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第46話 レオだから
翌日、昼休み。
喧騒に包まれる校舎。
どこからか笑い声が聞こえる。
食堂へ急ぐ足音。日常の風景。
けれど、櫻井ケントの心は冷え切っていた。
特進科の並ぶ、静かな廊下。
ケントは壁に寄りかかり、じっと前を見据えていた。
昨日の夜。
五島から事の顛末を聞いてから、一睡もできなかった。
怒りで。どうしようもない悔しさで。
そして何より。
レオがどんな顔で、あの残酷な言葉を聞いていたのかを想像して。
胸の奥に、鉛のように重い塊が居座っている。
あの場にいられなかった自分が憎かった。
守りたかったのに。
一番傷ついているはずのレオは、ケントの腕の中で「大丈夫」と笑ったのだ。
その健気さが、さらにケントの心を締め付けた。
だから。
今日はどうしても、話をつけなければならなかった。
廊下の向こう。
教室から出てくる女子生徒の集団。
その中に、佐野萌香の姿を見つける。
向こうも、すぐにケントの存在に気づいた。
「ケント……!」
萌香の顔が、ぱっと明るくなる。
少し嬉しそうな、期待を含んだ顔。
無理もない。
他クラスのケントが、わざわざ自分を待っていたのだから。
でも。
彼女の足は、数歩進んでピタリと止まった。
ケントの表情を見たからだ。
いつもと違う。
周囲を和ませる、いつもの気さくな笑顔はない。
怒鳴ってもいない。
ただ、底冷えするほど静かだった。
琥珀色の瞳には、一切の感情が浮かんでいない。
それが、逆にひどく恐ろしかった。
「……少しいい?」
低い声。
拒否を許さない響き。
校舎の隅。
人気のない、薄暗い階段の踊り場。
窓から差し込む光が、二人の足元に濃い影を落としている。
萌香は、防衛本能からか、きつく腕を組んだ。
「急にどうしたの。こんなところに呼び出して」
強がるような声。
ケントは、萌香の目を真っ直ぐに見据えた。
逃げ場を塞ぐように。
「昨日のこと、聞いた」
萌香の顔が、僅かに強張る。
組まれた腕に力が入る。
「……」
「レオに、言ったんだってな」
静かな詰問。
萌香は、少しだけ顎を上げた。
「……だって、本当のことじゃん」
まだ、悪びれていない。
自分が正しいと、必死に思い込もうとしている。
ケントは、一度深く目を閉じた。
深呼吸。
冷たい空気を肺に入れる。
怒鳴らない。
感情に任せて怒りをぶつけない。
それは、何の解決にもならない。
それでも、目を開けたケントの声は、氷のように冷たかった。
「オレ、お前に言ったよな」
「……」
「誰にも言わないって、約束だったはずだ」
萌香が、ふっと視線を逸らした。
床の染みを見つめる。
その反応だけで、十分だった。
約束を破った自覚はあるのだ。
ケントがレオと付き合っていること。
それを偶然知ってしまった萌香に、ケントは口止めをしていた。
でも。
彼女は納得していない。
「だって……」
萌香が、震える唇を開く。
「なんで?」
「?」
「なんで、萌香じゃダメだったの?」
初めて、彼女の声が震えた。
強がりが剥がれ落ちる。
「中学生の頃から、ずっと好きだった」
「……」
「ずっと、ケントのこと見てた」
「……」
「何回も告白したのに」
ぽろり、と。
目尻から涙がこぼれ落ちた。
「なのになんで……」
そして。
抑え込んでいた感情が、一気に決壊した。
「女の子と付き合って、結婚して、家庭を持つのが普通じゃん!」
悲痛な叫び。
静かな階段の踊り場に、鋭く響き渡る。
「なんで……水澄くんなの!?」
沈黙。
萌香は肩を上下させ、荒い息を吐いていた。
涙が次々と頬を伝う。
ケントは、しばらく何も言わなかった。
怒っている。
腹の底から、煮えくり返るような怒りを感じている。
でもその怒りは、萌香という人間を完膚なきまでに叩きのめし、傷つけたいからじゃない。
愛するレオの尊厳を、理不尽に傷つけられたからだ。
やがてケントは静かに、けれどはっきりと口を開いた。
「普通、とか」
「……」
「男だからとか、女だからとか」
「……」
「そんなの、オレの気持ちには関係ない。そういうので決まるもんじゃない」
萌香が、涙に濡れた顔を上げる。
ケントの瞳に、迷いは一切なかった。
ただの一度も。
「レオだから、好きになったんだ」
短い言葉。
装飾のない、純粋な真実。
でも。
それが、ケントのすべてだった。
「もしレオが女だったとしても」
「……」
「たぶん、レオを好きになってた」
「……」
「レオだったから好きになった。それ以外の理由は、ない」
萌香は、何も言えなくなった。
圧倒的な、揺るぎない熱量。
そこに入り込む隙など、最初から一ミリもなかったのだと思い知らされる。
ケントは、言葉を続ける。
「お前が悪い人間だとは、オレは思わない」
本心だった。
好きな人に振られるのは辛い。
嫉妬で狂いそうになる気持ちも、分からないでもない。
十代の、不器用な恋心。
でも。
だからといって。
自分の痛みを、無関係な誰かを傷つけていい免罪符にしてはならない。
「昨日」
ケントの声が、さらに一段低くなる。
「レオ、すごく傷ついてた」
萌香が、小さく息を呑む。
「……」
「教室では平気そうにしてたらしいけど」
「……」
「本当は、死ぬほど傷ついてた」
昨日の夜。
ベッドに座っていたレオの顔。
無理をして笑った、あの切ない表情。
「消えたくなってたかもね」と呟いた声。
今も、ケントの頭から離れない。
ケントは、両手の拳を強く握り締めた。
「お前に、レオへ謝れとは言わない」
萌香が、ハッとして顔を上げる。
「謝ってほしいわけじゃない」
謝罪なんて、レオは求めないだろう。
むしろ、また余計な気を遣って、心を開かなくなるかもしれない。
だから。
ケントはゆっくりと首を振った。
「その代わり」
萌香の目を、まっすぐに見つめる。
絶対に、逃がさないように。
「二度と、アイツを傷つけるな」
鋭い刃のような言葉。
萌香の肩が、ビクッと震えた。
「……」
「オレから言いたいのは、それだけだ」
沈黙。
ひたすらに重く、長い沈黙。
やがて。
萌香が、ぽつりと小さく呟いた。
「……最低、だね」
ケントは答えない。
「私」
手の甲で、乱暴に涙を拭う。
「ほんと、最低だ」
自分でも、痛いほど分かっていたのだ。
あれが、ただの醜い八つ当たりだったこと。
悔しくて。
苦しくて。
自分の報われない気持ちのやり場がなくて。
でも。
関係ない人を、一番卑怯な言葉で傷つけた。
萌香は、深くうつむいた。
「……もう、しない」
消え入るような、小さな声。
その言葉を聞いて。
ケントは少しだけ、張り詰めていた表情を緩めた。
「……なら、いい」
それだけ言って、背を向ける。
階段を上っていく。
振り返ることはない。
その広い背中を見つめながら。
萌香は、どうしようもない絶望とともに思った。
負けたんだ。
全部。
水澄レオに。
学力や、志望校の判定でも。
人としての、器の大きさでも。
そして。
櫻井ケントの中での、絶対的な特別さでも。
私なんかじゃ、勝てるわけがなかったんだ。
その日の放課後。
特進科の授業が終わり、校舎は静けさを取り戻していた。
レオは、昼休みの出来事など何も知らないまま。
いつものように、教室の隅の席で参考書を開いていた。
部活を終えたケントは、まっすぐにレオの教室へと向かった。
静かな空間。
視線の先。
窓際の席に、レオを見つける。
ブラインドの隙間から差し込む、柔らかいオレンジ色の夕陽。
光の筋が、レオのサラサラとした髪を照らしている。
ノートに向かう、真剣な横顔。
時折、ペンを走らせる音が小さく響く。
昨日、あんなひどいことがあったのに。
心が折れそうになったはずなのに。
それでも、自分の夢に向かって、静かに前を向こうとしている。
本当に、強い。
脆くて、不器用で、でも誰よりも芯が強い。
ケントは、愛おしさが込み上げて、思わずふっと笑った。
足音を立てずに近づく。
気配に気づいたレオが、顔を上げた。
「ケント……。なに?」
少し不思議そうな、でも嬉しそうな顔。
昨日までの暗い影は、少しだけ薄れている。
「いや」
ケントは小さく首を振る。
そして。
教室の静寂を破らないように。
誰にも聞こえないくらい、小さな声で囁いた。
「好きだなって、思って」
不意打ち。
レオの目が、パチクリと瞬きをする。
そして。
みるみるうちに、白い耳の先だけが真っ赤に染まっていった。
照れ隠しのように、レオが視線を落とす。
夕陽に照らされた二人の影が、机の上でそっと重なっていた。
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