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第48話 愛の結晶

 十一月。  平日。  昼過ぎ。  枯葉を巻き上げる冷たい風が、窓ガラスを微かに揺らしていた。  リサは会社を早退した。  朝から、どうにも体調が優れなかった。  胃の奥から込み上げる、波のような吐き気。  鉛でも飲み込んだかのような、重いだるさ。  パソコンのモニターを見つめても、文字が滑って全く集中できない。  最初は、ただの風邪かと思った。  急に冷え込んできたせいだと。  でも。  心のどこかで、違う気がしていた。  帰り道。  駅前のドラッグストアに寄る。  冷たい風にコートの襟を合わせながら、店内へ。  目的の棚の前で、少しだけ立ち止まる。  手を伸ばすのを、一瞬躊躇った。  逃げるように会計を済ませて。  誰にも見られないように、バッグの奥深くへしまい込む。  妊娠検査薬。  心当たりが、ないわけじゃない。  そういえば最近、生理が来ていなかった。  もともと不順気味な体質だ。  仕事のストレスだろうと、今日まで深く気にしていなかった。  避妊も、きちんとしていたはずだった。  ケントとレオが高校を卒業し、無事に巣立つまでは。  それまでは、二人で彼らの生活を支えよう。  ちゃんと計画的に。  そう、ショウと話し合って決めていたから。  家に帰る。  誰もいないリビング。  時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。  静かだった。  冷え切った手を擦り合わせながら、洗面所へ向かう。  パッケージを開ける。  説明書を、何度も何度も繰り返し読む。  文字が頭に入ってこない。  手が、微かに震えていた。  結果が出るまで。  たった数分。  それが、永遠のように長く感じられた。  洗面台の縁を強く握りしめ、目を閉じる。  そして。  ゆっくりと目を開けた。  白い小窓。  一本の線。  そして。  はっきりと浮かび上がる、もう一本の赤い線。  陽性。  リサは、大きく目を見開いた。  息をするのも忘れて、しばらく動けなかった。  視界が揺れる。  それから。  ゆっくりと、両手で口元を押さえる。  笑った。  自然に。  とめどなく、頬が緩んだ。  どうしよう。  赤ちゃん。  この、私のお腹の中に。  愛するショウとの子供が、いる。  嬉しかった。  胸の奥から、温かいものがじんわりと広がり、いっぱいになる。  奇跡だと思った。  けれど。  その温かい感情は、長くは続かなかった。  次の瞬間。  冷や水を浴びせられたような、真っ黒な感情が押し寄せてきた。  不安。  ショウと付き合う前。  自分は決して、真面目な恋愛ばかりをしてきたわけじゃない。  荒れていた時期があった。  自暴自棄になって、同時期に複数の男性と関係を持っていたこともある。  ショウは、それをすべて知っている。  隠さなかった。  付き合う時、自分の汚い過去も全部話した。  ショウは、それらを丸ごと受け止めてくれた。  でも。  もし。  もし、ショウが。 『本当に、俺の子?』  そう思ったら。  もし一瞬でも、疑いの目を向けられたら。  証明できるものなんて、今の私には何もない。  避妊もしていたのだ。  可能性を完全に否定できる絶対的な証拠がない。  過去の自分の行いが、鋭い刃となって今の自分に突き刺さる。  急に、呼吸が浅くなる。  心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。  フラフラとリビングへ戻り、ソファへ崩れ落ちるように座った。  全身の力が抜ける。  震える手で、お腹に触れる。  怖かった。  こんなにも嬉しいはずなのに。  愛する人の子供を授かったのに。  過去の自分が、この幸せな未来を壊してしまうかもしれない。  恐怖で、涙が出そうだった。  夕方。  ガチャ、と玄関の開く音がした。 「ただいま」  レオだった。  真っ直ぐにリビングへ入ってくる。  そして、ピタリと足を止めた。  ソファにうずくまるリサの姿。  平日の、この時間にいるはずのない人がいる。  しかも。  酷く顔色が悪い。 「……リサさん?」  レオの静かな声。  リサはハッとして顔を上げる。  心配をかけまいと、無理に笑おうとした。  でも、頬の筋肉が強張って、うまくいかなかった。  引き攣った、泣きそうな顔になってしまう。  レオは、何も聞かなかった。  リサの様子をじっと見て、少しだけ考えるように伏し目がちになる。  そして。 「……部屋で休んだ方がいいよ。暖かくして」  ただ、それだけを優しく言った。  リサは小さく頷く。 「ごめんね……そうする」  レオは、それ以上は一切踏み込んでこなかった。  寝室のベッドに横たわる。  不安で押しつぶされそうだった。  しばらくして。  コンコン、と部屋のドアが控えめにノックされる。 「はい……」  ドアが開く。  制服姿のレオが立っていた。  手には、小さなトレー。  その上には、湯気の立つマグカップが乗っていた。 「お茶。温まると思う」 「……ありがとう」  身体を起こし、カップを受け取る。  温もりが、冷えた手のひらにじんわりと伝わる。  レオはすぐに背を向け、去りかけて。  ドアを閉める直前、少しだけ振り返った。 「それ、デカフェだから」  それだけ言って。  パタン、と静かにドアを閉めて出ていった。  リサは、目を丸くした。  手元のマグカップを見つめる。  デカフェ。  カフェインレス。  つまり。  気付いているのだ。  レオは、私のこの様子だけで、すべてを察した。  なぜ早退したのか。  何を抱えているのか。  でも、何も聞かない。  何も言わず、ただ一番必要な気遣いだけをそっと置いていってくれた。 (優しい子だな……)  リサの目から、ほろりと涙がこぼれた。  温かいお茶を、ゆっくりと口に含む。  冷え切っていた身体が、少しだけ解れていく気がした。  夜。  ガチャッ!バンッ!!  玄関のドアが、壊れそうなほど勢いよく開いた。 「リサ!!」  ショウだった。  ドタドタと乱暴な足音を立てて、寝室へ飛び込んでくる。  スーツは乱れ、ネクタイはひん曲がっている。  会社から、文字通り走って帰ってきたらしい。  肩で大きく息をしている。 「大丈夫か!?」  ベッドに駆け寄り、第一声がそれだった。  レオから連絡でも受けたのだろう。  必死な形相のショウを見て。  リサは思わず、ふっと笑ってしまった。 「大丈夫よ。風邪じゃないから」 「風邪じゃない? じゃあ、どこか痛いのか? 病院行くか!?」  慌てふためくショウ。  リサは少しの沈黙の後。  ベッドのサイドテーブルから、あの白いプラスチックの棒を取った。  そして。  震える手で、ショウに見せる。  ショウの動きが、ピタリと止まる。  固まる。  数秒。  さらに数秒。  瞬きすら忘れて、その二本の赤い線を凝視している。  理解が追いついた瞬間。 「……え」 「うん」 「え……!?」 「うん」 「ほ、本当に!?」 「本当に」  ショウの顔が、一気に明るく弾けた。  信じられないくらい。  世界中のすべての光を集めたように、嬉しそうに。 「やった……!! すごい!男の子かな!?」 「まだ分からないわよ。女の子かもしれないし」 「女の子か! うわ、絶対可愛い! どうしよう、名前考えなきゃ!」 「気が早いわよ」  リサがクスクスと笑う。  ショウも、大きな声で笑う。  寝室が、一気に明るい空気に包まれた。  でも。  リサは笑顔のまま、聞いた。  お腹の底に沈めていた、あの黒い不安。  少しだけ、声が震える。 「……ねえ」 「ごめん、騒がしくして。まだ具合悪い?」 「疑わないの?」  ショウは、きょとんとして首を傾げた。 「何を?」 「その子が……」  言葉に詰まる。  過去の自分が、喉を塞ぐ。 「本当に、あなたの子かって」  空気が止まった。  ショウは、ピタリと黙った。  リサの心臓が、痛いほど跳ねる。  見捨てられるかもしれない。  そんな恐怖。  ショウは、ゆっくりとベッドの縁、リサの隣へ腰を下ろした。  そして。  震えるリサの小さな両手を、自分の大きな手でしっかりと握りしめた。  温かい。  包み込むような、絶対的な温もり。 「……疑う余地なんて、どこにあるんだよ」  当たり前みたいに。  呼吸をするのと同じくらい、自然に言った。 「でも……私、昔……」 「リサ」  ショウが、リサの言葉を遮る。  そして、笑った。  過去のすべてを許し、愛し抜く。  底抜けに優しい、大人の男の笑顔だった。 「俺がお前を信じないで、誰が信じるんだよ」  その言葉に。  張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。  涙が出た。  もう、我慢できなかった。  ぽろぽろと、大粒の涙がシーツに落ちる。  声を上げて泣くリサを、ショウは力強く抱き寄せた。  広い胸に顔を埋める。  ショウの匂いがして、心から安心した。 「……ありがとう」  泣きじゃくりながら、リサが絞り出す。 「こっちの台詞だ。俺を父親にしてくれて、ありがとう」  ショウが、リサの髪に顔を埋めて囁く。  その声も、少しだけ震えていた。  二人の間に。  まだ見ぬ、小さな命がある。  小さくて、か弱くて、かけがえのない命。  これから先。  不安もあるだろう。  きっと、想像以上に大変なこともあるはずだ。  それでも。  この深い愛で結ばれた二人でなら。  そして、あの不器用で優しい弟たちと一緒なら。  どんな壁でも、絶対に乗り越えられる気がした。  窓の外。  夜の街の灯りが、冷たい風の中で静かに瞬いている。  新しい家族を待ちながら。  二人はきつく抱き合ったまま、改めて、これから先も共に歩いていくことを誓い合った。  二人を包む寝室の空気は、どこまでも甘く、温かかった。

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