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第41話 海を見に

 高校三年生の夏休み。  平日の朝は、鼓膜を劈くようなけたたましい蝉の声で幕を開けた。  同居しているショウとリサは、朝早くから仕事へ。  ケントは、受験生らしく予備校の夏期講習へ向かっていった。  二人を見送った後の家には、レオ一人だけが残されている。  しんと静まり返ったリビング。  稼働し続けるエアコンの、微かな送風音だけが規則正しく響いていた。  レオは自室の机に向かい、朝のうちに自分で決めていた勉強のノルマを淡々とこなしていく。  長文読解メインの英語。  感覚を鈍らせないための現代文。  パズルを解くように進める数学。  そして、少しだけ苦手意識のある古文。  それらを一通り終えてから、ふと壁の時計を見上げる。  時刻はまだ、昼前だった。  冷房の効いた部屋を出て、キッチンへ向かう。  冷蔵庫を開けると、朝、自分のために作った弁当のおかずの余りがタッパーに入っていた。  少し焦げ目のついた卵焼き。  甘辛いごぼうのきんぴら。  昨夜の夕飯の残りである、鶏肉の照り焼き。  それらを適当にお皿に移し、炊飯器で保温されていたご飯と一緒によそって、一人きりの昼食をとる。  話し相手のいない食卓は静かだったけれど、この穏やかでマイペースな時間は、決して嫌いではなかった。  食後。  自室へ戻ったレオの視界に、ふと、机の端に積み上がった本の山が飛び込んできた。  最近は受験勉強を優先していたせいで、買ったまま読めずに後回しにしていた小説たちだ。  誘惑に負け、一番上にあった一冊を手に取る。  ベッドに寝転がり、ページをめくって文字を追う。  活字が紡ぐ物語の世界に没頭するのは久しぶりで、気付けば一時間近くが経っていた。  ふと顔を上げて窓の外を見ると、青空の向こう側に、絵に描いたような巨大な入道雲がモクモクと膨らんでいる。  高三の夏。  世間的には、勝負の夏だ。  周囲の同級生たちは、今この瞬間も予備校の自習室で必死に机に向かっているはずだ。  自分に焦りがないわけじゃない。  けれど、今日まで毎日コツコツと積み重ねてきた確かなものがある。ただ長時間机に齧り付けばいいわけじゃないことも、自分の性格上、よく理解していた。 「……今日は、これでいいや」  小さく呟き、本に栞を挟む。  その時、ふと、いつかケントに言われた言葉が脳裏をよぎった。 『レオ、ずっと家に籠もってないで、たまには外出たら? 光合成しないと枯れるぞ』  お節介焼きな恋人の呆れたような顔を思い出し、思わずふっと笑いが漏れる。  確かに、彼の言う通りだ。  最近の自分の行動範囲といえば、食材を買いに行くスーパーと、日用品を補充するドラッグストアくらい。  せっかくの夏休みなのに、部屋着から覗く自分の腕は、日に焼けることもなく真っ白なままだ。  受験生らしいと言えばそれまでだけれど、なんだか少しだけ、もったいない夏を過ごしているような気もした。  レオは立ち上がり、キャンバストートに先ほどまで読んでいた本を入れた。  財布。スマホ。冷たいお茶を入れた水筒。  最低限の準備をして、家を出る。  向かった先は、歩いていける距離にあるお気に入りの市立図書館だった。  自動ドアを抜けると、冷房の効いたひんやりとした空気が身体を包む。  古い紙の匂い。  誰かがページをめくる音しかしない、独特の静かな空気。  ここに来ると、無条件で安心する。  適当な閲覧席に座り、館内の本を借りるわけでもなく、わざわざ持参した自分の小説を開いた。  傍から見たら、少し滑稽かもしれない。  わざわざ図書館まで来て、持ってきた本を読むなんて。  でも、たまにはこういうのも悪くない。  持参した本を最後まで読み終えた頃。  ふと窓の外を見ると、そこには眩しいくらいの夏空が広がっていた。  その空の青さを見た瞬間。  不意に、強い衝動に駆られた。 (……海が、見たい)  理由は、驚くほど単純だった。  たった今読み終えたばかりの小説の舞台が、海辺の静かな街だったから。  本当に、ただそれだけ。  でも、今のレオを突き動かす理由としては、それで十分だった。  図書館を出て、最寄りの駅から電車に乗る。  ガタンゴトンと揺られる車内で、窓の外の景色が少しずつ変わっていくのを眺めていた。  密集した住宅街。  人の行き交う商店街。  無機質な工場地帯。  そして、その無機質な建物の隙間から、遠くにキラリと光る青が見えた。  海だった。  目的の駅で降りると、空気に混じる潮の匂いが鼻を掠めた。  改札を抜け、少し歩く。  やがて視界が一気に開け、目の前に広大な海が現れた。  どこまでも続く、深い青。  空もまた、吸い込まれそうなほど青かった。  水平線で溶け合い、境界線が曖昧になっている。  夏の強い光が水面で反射し、きらきら、きらきらと無数に揺れている。  目を細めながら、波打ち際をぼんやりと見つめる。  綺麗だった。  ただそれだけの景色なのに、不思議と胸の奥につっかえていた何かがスッと溶けて、軽くなるような気がした。 (朝なら、どんな色をしてるんだろう。夕方なら。夜なら……)  同じ場所でも、時間や季節が変われば、全く違う景色を見せてくれるのかもしれない。  そんなとりとめのないことを考えながら、海風に吹かれていた。  しかし。  数分後。 「……あつ……」  レオは、容赦ない現実に引き戻された。  頭上から降り注ぐ、暴力的なまでの夏の日差し。  アスファルトと砂浜から照り返す灼熱。  帽子なし。  日傘なし。  日焼け止めなし。  完全に、準備不足だった。  海は確かに綺麗だった。  でも、暑い。とにかく、尋常じゃなく暑い。  ジリジリと肌が焦げるような痛みに耐えきれず、レオは逃げるように駅へと引き返した。  冷房がガンガンに効いた帰りの電車の車内へ滑り込んだ瞬間、思わず「ふぅ……」と深い安堵の息を吐く。  滞在時間はわずか数十分。  とても短い外出だったけれど、心の中は不思議なほどの満足感で満たされていた。  夜。  夏期講習を終えて帰宅したケントが、リビングで麦茶を飲んでいたレオを見るなり、怪訝な顔で言った。 「ただいま。……って、レオ」 「ん?」 「なんかほっぺ赤くない?」 「え」  慌てて自分の頬を手のひらで触ってみる。  確かに、普段より少しだけ熱を持っていた。  どうやら、あの短い時間でしっかり紫外線を浴び、軽く日焼けしてしまったらしい。 「どこか出かけてたの?」 「……海」 「は? 海?」  突然の単語に、ケントが素っ頓狂な声を出して驚いた顔をする。  レオは、昼間の突発的な出来事をぽつぽつと話し始めた。  図書館へ行ったこと。  本を読んで、急に海を見たくなったこと。  そのまま電車に乗って向かったこと。  そして、あまりの暑さに数分で負けて、逃げ帰ってきたこと。  全部話し終える頃には、ケントは肩を震わせて必死に笑いを堪えていた。 「マジで準備ゼロで海行ったの?」 「……うん。スマホと財布しか持ってなかった」 「無計画すぎるだろ。いくらなんでも」 「思いつきだったから仕方ないじゃん」  唇を尖らせるレオを見て、ケントはついに耐えきれなくなったように、楽しそうな声を上げて笑った。 「ははっ、いいじゃん」  ひとしきり笑った後、ふっと少しだけ沈黙が流れる。  そして。  ケントが、どこか真面目な、優しい声でぽつりと言った。 「今度、一緒に行こう」  レオは驚いて顔を上げた。 「海に?」 「うん、海」 「……暑いよ?」 「知ってる」 「今日、本当にすごかったんだから」 「知ってるよ。だから今度は、ちゃんと日焼け止め塗って、帽子も被って行くの」  呆れたように言いながらも、ケントはとても柔らかく笑っていた。 「オレも、レオと海、行きたい」  その真っ直ぐな言葉に、レオも少しだけ照れくさそうに笑い返す。  今日、一人で見た海はとても綺麗だった。  吸い込まれそうな空も。  打ち寄せる波の音も。  水面で揺れる光も。  でも。  たぶん、ケントと一緒に見たら。  同じ景色でも、今日とは少し違って、もっと鮮やかに見えるような気がした。 「……うん、行こう」  まだ少し熱を持つ頬のせいだけではなく。  ケントと行く夏の海の予定が、レオの胸の奥をじんわりと温かくさせていた。

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