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第45話 オレが守りたかった
高校三年生、十月。
窓の外から吹き込む風は日ごとに冷たさを増し、秋の深まりを告げていた。
しかし、レオがいる特別進学科の教室には、季節の風情を感じる余裕など微塵もなかった。
そこに澱んでいたのは、息が詰まるほどに最悪な空気だった。
大学受験の本番まで、あと数か月。
誰も彼もが限界だった。
心から一切の余裕が削ぎ落とされている。
かつては賑やかだった休み時間も、今は驚くほど静まり返っている。
教室を満たすのは、分厚い参考書を捲るカサカサという乾燥した音。
そして、重苦しいシャーペンの芯が紙を擦る音だけ。
以前なら他愛のない雑談で笑い合っていたクラスメイトたちも、今は一様に険しい顔で机に向かい、文字の海に溺れている。
最近では、模試の結果が思うように振るわなかった女子生徒が、張り詰めた糸が切れたように席で声を押し殺して泣き出すこともあった。
誰も笑わない。
誰も他人を気遣う余裕がない。
ただ己の未来という見えない怪物に怯え、周囲を気にする余裕すら失っていく。
そんな息苦しい時期だった。
そして、追い打ちをかけるように、新たな模試の結果が返却された。
教室の空気は、さらに一段と重さを増していく。
プリントされた数字や、無機質な判定のアルファベット。
それを見て、一瞬で顔色を土気色に変える者。
絶望したように机に突っ伏し、ピクリとも動かなくなる者。
あちこちから、地を這うようなため息ばかりが聞こえてきた。
レオもまた、自分の手元にある成績表に目を落とした。
第一志望の欄。
そこには「K大」の文字。
そのすぐ横に印字された判定は。
「A」
思わず、胸の奥に溜まっていた息をそっと吐き出した。
よかった。
本当に、本当によかった。
張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けていく。
これまでの地道な隙間時間の積み重ねが、確かに形になっていた。
小さな安堵が、冷え切った身体にじわりと染み渡っていく。
ふと横を向くと、隣の席のカズが、魂が抜けたような顔で机に突っ伏していた。
「……人生終わったかも」
「まだ終わってないよ、カズ」
「いや、終わった。おれの受験ロードはここでゲームオーバーだ」
「まだ本番の試験、受けてすらないでしょ」
「……それもそうだけどさぁ」
カズは顔を半分だけ机に押し付けたまま、およそ元気とは程遠い、掠れた声で呟いた。
全然元気じゃないその声に、レオは困ったように苦笑しながらも、少しだけ胸が痛んだ。
休み時間になっても、教室の静寂は破られない。
レオは気を取り直し、次の授業に備えて参考書を開いていた。
英文を頭に滑り込ませようと集中を高めていく。
すると。
「ねえ、水澄くん」
突然、上から鋭い声が降ってきた。
顔を上げると、そこに立っていたのは佐野萌香だった。
同じクラスではあるが、特段仲が良いわけでもない。
これまでにまともに話した記憶すらほとんどない女子生徒。
「K大の判定、Aなの?」
その瞬間、レオの表情が凍りついた。
萌香の声は、静まり返った教室の中で妙に大きく響いた。
その言葉に反応して、周囲の何人かのクラスメイトたちの視線が、一斉にこちらへ向くのが肌で分かった。
まずい、と思った。
お願いだから、そんなことをこの緊迫した教室で、大きな声で言わないでほしい。
この時期の模試の判定は、あまりにもデリケートだ。
人によっては、深く心を傷つける凶器になり得る。
レオは引きつりそうな表情をどうにか抑え、曖昧な苦笑を浮かべた。
「……まあ、たまたまだよ」
それだけ言って、これ以上の追及を避けるためにその場を離れようと、腰を浮かせかける。
しかし。
萌香は退かなかった。
それどころか、さらに声を張り上げる。
「え、すごーい!」
わざとらしいほどに甲高い声。
レオの背筋に、嫌な汗が伝わった。
強烈な嫌な予感が、胸の奥で黒く渦巻き始める。
そして、萌香は悪意に満ちた笑顔のまま、決定的な言葉を口にした。
「ケントと付き合いながら、勉強も頑張ってるんだね」
世界が止まった。
静まり返っていた教室が、さらに嘘のように水を打ったように静まり返る。
空気の流れさえなくなったかのような錯覚。
レオの思考も、完全に停止した。
「ねえねえ」
萌香は楽しそうにクスクスと笑っている。
けれど、その目は一切笑っていなかった。
「ケントとはどこまでいったの?」
キスはした?
えっちもしてる?
ケントってああ見えて、すっごく優しいよねー。
ざわっ、と。
一拍遅れて、教室の空気が生々しく揺れた。
レオの全身の体温が、急激に下がっていく。
冷たい血が全身を巡るような感覚。
ただ、耳の奥で、自分の心臓の音だけがうるさいほどにドクドクと鳴り響いていた。
なんで。
どうして。
彼女がそのことを知っているのか。
ケントと付き合っていることは、学校では絶対に秘密にしていた。
誰にも、言っていないはずだったのに。
「──おい」
地を這うような、低く冷徹な声が響いた。
教室の後ろの席からゆっくりと立ち上がったのは、ハルだった。
その鋭い目には、明確な怒りの色が宿っている。
「人のプライベートにずかずか踏み込むなよ」
ハルの威圧感に、教室が再び凍りつく。
萌香は一瞬怯んだように見えたが、すぐに顔をしかめてハルを睨み返した。
「別に質問しただけじゃん」
「質問なら何聞いてもいいわけじゃないだろ」
ハルは一歩も引かない。
その背中が、レオの視界を遮るように立ちはだかる。
レオは机の下で、自分の両手をきつく握り締めた。
止めようもないほど、指先がガタガタと震えていた。
逃げたい。
今すぐ、この場から逃げ出したい。
でも。
(ここで逃げたら、おれは……)
逃げたくない。
ケントとのことを、おれ自身が否定するような真似だけは、絶対にしたくない。
ゆっくりと立ち上がる。
クラス全員の視線が、自分に突き刺さるのを感じる。
怖い。
息が詰まりそうだ。
それでも、声を振り絞った。
「……櫻井くんと付き合ってるのは、本当だよ」
教室が、再び大きくざわめく。
レオは萌香の目を真っ直ぐに見つめ、言葉を続けた。
「でも」
声が少し震える。
それを必死に抑え込む。
「悪いことしてないし、佐野さんには関係ない話だから」
萌香の顔が、プライドを傷つけられたように醜く歪んだ。
そして、周囲の視線に耐えかねたように、吐き捨てるように言った。
「悪いとは一言も言ってないもん」
笑う。
でもその笑顔は完全に引きつっていた。
「ただ」
「やっぱり男同士って、ちょっと気持ち悪いなぁーって思って」
「それだけ!」
ヒステリックな声を残して。
萌香は激しく教室のドアを開け、そのまま飛び出していった。
後には、耐え難いほどの沈黙が残された。
数秒。
誰も何も言わない。
けれど、その場にいた全員が、瞬時にすべてを理解していた。
今の萌香の言葉は、ただの理不尽な八つ当たりだということを。
萌香とレオは、同じK大学を志望していた。
しかし、二人の模試の判定は大きく違っていた。
そして。
萌香はずっと前から、スポーツ科の櫻井ケントのことを特別な目で追いかけていた。
誰も口には出さない。
けれど、みんな分かっていた。
ハルが深くため息をつき、レオの元へ歩み寄る。
「大丈夫?」
レオは、引きつりそうな唇を必死に動かし、小さく頷いた。
でも。
本当は、全然大丈夫なんかじゃなかった。
心臓はまだ、痛いほど脈打っていた。
帰宅後。
どのようにして家に帰ったのか、ほとんど記憶になかった。
部屋へ直行する。
カバンを床に放り出し、そのままベッドへと倒れ込んだ。
仰向けになり、天井をじっと見つめる。
『気持ち悪い』
その言葉が、頭の奥で何度も何度もリフレインする。
今までだって、分かっていたはずだった。
世間には、自分たちのような関係をそう思う人がいることくらい。
覚悟の上で、ケントの手を取ったはずだった。
でも。
実際に面と向かって刃物のように言われるのは、全く訳が違った。
胸が、引き裂かれるように痛い。
これ以上視界が滲まないように、ぎゅっと強く目を閉じる。
すると。
ガチャ。
階下から玄関の開く音が聞こえた。
時計を見る。
まだ夕方の早い時間だ。
ショウとリサは会社にいる時間のはず。
早い。
じゃあ、ケント?
いや、今日はケントは塾の日のはずだった。
数分後。
レオの部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
「レオ……っ!」
そこに立っていたのは、ケントだった。
制服のネクタイを少し緩め、息が少し上がっている。
額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
ベッドから身を起こしたレオは、驚きで目を丸くする。
「塾は?」
「休んだ」
「え」
「五島から聞いた」
ケントの口から出た名前に、レオの胸の奥が、じわりと熱くなった。
ハル。
連絡してくれたんだ。
ケントは一歩で距離を詰めると、ベッドの横に乱暴に腰を下ろした。
そして。
何も言わずにレオの身体をぎゅっと抱きしめた。
力強く。
折れてしまいそうなほど。
二度と離さないと誓うように。
「ごめん」
耳元で聞こえる、悔しそうな声。
レオはゆっくりと首を振る。
ケントの広い背中に、そっと手を回す。
「なんでケントが謝るの」
「嫌な思いさせた」
「ケントのせいじゃない」
静かな声。
それは100%、レオの本心だった。
少し沈黙が流れる。
レオは、ケントの肩にそっと額を預ける。
彼の体温と匂いが、凍りついていた心をじんわりと溶かしていく。
「びっくりはした、怖かった」
「うん」
「でも」
小さく笑う。
「ケントと付き合ってるって言ったことは後悔してない」
ケントが顔を上げる。
ハッとしたように琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「ハルも助けてくれたし」
「うん」
「みんな何も言わなかったし」
少なくとも。
クラスの誰も笑わなかった。
誰も否定しなかった。
あの最悪な受験期の教室の中で、みんなが萌香の悪意を冷ややかに見つめていた。
それだけで、十分だった。
ケントは唇を噛む。
悔しそうに。
「オレが守りたかったのに」
隣にいてやれなかったのが、クソほど悔しい。
そう言って、さらに強く抱きしめてくる。
レオは少し苦しそうに、けれど幸せそうに笑った。
「苦しい」
「ごめん」
離さない。
全然離さない。
執着を込めて抱きしめてくる。
レオはその腕に自分の手を重ねる。
温かい。
安心する。
そして。
ぽつりと言った。
「ちょっと前のおれだったら」
「うん」
「消えたくなってたかもね」
本音だった。
中学の頃。
高校一年の頃。
孤独だった自分。
あんなことを言われたら。
何日も引きずっていたと思う。
もしかしたら学校に二度と行けなかったかも。
でも。
今は違う。
ハルもカズもいる。
ショウがいる。
リサもいる。
そして何より。
ケントがいる。
助けてくれる人がいる。
味方がいる。
だから。
レオは静かに目を閉じる。
「大丈夫」
小さく言う。
「ケントがそばにいてくれればいい」
ケントが息を呑む音が聞こえた。
あまりの言葉の重みと愛おしさに、しばらく何も言えなくなってしまったようだった。
そして。
耐えきれないというように、レオの髪に顔を埋めた。
「それ反則」
「何が」
「好きすぎる」
レオは少し笑った。
胸の奥から込み上げる愛おしさに。
ケントも諦めたように、愛おしそうに笑う。
窓の外では秋の風が吹いていた。
受験まであと少し。
不安もある。
怖いこともある。
それでも。
繋いだ手を離さない二人はもう、決して一人じゃなかった。
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