
「だから今年は――」
「うるさい。朝からやかましい」
テンポ良く繰り広げられる二人の不毛な漫才に、レオは思わず苦笑してしまった。
バレンタイン特有の浮き足立った空気。
いつもの日常に少しだけスパイスを加えてくれているようで、嫌いではなかった。
しかし、教室へ入り自分の席へ向かおうとしたレオは、そのままピタリと足を止めて固まった。
「……え」
自分の机の上。
色とりどりのラッピング袋や可愛らしい箱。
文字通り「山」のように積み上げられていた。
いや、山というより、もはやタワーだった。
バランスを崩せば今にも雪崩を起こしそうなほど、大量のチョコレートがレオの机を占拠している。
思わず立ち尽くす。
後ろから登校してきたクラスメイトたちが「うわっ」「すげーな」と口々に感嘆の声を上げた。
去年も確かにいくつか貰った記憶はあるが、せいぜい二、三個だったはずだ。
今年はどう見ても、両手では抱えきれないほどの量になっている。
そこへ、出席簿を持った担任が教室に入ってきた。
レオの机の惨状を見るなり、担任はふっ、と吹き出した。
「水澄、段ボールいるか?」
「……いりません」
「遠慮するな。職員室にちょうどいいサイズのミカン箱があるぞ」
「本当にいりません」
困り果てた顔で答えるレオに、教室中からドッと笑いが起きた。
からかわれているのは分かっているけれど。
どうやってこれを持ち帰ればいいのか本気で頭が痛い。
レオは今日二度目の長いため息をつきながら。
とりあえず崩れそうなチョコのタワーを隣の空き机へと避難させた。
昼休み。
弁当を広げようとしていた矢先、カズが廊下に呼び出された。
呼び出したのは、可愛らしい一年生の女子生徒らしい。
少し頬を赤らめながら、背中に何かを隠し持っているのが見えた。
『これは来たな』
『ついにカズにも春が来たか』
教室にいた全員が、無言のまま目でそう語り合う。
生温かい視線で廊下の様子を見守っていた。
カズ自身も意気揚々とした足取りで、少し髪型を気にしながら女子生徒の元へと向かっていった。
しかし。
昼休みが半分ほど過ぎた頃、教室に戻ってきたカズは、無言だった。
まるで魂を抜かれたかのように、死んだ魚のような目をしている。
そのままふらふらとレオの席まで歩いてくる。
手に持っていた可愛らしいピンク色の紙袋を、ドン、と無表情で机に置いた。
「……どうしたの、これ」
「……一年生の子から」
「うん」
「これ、『水澄先輩に渡してください』って」
数秒の沈黙の後、教室が再び爆笑の渦に包まれた。
「ウケる」
弁当をつついていたハルが、一切表情を変えずに即答した。
「笑うなよ! オレの純情を返せ!!」
「ウケる」
「お前冷たくない!? 少しは慰めろよ!」
悲痛な叫びを上げるカズ。
ハルの学生カバンの中にも、かなりの量のチョコレートが詰まっている。
この教室の中で、完全に被害者だったのはカズただ一人だ。
レオは申し訳なさそうに眉を下げ、「ごめん……後でジュース奢る」と言うことしかできなかった。
その後も、放課後になるまでに何度か、別のクラスや下級生の女子から呼び出しを受けた。
「直接、渡したくて」
少し上目遣いで、緊張で震える手で差し出されるチョコレート。
そのどれもが、相手の真剣な気持ちが込められているのが痛いほど伝わってきた。
でも、レオは全部、申し訳なさそうに頭を下げて断った。
自分には、心から愛している人がいる。
『恋人がいるから』と、はっきりと言葉にして伝えることはできない。
だから、「気持ちだけ受け取っておくね」「ごめん、そういうの受け取れないんだ」と。
曖昧で、けれど明確な拒絶の言葉を紡ぐしかなかった。
それでも、女の子たちは悲しそうな顔を一瞬だけ見せた後、すぐに無理に作ったような笑顔を浮かべた。
「お返しとか、全然いらないので!」
「受け取ってもらえるだけでいいんです、気にしないでください!」
そう言って、半ば強引にチョコレートをレオの手に押し付け、足早に去っていく。
不思議だった。
誰かに好意を向けられることは、決して嫌な気分ではないはずなのに。
今のレオには、好きな人に自分の想いを伝えることが、どれほど勇気のいることなのかが痛いほどよく分かっていた。
自分自身が、ケントに対してどうしようもないくらい大きくて重い感情を抱え、それに振り回されているからだ。
だからこそ、彼女たちの勇気を無下にして断るたび。
レオの胸はチクチクと小さく痛んだ。
ただ、一つだけ幸いだったのは。
彼女たちが押し付けていったチョコレートが、すべて綺麗に包装された『既製品』だったことだ。
たぶん、学校でのレオの印象が『ちょっと潔癖そう』とか。
『水澄先輩は手作りとか重いのは苦手そう』とか。
そういったイメージを持たれているのだろう。
別に、手作りが嫌いなわけじゃない。
でも。
手作りのチョコレートには、作った人の『想い』が直接形となって宿る。
その重みを、今の自分が受け取ることは絶対にできない。
自分の想いも、心も、身体も。
すべてはたった一人の、ケントという人間のためだけに存在しているのだから。
既製品でよかった。
ブランドのロゴが入った綺麗な箱を見つめながら、レオは胸をなでおろし、少しだけ安心した。
放課後。
ずっしりと重くなったカバンと、入りきらずに抱え込んだ紙袋を持って。
レオは疲れた足取りで家に帰った。
玄関のドアを開け、靴を脱ごうとした、その時。
ガチャリ、と、リビングに続く扉が開き、ケントが顔を出した。
そして、お互いの姿を見た瞬間、二人は同時にピタリと動きを止めた。
「「…………」」
レオの両手には、大量の紙袋。
そして、玄関に立つケントの腕の中にも。
夥しい数の紙袋や箱が抱えられていた。
一瞬の沈黙の後。
「……いっぱい、貰ったんだね」
ケントが、少しだけ声を低くして言った。
「レオも、すげー量じゃん」
その声には、微かな不機嫌さが混じっているように聞こえた。
なんだか、少しだけモヤっとした。
自分だって同じくらい、女の子から貰ってきているくせに。
どうしてそんな風に言われなきゃいけないんだ。
少しむすっとした顔で言い返そうとしたレオよりも先に、ケントが口を開いた。
「一応、言っとくけど」
「……?」
「ガチっぽい手作りは、全部断った。ここにあるのは、義理とか既製品だけ」
言い訳をするように、少し早口で付け加えられた言葉。
それを聞いた瞬間、レオの胸の奥で渦巻いていた小さな嫉妬の雲が、ふっと晴れていくのを感じた。
「……そっか」
ケントも、自分と同じように考えてくれたのだ。
手作りは受け取らない。
誰かの重い感情は、持ち帰らない。
自分だけを見ているという彼なりの誠実さが伝わってきて、レオは内心のモヤモヤがすっかり溶けていくのを感じた。
しかし、安心したのも束の間。
ケントが、少しだけ意地悪そうな、それでいて期待を含んだような笑みを浮かべて、レオを見下ろした。
「それよりさ」
「?」
「オレ、まだ肝心のレオから貰ってないんだけど。……あるんだろ?」
心臓が、どきり、と大きく跳ねた。
夜。
夕食を終えた後、レオは一人キッチンに立ち、最後の仕上げに取り掛かっていた。
シンクの向こう側から、リビングでテレビを見ながらくつろぐショウ、リサ、そしてケントの話し声が聞こえてくる。
慎重に。丁寧に。
レオは白い平皿を四枚並べ、冷蔵庫で冷やしておいたチョコレートテリーヌを切り分けて乗せた。
しっとりと濃厚なチョコレートの断面が、キッチンの照明を受けて艶やかに光る。
その横に、ふんわりと泡立てた真っ白な生クリームを添える。
さらに、買っておいた小さな市販のチョコ細工をトッピングしていく。
準備を終え、四人分が乗ったお盆をリビングへと運んだ。
「わあ……!」
テーブルに置かれた皿を見て、真っ先に歓声を上げたのはリサだった。
「すごい! レオ、これ作ったの!?」
「めちゃくちゃ美味しそう! お店みたいじゃん!」
ショウも身を乗り出し、感心したようにテリーヌを見つめている。
「すげーな。レオ、こんな本格的なの作れんのか」
「結構、簡単だよ」
褒めちぎられて少し照れくさくなりながら、レオは小さく笑った。
(これなら、自然だ)
バレンタインに、日頃の感謝を込めて家族みんなにデザートとして振る舞う。
そうすれば、誰かに怪しまれることなく。
堂々と手作りのチョコレートをケントに食べてもらうことができる。
我ながら、完璧な作戦だった。
皆が「美味しそう」とはしゃぐ中。
ケントだけは、出された自分の皿をじっと、ただじっと無言で見つめていた。
(……あ)
レオの心臓が、早鐘のように打ち始める。
気付いた。
たぶん、気付いたのだ。
ショウ、リサ、そしてレオ自身の皿に添えられているチョコ細工は、星や花の形をしたもの。
けれど、ケントの皿にだけ添えられているのは。
小さな、ピンク色の『ハート型』のチョコレート。
もちろん、ぱっと見では分からないほどの小さな違いだ。
他の三人は自分の皿のスイーツに夢中で、誰一人としてそんな些細な違いには気付いていない。
でも。
ケントだけは、その小さなハートが持つ意味に、しっかりと気付いてくれた。
ケントが、ふっと口角を上げて笑った。
「いただきます」
四人で声を合わせ、フォークを入れる。
口に入れた瞬間、生チョコのように濃厚で滑らかなチョコレートの甘さと、ほんのりビターな香りが広がった。
「んんっ! 美味しいー!」
「うわ、マジでうまい」
リサが感動したように頬を抑え、ショウが早々に二切れ目を要求してくる。
和やかで、温かい食卓の風景。
そんな中。
テーブルの向かい側に座るケントと、ふいに視線が交差した。
ケントは何も言わない。
ただ、フォークで掬ったテリーヌを口に運びながら。
レオを真っ直ぐに見つめ、この世の何よりも嬉しそうに、甘く優しく微笑んだ。
その熱を帯びた瞳と、愛おしそうな表情を見て。
レオもまた、頬をほんのりと赤く染めながら、少しだけはにかむように笑い返した。
きっと、伝わった。
言葉にして「好き」とは言えなかったけれど。
この甘さと、小さなハートに込めた想いは、ちゃんとケントに届いている。
これは、紛れもなく、大好きなケントのためだけに作った、レオからの特別なバレンタインだった。
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