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第37話 青嵐祭3
会いたかった。
いや。
冷静に考えれば、別に家で毎日顔を合わせているのだ。
朝起きて「おはよう」と言い、夜は「おやすみ」と言う。
でも。
文化祭という、非日常の特別なシチュエーション。
クラスの仲間とふざけ合う、いつもと違うケントが見られたら。
少しだけ、期待してしまったのだ。
我儘な感情。
「……帰ろう」
小さく息を吐いて。
踵を返した、その瞬間だった。
「レオ?」
背後から、不意に名前を呼ばれた。
肩が跳ねる。
振り返ると。
そこには、首から手描きの看板を下げたケントが立っていた。
クラスのオリジナルTシャツ。
首元にはタオル。
額には、少し汗が滲んでいる。
「ケント」
「ちょうど良かった。ちょっと待ってて!」
ケントはそれだけ言うと、脱兎のごとく自分のテントへ走っていった。
レオはポカンとして立ち尽くす。
数十秒後。
「お待たせ」と戻ってきたケントの両手には、紙皿に乗ったフランクフルトが三本。
「これ、おごり。一緒にいる友達と食べて」
ケントは、それだけをレオの手に押し付けた。
「えっ、でも」
「オイ櫻井! サボってねぇで客引き行けー!」
遠くのテントから、大声でケントを呼ぶ声が響く。
「やべ、怒られる。じゃあな!」
ケントは、ニカッと笑って。
足早に、嵐のように去ってしまった。
本当に、一瞬だった。
交わした言葉も、ほんの少し。
でも。
レオの手の中には、まだ温かいフランクフルトがある。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
忙しい中で、自分を見つけて走ってきてくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
夕方。
文化祭が終わり、文藝部のメンバーで打ち上げに向かった。
駅前のファミレス。
ドリンクバーのグラスを合わせて、乾杯する。
準備の苦労。
当日の信じられない大行列。
客の無茶な要望。
思い出話に花を咲かせ、みんなでたくさん笑った。
夜。
帰宅して、ゆっくりと温かい湯船に浸かる。
「はぁ……」
思わず、深い声が漏れた。
疲れた。
本当に、魂が抜けそうなくらい疲れた。
でも。
不思議と嫌な疲労感じゃない。
みんなで一つのことをやり切ったという、確かな実感があった。
お風呂から上がり、自室のベッドに倒れ込む。
髪はまだ少し湿っている。
まどろみながら、スマートフォンの画面をスクロールした。
今日までの、写真のフォルダ。
買い出しの様子。
ペンキまみれの手。
完成した看板。
今日、エプロン姿で撮った部員たちとの集合写真。
ファミレスでの打ち上げ。
楽しかったな。
頑張ってよかった。
画像をスワイプしながら、ふと思う。
高校に入ってから、本当に思い出がたくさん増えた。
中学のときの記憶は、実を言うとあまりない。
両親がいなくなった事故のトラウマ。
心を閉ざしていた時期。
遠足とか。
修学旅行とか。
誰と同じ班で、何をして、何を話したのか。
古いテレビの砂嵐のように、ザラザラと輪郭を失っている。
でも。
高校生になってからは、違う。
勉強合宿に行って。
修学旅行に行って。
文化祭で、初めて模擬店を出して。
そして、ケントと過ごした思い出が、フォルダに溢れている。
写真を見返すたび。
自分が今まで行こうとしなかった、新しい世界へ。
少しずつ、歩みを進めているのが分かる。
過去に縛られていた自分が。
ちゃんと、未来を向いている。
コンコン。
小さなノックの音で、現実に引き戻された。
「入るぞ」
ドアが開いて、ケントが顔を出す。
お風呂上がりの、少し緩んだ部屋着姿。
「起きてた?」
「うん。寝ようとしてたところ」
ベッドの端に、ケントが腰を下ろす。
石鹸の、いい匂いがした。
「文藝部の模擬店、やばかったな」
「……見たの?」
「おう。すごい混んでた。並ぼうと思ったけど、列がやばすぎて諦めた」
「並ばなくて正解。地獄だったから」
「ちょっとだけ覗いたけど、レオ、すげぇ働かされてたな」
ケントが、ははっと笑う。
エプロン姿、見られていたのか。
少し恥ずかしくて、レオは布団を口元まで引き上げた。
「写真、ないの?」
「あるよ」
レオはスマホを操作して、ケントに画面を見せた。
準備風景から、打ち上げまで。
ケントは、一枚一枚を丁寧に見てくれる。
「お、この看板すげぇ上手いじゃん」
「ケントの写真も見せて」
今度は、ケントのスマホを覗き込む。
鉄板の前で汗を流す姿。
クラスメイトと肩を組んで笑う姿。
どれも、本当に楽しそうだ。
キラキラと輝いている。
「ねぇ、ケント」
「ん?」
「おれ」
レオは、ぽつりと口を開いた。
「ケントと会ってから、なんか、いい方向に向かってる気がする」
素直な言葉だった。
今まで言えなかった、心の中の真実。
ケントがいなければ、自分は今でも砂嵐の中にいただろう。
ケントの動きが止まった。
画面を見ていた視線が、レオに向く。
少しだけ、耳が赤くなっていた。
照れている。
「……何言ってんの」
「本当のこと」
「……それは」
ケントは、少しぶっきらぼうに。
でも、たまらなく優しい声で言った。
「レオ自身が、頑張ってるからだろ」
大きな手が、レオの頭をぽんぽんと撫でる。
心地よい重みと、温かさ。
その手のひらから、たくさんの愛情が伝わってくる。
「……うん」
「疲れただろ。今日はもう寝な」
「おやすみ」
「おやすみ」
ケントは小さく微笑んで、静かに自室へ戻っていった。
ドアが閉まる音。
部屋に、再び静寂が訪れる。
レオは目を閉じた。
胸の奥が、甘く、ポカポカと温かい。
次の学校行事は、体育祭だ。
運動は苦手だから、正直少し憂鬱だったけれど。
「楽しみ」と言うのは、さすがに言い過ぎかもしれないけれど。
少なくとも、以前のような強い抵抗感は、すっかりなくなっていた。
ケントが、いるから。
ケントが見ていてくれるから。
そんなことを思いながら。
レオは、温かい布団の中で、静かに深い眠りへと落ちていった。
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