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第42話 頑張ったご褒美

 茹だるような熱帯夜。  窓の外からは、昼間の熱を孕んだ重たい空気がアスファルトから立ち昇る気配がする。  深夜に近い時刻。玄関のドアが開き、重い足音が廊下を響いた。  夏休み。  本来なら羽を伸ばすはずのこの時期を、ケントは朝から晩まで予備校の夏期講習に捧げていた。  しかも今は一番過酷な集中期間。帰宅するのはいつも、日付が変わる少し前だった。  ケントの部屋。  ベッドの上に座って本を読んでいたレオは、ドアが開いた音に顔を上げた。  薄暗い部屋の入り口に、大きなリュックを肩から下げたケントが立っている。疲れ切った顔をしているが、その瞳の奥には確かな充実感が宿っていた。 「おかえり。お疲れ様」  レオが短く労うと、ケントはリュックを床に放り出し、そのままベッドへ倒れ込んできた。  重たい頭が、レオの太ももの上に乗る。  汗と、夏の夜の匂い。  レオは少しだけ躊躇ってから、ケントの少し硬い髪に指を差し込み、優しく撫でた。 「勉強ばっかでしんどいけど……なんか、いい感じに仕上がってる気がする」 「うん。すごいよ。模試の成績も、去年の夏よりずっと上がったし」  レオの静かな声に、ケントは目を閉じたまま満足そうに口角を上げた。  毎日、擦り切れるほど机に向かっているのを知っている。  だからこそ、その努力が実を結び始めていることが、レオ自身の事のように嬉しかった。 「なぁ、レオ」 「ん?」 「集中期間、明日で終わるんだけどさ。……終わったら、明後日、海に行こうよ。オレに、ご褒美ちょうだい」  閉ざされた空間での単調な毎日に、限界が来ているのだろう。  縋るような、けれどどこか甘えるような低い声。  受験生が夏休みに海なんて、と少しだけ頭をよぎったが、レオは首を縦に振った。 「わかった。明後日、行こう」  約束の、明後日。  今日は、勉強は一切お休み。  一日くらい、息を抜いても罰は当たらない。明日からまた、二人で机に向かえばいいのだから。  朝から茹上がるような暑さだった。  レオは、キャンバストートに手際よく荷物を詰めていく。  日焼け止め。冷たい麦茶を入れた水筒。大判のバスタオル。砂浜を歩くためのサンダル。  最低限、けれど必要なものをきっちりと揃え、二人は家を出た。  電車の中は、冷房が効きすぎていて少し肌寒いほどだった。  平日の午前中。車内はまばらな人影。  横並びのシートに座る二人の間には、拳一つ分の隙間が空いている。  外の世界では、これが当たり前。触れたい指先をぐっと握り込み、肩と肩が触れないように、少しだけ距離を取る。  窓ガラスに反射するケントの横顔を盗み見ながら、レオは膝の上のトートバッグの持ち手を強く握った。  やがて、車窓の景色が街並みから一変し、視界いっぱいに青が広がった。  駅を降りると、潮の香りを孕んだ生温かい風が全身を包み込んだ。  視界を遮るもののない、広大な海。  太陽の光が水面に反射し、砕けた宝石のようにギラギラと瞬いている。  砂浜に降り立ち、持参したサンダルに履き替える。  波打ち際まで歩き、寄せては返す白い泡に足先を浸した。 「冷た……っ」 「気持ちいいな」  火照った足の甲を撫でる海水は、驚くほど冷たくて心地よかった。  並んで海を眺める。  どこまでも続く水平線。  青と青が溶け合う境界線。  先ほど駅前のコンビニで買ったアイスキャンディーをかじる。容赦ない日差しのせいで、甘い水滴がものすごい勢いで指先へと滴り落ちていく。  潮風が、レオの亜麻色の髪をくすぐり、頬を撫でた。 「……大学生になったらさ」  海を見つめたまま、ケントがぽつりと言った。 「沖縄、行こうぜ。オレら二人で」 「沖縄?」 「うん。めちゃくちゃデカい水族館行って、アイス食べて。……あと、ダイビングもしたい」  夢を語る横顔は、少年のように輝いていた。  今はまだ、目の前にそびえ立つ『受験』という壁に阻まれているけれど。  それを越えた先には、もっと広く、もっと自由な世界が待っている。 「……まずは、大学受かってからね」  レオが少しだけ意地悪く笑うと、ケントは「絶対受かるし」と力強く笑い返した。  短い非日常から、日常への帰還。  午後三時。一番気温の高い時間帯に、二人は逃げるように家へと戻ってきた。  玄関のドアを閉めた瞬間、ムワッとした熱気が身体にまとわりつく。  リビングに入るなり、ケントが速攻でエアコンのスイッチを一番強い設定で入れた。  冷たい風が、一気に部屋を満たしていく。 「あー……暑かった……」 「おれ、先にシャワー浴びるね。汗かいたし、潮風でなんかベタベタする……」  Tシャツの裾を掴み、脱衣所へ向かおうとしたレオの腕を、ケントの大きな手が強く引き寄せた。 「え、」  振り返る隙も与えられず、そのままソファへと押し倒される。  頭の上が真っ白になる間もなく、ケントの顔が急接近し、唇が重なった。  チュッ、と軽いものではない。  最初から、レオの全てをこじ開け、奪い尽くすような、本気のキス。 「んっ……ぁ、む……っ」  容赦なく侵入してきた熱い舌が、レオの口内を荒々しく蹂躙する。  息継ぎすら許されない濃厚な接触に、レオの頭の芯が瞬時にトロトロと溶け始めた。  汗の匂い。かすかな潮の匂い。  それらが、ケントの体温と混ざり合い、強烈なオスとしてのフェロモンとなってレオの理性を吹き飛ばす。 「ふ、あ……け、んと、待って……シャワー、」 「この後、どうせまた汗かくから……別によくない?」  低く、掠れた声。  獲物を前にした肉食獣のような、飢えた瞳。  夏期講習の激務。そして、お互いに気を遣い合い、肌を重ねることを控えていたこの数週間。  溜まりに溜まった鬱屈とした熱と欲求が、限界を突破し、今、この瞬間に決壊したのだと理解した。  リビングのソファ。  エアコンから吹き出される冷たい風と、それに反比例するように急速に熱を帯びていく二人の身体。  ケントの手が、Tシャツの内側へと滑り込む。  汗ばんだ肌を直接撫で上げられ、レオの背筋にゾクゾクとした電流が走る。 「あっ……ん、そこ、だめ……っ」  何度も、何度も唇を重ねる。  唾液が絡み合い、銀色の糸を引く。  少し期間が空いただけで、互いの肌の感触が、匂いが、体温が、気が狂うほど愛おしく、刺激的に感じられた。  触れ合うたびに火花が散るような焦燥感。  リビングでのイチャイチャだけでは、とうてい足りない。  服の布地がもどかしい。  もっと奥まで。もっと直接、ケントを感じたい。 「……部屋、いこ」  レオが潤んだ目で哀願するように見上げると、ケントは言葉の代わりに再び深く口付け、そのままレオを抱き上げるようにして自身の寝室へと向かった。  寝室のベッドへ雪崩れ込む。  そこからの行為は、互いの渇望をぶつけ合うような、濃厚で、どこまでも剥き出しの交わりだった。  カーテンを閉め切った薄暗い部屋。  剥がれ落ちた衣服が床に散らばる。 「レオ……っ、ここ、すごい……っ」 「ん、ぁ……っ、ぁあ……っ!」  完全に準備の整った最奥へ、ケントの熱い質量が沈み込んでいく。  隙間なく密着する粘膜。  入ってきた瞬間の、圧倒的な充足感。  レオはシーツを強く握りしめ、首を後ろに反らした。 「レオのなか……めちゃくちゃあったかい。……きつくて、すげー気持ちいい……っ」 「ぁ……っ、う、ん……っ、そこ、いい……っ、すごい……っ!」  ケントの低い声が耳元を打つたび、レオの下腹部がじんじんと痺れるような快感に支配される。  ゆっくりと、けれど確かな重さを持って引き抜かれ、再び深く、深く打ち込まれる。  その往復のたびに、レオの理性が一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。 「ひ、っ……あ、っ……ん、んん……っ!」  声を出すまいと、必死に自分の唇を噛み締める。  隣の部屋に響くかもしれないという微かな理性が、レオの声をせき止めようとする。  しかし、内部を激しく擦り上げられる強烈な刺激と、ケントの「気持ちいい」という囁きが、その堤防をいとも容易く決壊させた。  我慢しようとすればするほど、切なく、甘い喘ぎ声が、喉の奥から押し出されるように漏れ出てしまう。 「く、ぁ……っ、は、あ……っ! け、んと……っ」 「ん? なに? もっと奥がいいの?」 「ちが、っ……キ、ス……っ、キスして……っ」  声を封じてほしい。  狂ってしまいそうな頭の中を、ケントの熱で上書きしてほしい。  すっかり快感にとろけきった瞳で、涙をボロボロとこぼしながらキスをせがむレオ。  その姿が、ケントの嗜虐心と独占欲に火を注ぐ。 「……可愛すぎ」  ケントが体重をかけ、レオの唇を深く塞ぐ。  同時に、腰の動きが一段と激しさを増した。 「んんっ!! ーーっ、ぁ、んっ!」  口内を舌で激しく掻き回されながら、下からは容赦なく急所を突き上げられる。  逃げ場のない快楽。  受験勉強のストレス。  触れられなかった寂しさ。  持て余していた若い欲求。  それら全てが、この絡み合う肉体の熱の中で昇華されていく。  バチン、バチンと、肌と肌が激しくぶつかる湿った音が部屋に響く。  冷房の効いた部屋のはずなのに、二人の周囲だけは酸素が薄れ、サウナのように熱気がこもっていた。 「あ、っ……も、無理……っ、でる、でるっ……ぁあ!!」 「オレも、っ……レオ……中、出す……っ」    限界まで高められた快楽が、頂点に達する。  熱い飛沫がレオの腹を汚し、同時に、最奥にケントの白濁した熱が勢いよく注ぎ込まれた。  ドクン、ドクンと脈打つような感触。  レオの身体は、痙攣したように大きく跳ね、やがて糸が切れたようにシーツへと沈み込んだ。  止まることのない、甘く激しい情事。  一度では足りず、彼らは夕闇が部屋を包むまで、何度も何度も、互いの熱を確かめ合うように貪り合った。  全てが終わった後。  ようやく二人で狭い浴室に入り、温かいシャワーを浴びた。  汗と、潮と、混ざり合った精液を綺麗に洗い流す。  鏡に映るレオの顔を見ると、入念に日焼け対策をしたはずなのに、頬から鼻の頭にかけて、うっすらと赤く日焼けしていた。 「あーあ、やっぱり焼けちゃった」 「お前、肌白いから目立つな。でも、それも可愛い」 「……からかわないで」  リビングに戻り、レオがソファに座ると、ケントが後ろからバスタオルでレオの頭を包み込んだ。  ブォーというドライヤーの音が響く。  ケントの大きな手が、レオの髪を優しく梳きながら乾かしていく。  その心地よい温風と、頭皮を撫でる指先の感覚に、レオは目を細めて完全に身を委ねていた。  手持ち無沙汰になり、テーブルに置いてあったスマホを手に取る。  画面をスワイプして、今日撮った写真を見返した。  眩しいほどの青空と、どこまでも続く海。  波打ち際の白い泡。  溶けかけのアイスキャンディーと、背景の水平線。  そして。  数枚スワイプした先に現れたのは、レオがこっそりと隠し撮りした、砂浜に立つケントの後ろ姿だった。  広い肩幅。風に揺れるシャツ。  未来を見据えるような、頼もしい背中。 (沖縄か……楽しみだな)  写真を見つめながら、レオは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。  毎日続く、息の詰まるような受験勉強。  プレッシャーと不安で、押しつぶされそうになる夜もある。  それは、ケントも同じだろう。  でも、この苦痛で退屈な日々の先には、二人で笑い合える、最高に楽しい未来が待っているのだ。  この背中と一緒に。  この熱い体温と一緒に。  そう思えば、先の見えない受験という暗いトンネルも、少しだけ。  あと少しだけ、頑張ろうと思えた。  ドライヤーの音が止まる。   「乾いたぞ」 「ありがと」  レオが振り返って微笑むと、ケントはテーブルの上の自分のスマホを手に取り、ニヤリと笑った。 「なぁ、レオ」 「ん?」 「これ、見て」  ケントが見せてきた画面。  そこに写っていたのは、波打ち際で、冷たい水に驚いて肩をすくめ、本当に楽しそうに笑っているレオの姿だった。 「……えっ、いつの間に撮ったの!?」 「アイス買いに行く前。めちゃくちゃいい笑顔だったから、つい」  恥ずかしさで顔を赤くしてスマホを奪おうとするレオ。  それをヒラリとかわし、ケントは愛おしそうにレオの額にキスを落とした。  夏の夜は、まだ長い。  微かな潮の匂いと、シャンプーの甘い香りに包まれながら。  二人は再び、ゆっくりと、何度目かの甘い口付けを交わした。

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