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第31話 入学式、出会い
高校の入学式前日の夜。
レオは、ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
目を閉じても、ちっとも眠気がやってこない。
薄暗い部屋の中で、時計の秒針が刻む音だけがやけに大きく響いていた。
新しい学校。
知らない人たち。
知らない教室。
全く新しい、未知の環境。
レオにとって、環境の変化は何よりも大きなストレスだった。
中学時代は、いつも一人で本を読んで過ごしていた。
誰かと話すのが嫌いなわけではない。ただ、どうやって輪に入ればいいのか分からなかったし、一人の静寂が心地よかったのも事実だ。
でも、高校では。
少しは変われるだろうか。それとも、また同じような三年間を過ごすのだろうか。
期待よりも、圧倒的な不安が胸を支配していた。
翌朝。
真新しい制服に袖を通しても、気分は全く晴れなかった。
ダイニングテーブルに座り、トーストをかじりながらも、落ち着かなくて時計を何度も見る。
向かいの席でコーヒーを飲んでいたショウが、そんなレオの様子を見てふっと笑った。
「そんな緊張する?」
「……する」
誤魔化す余裕もなく、即答だった。
マグカップを置いたショウが、呆れたように、けれどひどく優しい声で言う。
「大丈夫だろ。レオなら」
「大丈夫じゃない。全然」
ショウはまた声を出して笑う。
ネクタイを締める大人の余裕。それが今のレオには少しだけ恨めしかった。
ショウにとってはただの通過点かもしれない。でも、レオにとってはこれからの自分の居場所が決まる、死活問題だった。
結局、じっとしていることに耐えきれなくなった。
予定していた時間よりも、かなり早く家を出ることにした。
早く教室に着いて、自分の席で深呼吸でもすれば、少しは落ち着けるかもしれない。
そんな藁にもすがるような気持ちで、足早に家を飛び出した。
教室に着く。
ガラガラ、と真新しい引き戸を開ける。
中には、まだ誰もいなかった。
黒板の匂いと、ワックスがけされたばかりの床の匂い。
朝の柔らかい日差しが、整然と並んだ無人の机を照らしている。
「……よかった」
無意識に、安堵の息がこぼれた。
黒板に貼られた座席表を確認し、窓際の自分の席を見つけてそっと腰を下ろす。
鞄の中から、読みかけの文庫本を取り出した。
いつもの習慣。
活字を目で追う。ただそれだけで、乱れていた心拍数が少しだけ落ち着いていくのを感じた。
しばらくして。
廊下から、少しずつ人の声が聞こえ始めた。
ぽつり、ぽつりと生徒が教室に入ってくる。
そのたびに肩がビクッと跳ねるが、本から顔を上げずにやり過ごした。
その時だった。
「おはよー!!」
空気を劈くような、とてつもない大声。
レオの肩が、今度は派手に跳ね上がった。
勢いよく開かれたドアの前に立っていたのは、太陽みたいに明るい笑顔を浮かべた男子生徒だった。
「おはよ!」
「おはよう!」
教室にはまだ数人しかいないというのに。
彼は、目につく全員に、手当たり次第に満面の笑みで挨拶をして回っている。
(元気すぎる……)
本で顔を半分隠しながら、レオは内心でドン引きしていた。
目立たないように。巻き込まれないように。
息を潜めて活字に目を落とす。
しかし。
そんなレオの努力は、あっけなく打ち砕かれた。
不意に、目の前に大きな影が落ちる。
恐る恐る顔を上げると、先ほどの騒がしい男子生徒と、バチリと目が合った。
数秒。
時間が止まったように、お互いに固まる。
「え!?」
またしても大声。
今度はレオが完全にフリーズした。
男子生徒は、目を限界まで見開きながら、レオの顔をまじまじと覗き込んできた。距離が近い。
「めっちゃ綺麗な顔!」
「……っ」
「どこの中学!? ハーフ? なになに、モデルとかやってる!?」
息を吸う間も与えない、機関銃のような質問攻め。
あまりの勢いに、レオは完全に言葉を失っていた。
「えっと……」
「名前は!? 俺、廣野一輝!」
「みすみ……」
「身長高いな! 何センチ!?」
(何なんだ、この人……!)
助けてほしい。
レオが困惑で目を白黒させていた、まさにその瞬間だった。
ガラッ。
再び、教室のドアが開いた。
新しく入ってきた男子生徒は、少し気怠げな空気を纏っていた。
教室をぐるりと見回し、すぐに状況を把握したらしい。
彼は深いため息を一つ吐くと、真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてきた。
そして。
質問攻めをしている男子の首根っこを、背後からガシッと掴んだ。
「朝からうるさい」
「いてっ! なんだよハル!」
「ごめんな」
新しく来た男子——ハルと呼ばれた彼は、首根っこを掴んだまま、レオに向かって深く頭を下げた。
「こいつ、うるさくて。迷惑かけた」
「いや……」
レオは心底ホッとした。
(よかった、まともそうな人がいた……)
しかし、首根っこを掴まれている一輝という男子は、全く反省する様子がない。
じたばたと暴れながら抗議する。
「だってさ! 見てみろよこの顔! めっちゃ綺麗だろ! 気になるだろ普通!」
「知るか。初対面で距離詰めすぎなんだよ」
「お前は気にならないのかよ!」
「ならない」
見事なまでの即答。
息がぴったりだった。どうやら、この二人は相当昔からの付き合いらしい。ハルは完全に彼の扱いを熟知していた。
ようやく解放された一輝が、首を擦りながら改めてレオに向き直る。
「おれ、廣野一輝!」
さっきと同じ、屈託のない笑顔。
「カズって呼んで!」
そして、隣の冷静な親友を指し示す。
「こっちは五島春樹」
「ハルでいいよ。よろしく」
ハルが、軽く右手を挙げて挨拶した。
カズが付け足すように言う。
「俺たち、同じ中学からの腐れ縁」
「なるほど……」
だからあんなに息が合うのか。
レオは少しだけ納得して、小さく咳払いをした。
「水澄レオ、です」
丁寧に頭を下げる。
すると、カズがすぐに不満げな顔をした。
「敬語、いらなくね?」
「え?」
「同い年だし! な?」
カズがハルに同意を求める。ハルも「うん」と短く頷いた。
「……じゃあ」
レオは少しだけ迷って。
けれど、目の前の二人の裏表のない態度に背中を押されるように、口を開いた。
「カズ」
「おう!」
「ハル」
「ん」
なんだろう。
不思議な感覚だった。
まだ出会って、ほんの数分しか経っていないのに。
全然、気まずくない。
ずっと前から知っていたような、そんな錯覚すら覚えるほど、自然な空気がそこには流れていた。
昼休み。
ごく自然な流れで、三人は机をくっつけてお弁当を食べることになった。
レオは自分で作った、彩りの良い手作り弁当。
ハルは学食で買ってきたらしい、焼きそばパンと唐揚げ。
カズは母親が作ったと思われる、綺麗なお弁当。
「レオ、それ自分で作ったの!? すげー!」
「うん。いつも作ってるから」
「一口くれ!」
「どうぞ」
「よし交渉成立!!」
カズが喋り倒す。
ハルが的確に、そして容赦なく突っ込む。
レオは、そんな二人のやり取りを見ながら、気付けば笑っていた。
放課後は、そのままの流れで部活見学に行くことになった。
カズの希望でサッカー部へ行き、ハルの付き合いで写真部を覗き、レオが少し気になっていた文藝部の部室にも、二人は文句一つ言わずについてきてくれた。
「文藝部、すっげー静かだったな……俺、三分で寝る自信あるわ」
「お前はどこでも寝るだろ」
「ひどい奴!」
帰り道、夕日に照らされた通学路を三人で歩きながら、レオはふと思う。
朝のあの張り裂けそうな緊張感は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
気付けば、あっという間に一日が終わっていた。
息が詰まるような時間は、一秒たりともなかった。
帰宅。
制服をハンガーに掛け、部屋着に着替える。
エプロンを身につけ、キッチンに立った。
冷蔵庫の残り物を確認し、手際よく夕飯の支度を始める。
まな板を叩くリズミカルな包丁の音。鍋の中で出汁が煮立つ匂い。
数時間後。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
「おかえり」
リビングに入ってきたショウは、少し疲れた顔でネクタイを緩めていた。
けれど、キッチンに立つレオを見ると、いつものように優しく笑う。
「どうだった?」
「ん?」
「学校。初日」
冷蔵庫から麦茶を出そうとしていたショウの手が、少しだけ止まった。
気を使っているのが分かる。
中学時代のように、また一人で本を読んで過ごしたのではないかと、きっと心配しているのだ。
レオは少しだけ考えた。
今日の出来事。
朝の大騒ぎ。昼休みのお弁当。放課後の部活見学。
カズの大きな笑い声と、ハルのため息。
そして。
ごく自然に、ぽつりと答えた。
「友達、できたよ」
その瞬間。
ショウの動きが完全にピタリと固まった。
手にした麦茶のボトルを落とさなかったのが奇跡なくらいだった。
数秒の沈黙の後。
ショウは、心底安堵したような、泣き出しそうな、それでいて満面の笑みを浮かべた。
「よかった……!」
「?」
「いや、だってさ、朝のレオ……」
ショウが、肩を震わせて笑う。
「この世の終わりみたいな、悲壮感漂う顔してたから」
「……してない」
「してたしてた。絶対友達できない顔してた」
「していない」と、レオは小さく反論する。
たぶん。
きっと、してはいなかったはずだ。
でも、ショウにそんな風に心配をかけていたのかと思うと、少しだけ照れくさくて、恥ずかしくなった。
レオは出来上がった肉じゃがを、丁寧にお皿によそう。
ショウは、そんな弟の後ろ姿を、ダイニングテーブルから目を細めて見つめていた。
(本当に、良かった)
中学の頃。
授業参観に行っても、いつも自分の席で一人、静かに本を読んでいた弟。
「一人が好きだから」と強がっていたけれど、本当は不器用なだけだと知っていた。
そんな弟が。
高校生活の初日で、「友達ができた」と、照れくさそうに笑って報告してくれた。
その事実が。
ショウにとっては、自分の仕事で大きな契約を取るよりも、ずっとずっと嬉しかった。
テーブルに向かい合って座り、二人で「いただきます」と手を合わせる。
カズの破天荒な挨拶の話や、ハルの鋭いツッコミの話を、ショウは楽しそうに聞いてくれた。
夕食を終え、自室に戻ったレオ。
机の上に置かれた、真新しい通学鞄。
その横には、今朝教室で読んでいた文庫本が置かれている。
(明日は、続きを読む暇……ないかもな)
カズがまた、朝から騒ぎ立てるに決まっている。
ハルがため息をつきながら、それを宥めるに決まっている。
レオは少しだけ思う。
明日、学校へ行くのが。
少しだけ、楽しみかもしれない。
そんなこと。
昨日の夜、不安で押し潰されそうになっていた自分なら、絶対に考えられなかった。
窓の外には、穏やかな春の星空が広がっていた。
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